夜襲/8


刑罰執行軍下士官・ヒセツ・ルナは、夜陰にまぎれて再び奈落邸へと向かっていた。

二日間思案を重ねてみたが、結局、奈落に刑罰を下す有効な手段は見出せなかった。どれだけ頭脳を働かせて、どれだけ作戦を立案してみても、予想される結末は不変でありどれもヒセツの敗北に帰結した。もはや正攻法で勝つ事は叶わない。歯噛みする思いでそう結論を下したヒセツは、夜襲の決行を決めた。良心が激しくそれを咎めたが、

「もう、手段なんか選んでられないのよ……」

いくら奈落でも、就寝時間に襲撃されてはその実力を発揮できないだろう。寝起きの思考は霧がかかり、布団を被った身体は対応を遅らせる。つまりヒセツは、一手先をいける――はずだ。この方法だけが、唯一勝利を勝ち取れる可能性を残していた。

「自責なんてのは、刑罰執行後にいくらでもすればいいのよ。さあ集中しなさい、ヒセツ・ルナ」

自分に言い聞かせるように言って、意気込みの一歩を、強く大地に踏み下ろした、その瞬間だった。

ふと、ヒセツは音を殺して進む足を止めた。

一瞬、視界の端に映りこんだ影があった。すぐに曲がり角の向こうへその姿を消してしまったが、見間違いなどでは決してない。定期検査では視力に問題はなかった。

ヒセツは首を傾げた。時刻は深夜二時を五分過ぎているというのに、誰が外出しているのだろう。人目を忍ぶ泥棒か浮浪者か、とたちまち犯罪と結び付けてしまうのは、彼女の刑軍たる所以だろうか。

刑軍として、深夜の徘徊は注意すべきだろう。ヒセツは足先を変えた。奈落への夜襲は優先すべき事項だったが、大勝負ゆえ、なるたけ懸念は少なくしておきたかった。

人影が消えていった角を曲がると、先と同様に一瞬だけそれが映った。映った影は入れ違いになるように路地からまた別の路地に入り込み、ヒセツの視界から逃れてしまう。

忍び足でゆっくり進みながらも、慌てて後を追った。

冷たく撫でるような風が、前方から声を運んできた。ヒセツは咄嗟に眼を閉じ耳を澄ませる。だが、まだ距離がありすぎるようだ。はっきりとは聞き取れなかった。しかしそれが幼い少女によるものとは判別できた。

歩きながら話しているのか、声は数秒もしないうちに聞こえなくなった。が、ヒセツはそれを追おうとしなかった。追跡を諦め奈落の所へと進路を修正したのかといえば、それも違った。ヒセツはその場であごに手をあて、緊張に口を引き結んだ。

おかしい――妙な違和感を感じる。

よく聞き取れなかったが、それは確かに会話だった。話題を向ける言葉もあれば、それに答える声もあった。そう、人は二人以上いるはずだ。

にもかかわらず、それらの声はどちらも全く同じ声だった。酷似しているとか、声変わりする以前の幼い声だとか、そんな領域ではなかった。全く同じ声。そう、先を行く人影は、自分一人だけで会話をしている。

「どういう事かしら……?」

不審に思うと同時、ヒセツの胸中に好奇心が湧き起こる。予想不可能な事態に、彼女は身震いした。恐れからではない、武者震いだ。緊張で頬に汗が伝うも、知らず知らずのうちに、彼女の口の端はつりあがっていた。

幼い頃、彼女は「薮蛇」という言葉を、「棚からぼた餅」と同義だと思い込んでいた。

「さて、不審者は誰なのかしらね……!」

ヒセツは射るような眼差しで前を見据える。そして一歩を踏み出す。

それから三分と経たずに、声は再び耳に届いた。声の発生源は右手に位置する大きな公園だった。暗い公園をぐるりと見回す。遊具は一通り揃っていて、そのうちの一つに差し掛かった時、ヒセツの視線は固定された。ジャングルジムに、人影が二つ乗っていた。

どうやら彼女が打ち立てた一人対話説は杞憂に終わったようだ。

月を頭上に頂き言葉を交わす人影は、いずれも年端のいかぬ少女だった。一方は髪を腰まで伸ばし、もう一方はツインテールにしている。が、それ以外に相違点は見受けられなかった。

