壊し屋 奈落

【セント】ral_island

序章

隻腕の英雄

さあ、今日はみんなの大好きな英雄のお話です。

そう、みんなが憧れている、あの英雄です。強く、優しく、かっこいい、伝説の英雄。


彼はたくさん伝説を残しているけど、今日はその中でも、とびきりのお話をしてあげましょう。

今から十三年前、英雄はロレンバタリァムというとても大きな国で、ある人と戦っていました。そう、悪魔と呼ばれた男――ノクァファとです。


英雄と悪魔の、国全体を巻き込んでの戦いは、三日三晩続きました。

激しい戦いの末に勝利し、剣を高々と掲げたのは、もちろん我らが英雄でした。


ところが、その代償は大きなものでした。


英雄は、その戦いで左腕を無くしてしまったのです。


ああ、みんな、哀しそうな顔をしないで……。

左腕を失った英雄は、それでも、いまでも、悪を討ち続けているのですから。

え? 他のお話? ええ、構いませんよ。でもその前に。

みんな、ちゃんと英雄の名前を覚えていますか?



――子供たちは異口同音にその名を唱えた。




火。炎。焱。燚。燃、煉。焼。熔。灼。焰。火を以って形を為す文字を全て使用したところで、眼前の光景を完全無欠に形容する事は叶わないだろう。

豪と爆ぜた音を立てながら、火は炎となり焱となり、燚となった。灼熱は毒蛇のごとく荒れ狂う暴徒と化し、赤く、熱い災いを撒き散らし、破壊者の意義のままに一帯を蹂躙する。

とうの昔に、森を構成していた木々は焼け落ち、家々を構成していた鉄は熔け崩れた。

災いは刃であり、鞭であり、拳であり――何より力であった。誰も抗う事叶わぬ絶対の力。その前では、辺境の町など無力でしかなかった。

名を挙げたところで誰もが首を傾げるような、山奥の小さな町。とは言えその整った環境からか、千人を数える住人はその地を愛していた。


そして今。時刻は深夜二時を過ぎたころ、新月の下、町は一つの例外を除いて赤く紅く染まっていた。赤く燃え上がる家々と木々。赤い血で身を染めた町人。立ち昇る災いは空すらも赤い天蓋で覆い尽くし、赤き地獄を眼前に捉える例外の瞳には、本当に全く真っ赤な赤色しか映し出さなかった。

夜の帳と地獄の赤――その境界に佇むのは、十歳に満たない少年だった。髪は焦げ、露出した肌は軽度の火傷を負い、全身に滝のような汗をかいている。彼は、まだ災いの魔手に抱かれていない木の陰で、呆然と自分の町を凝視していた。バチバチと爆ぜて宙を舞う火の粉に肌を焼かれるのにも頓着せず、ただ呆然と。


なぜこんな事になってしまったのか。


今朝まで母は生きていた。登校前には習慣であるミドロク寓話を読み聞かせてもらった。今日読んだ章は、友達の出来ないオゥレンゼブが友達をお金で蒐集する話だった。彼はお金と一緒に友達も失ってしまったけれど、最後には文字通り掛け値なしの友人関係を築いたのだ。少年はその話に安堵し、感動した。


――そう、いつものように。


いま展開しているのは、その日常を全て引っ繰り返したような光景だった。


唐突に、赤い地獄にいたずらな一陣の風が吹き抜けた。少年の焦げ付いた髪を踊らせる程度の風。それは、赤く熱い災いを消し去るにはどうしようもなく無力な風だった。が、ほんの一瞬、炎が揺れた。

災いのカーテンが揺らぐ。真っ赤な光景の向こうに、黒い影が見えた。見紛うはずもない、赤に紛れた黒。期せずして視界に飛び込んできた異端の影に目を凝らす。が、再び勢いづいたカーテンが影と少年との間に敷かれ、両者が隔絶される。


こうなっては影も助かるまい。少年は顔をうつむかせた。俯瞰の視線の先には、己の小さな足。眼前で猛る赤き光に照らされて、少年の足元に影は見えない――はずだった。


少年は目を見開く、信じがたいものを見たとばかりに。実際、それは少年の理解の範疇を超えていた。容易に信じられるはずもない。


――少年の足元に、影があった。


長く伸びた影の先を視線で追っていく。ゆっくりと、ゆっくりと。やがて視界に足が映りこんだ。自分のものではない、この影の持ち主の足。更に視線で追う。足の次に腰が、引き締まった胴が、厚い胸板が、広い肩が――そして、精悍な顔が。


少年の立つ位置から二メートルほど先に。影の持ち主であり、赤に潜んでいた黒い影である男が、災いのカーテンを抜けて、確かに立っていた。

彫りの深い顔立ち、射抜くような鋭い眼光。腰まで伸ばした赤髪。右手には赤黒い血に染まってなお銀光を放つ剣。そして――左腕を見て、少年は驚愕に目を丸くした。


災いの渦中にいたその男は、少年のよく知った人物だった。いつも学舎でその男の話を聞かせてもらった。彼は、少年の憧憬の対象であり、目標だった。

それがなぜ、こんな所で血に染まった剣を持って、自分を睥睨しているのか。


「…………………どうして?」


思わず、疑問が口をついて出ていた。赤く赤い、熱く熱い地獄を背景に立つ男。彼の名前を知っていた。今日も皆と一緒に、声を揃えてその名を口にした。


「………………どうして? カルキ・ユーリッツァ………」


それは英雄の名。彼が目標としている男の名。強く、優しく、かっこいい英雄の、誉れ高き名であると同時に、それは赤き地獄から現れた男の名でもあった。

少年の疑問に対する解答は、彼の口から紡がれる事はなかった。男――カルキ・ユーリッツァは無言の内に。少年へ向けて――剣を構えた。




彫りの深い顔立ち、射抜くような鋭い眼光。腰まで伸ばした赤髪。右手には赤黒い血に染まってなお銀光を放つ剣。



――そして。左腕が、なかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る