罪の底へ

罪の底へ/1


正義は権利の中にしかなく、権利は正義の中にない。


欠伸を噛み殺しながら時計を見ると、短針は七を、長針は一を示していた。ヒセツ・ルナは嘆息を漏らす。帰宅したのは午前三時で、就寝したのが午前四時。三十分前に起床したため、睡眠時間は三時間に満たなかった。それでもしっかりとついた寝癖を、ヒセツは忌々しく見つめた。

簡単に朝食を済ませてから洗面台に向かい、顔を洗うついでに髪を濡らす。鏡を見ながら寝癖を直そうと奮闘する。それにしても、鏡に映る自分はひどい顔をしていた。寝不足と、やりきれなさとも言うべき懸念が、専らの原因である。

昨夜の一件が、彼女の思考を占拠していた。

結論から言うと、奈落は正気を取り戻し、双子の少女は完治し、男はもう一方の少女と共に逃走し、野次馬は時間の経過と比例するように散り散りになっていった。公園での事件の真相を知るものは奈落と男以外にはおらず、ヒセツですら蚊帳の外だ。

一歩も動けなかったヒセツに対し、奈落が取った行動は一つだけだった。

今日の事は口外するなと、そう耳打ちしただけなのだ。そして少女と梟を連れて、助けようともせずに逃げていった。その態度には業腹したが、しかし追いかける体力もなく、文句を言う事も、事情を説明してもらう事も出来なかった。

奈落。彼は何者なのだろうか。状況を打開するために彼を呼んだのは、他の誰でもないヒセツ自身だ。だが、彼は事態の当事者であるかのように振舞っていた。それに何より、無視できない名前がいくつか挙がっていた。カルキ・ユーリッツァ、そしてルードラント。

前者は知らぬ者のない英雄の名であり、そして奈落を凍てつかせた名だった。理由は不明だが、奈落の弱点にも成り得る事項として、今後調査する必要があるだろう。

だが問題は後者である。ルードラントといえば、いま刑軍内部で最も関心の高い人物の一人だ。先日のルードラント製薬会社炎上事件。大規模な火事でありながら死傷者なしという奇妙な事件で、現在調査中である。当初は放火という見解が支持されたが、その後の調査で自作自演を思わせるような状況証拠が、いくつも発見されている。そして肝心のルードラントは社員含め現在も行方不明。

もしかして、とヒセツは思い、知らず、声に出していた。

「私を襲ったあの男は、ルードラントの関係者……? だとしたら、奈落もそれに関わってる可能性が高いわね。そして中心にいるのが、なぜか双子の女の子……」

曖昧ながらも、その三者は繋がるだろうという手応えがある。水面下で、魚が疑似餌を掴むように。ヒセツは寝癖を直すのも忘れて、思考に集中する。

「もしかして……奈落の近くが、一番ルードラントに近い場所なんじゃ――」

そこで思考は遮断された。小刻みに鳴る鈴の音が耳朶を打ち、ヒセツを現実に呼び戻したのだ。探らずともわかる、鳴っているのは電話の呼び鈴だった。

ヒセツは慌てて時計を見る。時刻は七時半を五分過ぎていた。それはつまり、刑軍本部への定期報告時刻を五分過ぎている事と同義だった。時間に厳粛な上司の事だ、痺れを切らして向こうから電話をかけてきたのだろう。

「あちゃあ……やっちゃったわ」

鏡の前を離れ、早く出ろと急かす電話機のもとへ急ぐ。渋面しながら受話器を持ち上げると、通話口から聞こえた声は予想に違わなかった。

「定期報告時刻を述べよ」

「……七時半です」

「現在時刻を述べよ」

「……………………………七時三十五分です」

「やる気がないなら荷物をまとめたまえ」

やる気があるから寝不足になり、やる気があるから思考に没頭していたというのに、相手はそれを知らない。理不尽と思わざるを得なかったが、報告が遅れたのも事実だった。

「申し訳ありませんでした……。やる気はあります」

「ほう。それならば、どうして壊し屋・奈落に罪を重ねさせたのかね」

「……………は?」

思わず、ヒセツは間の抜けた反応を返してしまう。彼の言葉の意味が、まるで掴めなかった。彼女の知っている限り、奈落は罪を重ねるような行為はしていない。昨夜だって、罪を犯すどころか、人助けまでしてみせた。

――まさか、私が帰宅してから何か問題を起こしたんじゃ!

だが、紡がれた言葉は想像もしなかったもので、彼女の推測を見事に裏切った。


「昨夜、君が呆けていた午前二時半頃、公園で火柱が目撃された」


受話器を落とさなかっただけ、僥倖といえるだろう。それだけ、ヒセツ・ルナの全身を走りぬけた悪寒は強烈なものだった。開いた口は、一向に塞がろうとしない。

いま、彼は何と言ったか。確かめるように、胸中で何度も反芻するが、結果は変わらない。彼の声音は聞き取りやすく、それだけに彼女には残酷ですらあった。

思い出すのは昨夜の、否、つい先程の一件。疲労困憊したヒセツを、魔法使いの男から救ってくれた奈落の顔を思い出す。あの、余裕の表情を。

電話口の相手はその一件を語りながら、しかし語ってはいない。

まさに青天の霹靂というべきその言葉を、ヒセツは理解したのだ。電話口でこれから紡がれる言葉を、もはや聞くまでもなく理解していたのだ。

すなわち――奈落の罪を。

「容疑者は壊し屋・奈落。火柱に叩き起こされた近隣住民が公園に押し寄せたようでね。男と争っていた彼の姿を、多数の人間が目撃している」

だが、それは、違う。全く、見当外れだ。的外れだ。なぜならばヒセツは真実を知っている。事情を知らない目撃者が、捻じ曲げてしまった真実を。その火柱の犯人が自分であり、駆けつけてくれたのが奈落であるという事を。

誰もが犯人は奈落だと言っている。見当違いの犯人像を、あの状況が作り出してしまったのだ。裁かれるべきは自分なのに。その罪は、ヒセツ・ルナが背負うべきなのに。

それを彼は、人々は、奈落が背負うべきものだと言う。彼女の思考は幾重にも重なり、そして飛躍していく。


もしも、彼の罪が全てそういった誤解から生じたものだとしたら。


ヒセツは問う。それは罪なのか、と。正しいのは誤解なのか、と。支持される誤解が正しく、支持されぬ真実は葬られるというのか。誰に知られる事もなく、ただひっそりと。

正義をかざす誤解は、真実に罪をなすりつける権利を持つとでも言うのか!

――違う、違う、違う、違う、違う!

ヒセツは叫ぶ。言葉にできない、胸中でしか叫べぬ否定の概念を叫ぶ。

そして、電話口の向こうで叱り付ける上司は、思わず顔をしかめる事となる。聞こえてきたのが部下の謝罪ではなく、がしゃんという落下音だったからだ。

走り出していた。ヒセツ・ルナは、意志に任せるがまま受話器を放り、玄関の扉を開け放ち、駆け出していたのだ。そうするほかなかった。

余計な思考の介入を許さぬ速さで、最短距離を疾駆する。目指すは否定を肯く場。埋められた真実を掘り返すために、行かねばならなかった。

「――聞いているのかね。返事をしたまえ、ヒセツ・ルナ・下士官。応答せよ!」

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