顔かたちが全く同じ彼女らを観察して、成程双子なのだと納得した。

聞き耳を立てると、どうやら二人は口論をしているらしかった。一見して部外者の干渉しにくい雰囲気が漂っていたが、ヒセツは堂々とそちらへと歩み始める。

「まったく、姉妹喧嘩はお家でしなさい、お家で」と、ぼやきながら。

そしてヒセツは二分五十四秒後に理性を失う。


「――本気なの?」

呆然と呟くラナの顔に、生気は窺えなかった。ルダの提案は、ラナにとってまさに青天の霹靂といえた。夜の冷たさも今は感じない。それだけ、ルダの言葉は衝撃的に過ぎた。

確認というよりも否定を求めるラナの問いに、しかしルダは自信を持って肯定した。

「もちろん本気よ。――ルードラントのとこに戻ろう?」

そうして一拍を置いてから、不出来な子供に言い聞かせるようにして、ルダは繰り返す。

「改めて考えれば簡単な事じゃない。私達はルードラントに必要とされてんの。だったら、そこが私達の居場所なのよ。帰るべき場所なのよ」

「あの人はボクを捨てたんだよ!?」

ラナは悲鳴を上げる。叫びに呼応して、記憶の奔流が悪夢となってラナを襲う。ルードラントはラナを利用するだけ利用し、価値をなくした途端にゴミのように捨てた。自分の事を物のように扱う人間のところへなど、素直に戻れるわけもなかった。

ルダは苦笑する。駄々をこねる子供を諌めるように言う。

「だからそれは間違いだったって、ルードラントも認めてるのよ。戻って来てほしいって、言ってくれてるの。――わかった?」

「どうして、そんな事……」

嫌な予感がした。漠然とだが、ラナは本能のうちにそう感じていた。

ルダの様子が、どうもおかしい。眼前に笑っているのは確かにルダだというのに。自立して立っているというのに――なぜ、両足が地についていないように思えるのか。まるで、糸で吊られた操り人形の如く。そして浮かべる笑みは、笑顔の形に縫われただけの、感情の伴わない糸のようだった。

ラナの困惑をよそに、ルダは小さな手をラナの手に重ねた。

「事情が変わったのよ。事情がね。平たく言うと、ラナにも利用価値が生まれたって事」

「……ッ!!」

利用価値、という単語が放たれた瞬間だった。ラナは弾かれたようにルダの手を撥ね退け、ジャングル・ジムから飛び降りた。瞬時に理解した。彼女に感じた違和感の正体を。

小さな足で大地を踏みしめ、頭上のルダを振り仰ぐ。愛らしい口元に笑みを張りつけたままのルダを、見据える。その眼差しは、いまや怒りに満ちていた。

「絶対に言わない……ッ」噛み合わせた歯の隙間から、小さく声が漏れ出た。

「ん? 何?」と、ルダは髪をかき上げて剥き出しにした耳を向ける。

「ルダなら、ボクに利用価値なんて絶対に言わないッ!」

そう。ラナだけではない、ルダもその言葉を憎んでいた。それは二人に向けて、まるで物資への評価を下すように繰り返された言葉だった。だからその単語がどれだけ心を蝕むものなのか、ルダも身をもって承知しているはずだった。

その言葉が似合うのは――

「ルードラント……ッ!!」

吐き捨てるように、ラナはその名を口にする。身構えるように拳を握り、彼の手に染まったルダに憐みを、その向こう側に見える男の存在に怒りをそれぞれ向ける。

だがその意気は、次の刹那に消沈する。

「――呼んだか?」

唐突に、背後から、声が聞こえた。それは威圧というには程遠い、軽薄な口調だった。にもかかわらず、ラナは視界が暗転するのを確かに感じた。

その、恐怖を、何と形容すればいいのか。それこそ世界中の悲鳴を耳元で聞いたかのように、ラナの顔から一瞬にして血の気が引く。背筋が凍りつく。全身が総毛立つ。身体中の神経が痛いくらいに張り詰める。反射的に振り返ろうとする自分と、それを断固として拒否する自分とがせめぎ合う。だが彼女の動揺とは無関係に――男は、そこにいる。

「ルードラントっ」と、頭上でルダが歓喜の声を上げる。悪夢を見ているようだった。

ルードラント・ビビス。それが男の名であり、ラナにとって絶望の代名詞であった。微動だにする事も出来ないラナの肩に、男の手が気安げに乗せられる。

「悪かったな、おい。ルダの言う通りなんだよ。お前にもまた利用価値が生まれたんだ」

「ルダを……」からからに渇いた喉で、ようやくその一言だけを絞り出す。肩に置かれたルードラントの手に、力が増した。

「誤解すんじゃねえよ。和解したんだよ、そいつとは。わかるか? 和・解・だ」

わざとらしく丁寧に言ってのけるルードラントの口調には、はっきりと嘲笑が込められていた。自分の絶対的な優位を、少しも疑っていない。

ジャングル・ジムから飛び降りたルダが、危なげなくラナの眼前に着地する。彼女の無垢な瞳が、汚泥にまみれたように濁って見えた。

「賢いラナには、もうわかってるよね? 選択肢は二つだけ。私と一緒にルードラントのとこに帰るか。それとも、いまここで死ぬか。もちろん私としては、前者を選んでほしいけど」

前方には笑みを張り付けたルダ。後方には下卑た笑みを浮かべているであろうルードラント。ラナは震える足を叱咤して、背後を振り向いた。絶望に打ち克つためというよりは、これ以上ルダの顔を見ていられなかったからだ。

正面に男を見据える。

「………っ?」

ラナの表情に動揺が差す。怪訝に眉根を寄せるが――一瞬の事だ。すぐに表情を引き締める。男は年の頃三十代半ば。銀縁眼鏡の奥で光る、こちらを値踏みするような汚らわしい瞳。夜に映えるオールバックの総白髪。

尖ったあごを撫でながらこちらの答えを待つ彼に、ラナは全細胞を奮い立たせて言った。

「臆病者」と、一言。

「そいつが答えって事でいいかよ?」

眉間のしわを濃くするルードラントの問いに、ラナは肯定も否定もしなかった。

「生き残る方法を捨てるってか」

生き残る方法。それを聞いて思い出すのは、彼女を迎え入れてくれた壊し屋だった。奈落というおかしな名前をした青年は、ルードラントを壊すと言っていた。

奈落がルードラントの計画を頓挫させれば、ラナもルダも自由の身となる。束縛するものは、何もなくなるのだ。その未来は、現状考えられ得る中で、最良のハッピーエンドだ。

このまま四面楚歌の状況に甘んじるくらいなら、ボクは壊し屋・奈落に賭ける!

「ボクは――あなたよりも長生きします」

ラナの返答は、拒否を示す痛烈な皮肉だった。

少女の宣言を浴びたその男は、ぼりぼりと頭をかいて、宙を仰ぎ、腕組みし、頷いた。

「はいはい、そーいう事か。例の壊し屋か」

「………知ってたんですか」にべもなくこちらの内情を言い当られ、ラナの頬を汗が伝う。

「ルードラント舐めんなよ小娘? つまりそいつに命預けますってか」

ラナは無言。答えるまでもない。

「面白えじゃん。なら、生き残ってみろよ。その小さな身体と圧倒的に足りない経験則をフルに活かしてよ。どっちが死ぬか、でっけー賭けをしようじゃねーか。俺はギャンブルはしねーけど、自信あるぜ? だってよ、お前――」

「いきなり絶体絶命なんだから」

と、彼の言葉をルダが引き継ぐ。そんな些細な事で、僅かとはいえラナの気が緩んだ。

「我、御するは原典より在るもの――弾けよ光球」

その間隙を縫われた。腹部に押し当てられた男の手中から、熱光が放たれる。熱さや痛みよりも、まず困惑を感じた。膨張する光はラナの腹を焦がし皮を破り内臓を打撃した。

鮮血が舞う。あまりに呆気ないその光景に、現実味はなかった。内側から拡散する衝撃に身を仰け反らせ、重力に従って崩れ落ち、ラナは四肢を投げ出す形で地面に倒れた。

腹から流れ土を濡らす血を見て、ようやく痛みを感じ始める。脳を焼くような鋭く激しい痛み。声を上げて泣き喚きたかったが、口は動かなかった。

激痛から逃げるように、意識が急速に遠のいていく。

眠い。どうしようもなく抗い難い眠気が襲ってくる。薄れゆく意識の中、ラナは思う。この眠りは、死と直結するのだろう、と。そして、それは願い下げだ、とも。

だが――睡魔に抵抗する事は出来なかった。

遠いところで、誰かが叫んだ。

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