夜襲/6


ラナはベッドに腰掛けていた。大きな瞳は手にした文庫本を見つめている。よほど熱中しているのか、こちらへ気付いた様子もない。奈落はベッドへ歩み寄った。

「何を読んでるんだ?」

声をかけると、ラナはビクッと肩を震わせた。その際に、本が手中から滑り落ちる。驚かせたつもりは毛頭なかったが、彼女にしてみれば突然人が出現したのだから当然の反応といえる。ベッドに投げ出された本へ目をやると、タイトルには『レタスへの耽溺』とあった。成程、と奈落は思う。シルヴィアには教育が足りないのだと。

「―――――誰?」

問われ、ラナがこちらを注視していた事に気付く。向けられる瞳には、怯えの色が濃い。奈落の外見――逆立てた黒髪に、身を覆う赤黒いコート――は、あまり親しげな印象を与えないのだろう。

着替えるべきだったかと後悔しつつ、奈落はなるべく穏和になるよう努めて答えた。

「ああ……壊し屋をやってる、奈落だ」

「奈落? ……変な名前」

「放っとけ」と、棘が含まれがちな口調に、内心で舌打ちする。「ああっと……、一応こいつの――シルヴィアと暮らしてる。詳しい話は後でしてやるから、今は俺の質問に答えてくれるか」

努力の割にはいたわりも何もないぶしつけな口調だったが、ラナはしばらく迷った末に小さく肯いた。

「よし。まず、そうだな……名前は?」

既知の事実だが、奈落はあえてそう尋ねた。基本的にまずは自己紹介から始めるべきだし、万が一とはいえ、彼女がラナではなくルダである可能性も捨てきれないからだ。

「名前? ボクの?」

「他に誰がいるんだよ?」

問いを受け、少女は周囲をぐるりと見渡す。全員の視線が自分に向いている事に、彼女は僅かに身を固くした。シーツを握る手に力がこもるのが見て取れた。

「……ラナです。ボクの名前は」

奈落は頷く。頷きながら、ラナを怯えさせる悪趣味なコートを脱いだ。シャツも同様の色調だったため、彼女の緊張を解くには至らなかったが。

「ラナ――記憶がねえってのは本当か?」

記憶。その単語に、ラナは過剰に反応を示す。目を逸らしてうつむいてしまう。彼女は怯えた眼の端に涙さえ浮かべながら、蚊のなくような声で「はい」と肯定した。

その涙は記憶を失った不安によるものか。あるいは騙すための嘘に対しての良心の呵責か。残念ながら判別する術はない。が、嗚咽を洩らす彼女は、無条件に信用してやりたくなるほどに弱々しく見えた。

奈落はラナが落ち着くよう間を置いてから、問いを重ねた。

「どんなに細かい事でもいい。――覚えている事は?」

しかし、彼女は細い首を左右に振るばかりだった。

「ごめんなさい……ボク、覚えてないんです。何も、何も……思い出せないんです」

シーツを固く握り締めて、そう繰り返す彼女に、これ以上の追求は出来なかった。

だが記憶喪失は一時的なものかもしれない。何日か落ち着かせておけば、あるいはあっさりと戻る事もあるかも知れない。ラナの境遇を鑑みれば、それが思い出したくない記憶であるのは、想像に難くないが。

「そうか、まあ、仕方ねえな。何か思い出したら、また教えてくれ」

「はい……きっと、きっと話します」

奈落は仕事に関する問いを諦め、別の事を尋ねる。

「――ラナ。君は、これからどうするつもりだ?」

恐らく、トキナスは彼女の親ではないのだろう。つまり、彼女には身寄りがいないのだ。行く当てもないだろう。公的な場所ならば託児所や刑軍があるが――

「奈落様」

おもむろに、シルヴィアが思考に割り込んできた。振り向くと、彼女は無表情のまま腰に手を当てて胸を張っていた。なんとなく、自信の溢れているように見えなくもない。

不審も露に、奈落は続きを促した。

「狂喜乱舞しながら驚きください。その件で、私に名案があります」

「………………………………………………試しに言うてみ」

「ラナ様は刑軍支部の玄関に放――」

無視した。

「ほけほけ。ん、ん、んー? 身寄りのない小童かね。外は寒い。段ボールが必需品――」

無視した。

馬鹿は放っておいて話を戻そう。なおも言い寄るシルヴィアと梟を無視して、ラナへ向き直る。戯言のせいで、彼女は下される審判にすっかり恐怖していた。

奈落はふっと口元を緩め、肩をすくめた。外野を容赦なく指差しながら。

「こんな性悪使い魔だったら別だがな。行く所がなければ、しばらく家にいてもいい」

「奈落様、幼女監禁ですね」

「まあ、お前の境遇には同情するところもあるしな」

「ほほほけ。この老いぼれも流石にロリコンには目を覆うな」

「もちろん、お前がそうしたければ、だけどな」

「甘い言葉で騙して――」

「って、やっかましいわああああああっ!!」

後ろで根も葉もない事を列挙する同居人と使い魔に、奈落は裏拳を繰り出した。が、彼らは軽く身をひねるだけで難なくそれをかわす。

「さっきから人を犯罪者扱いしやがって! マジで壊してやろうかテメエらっ!?」

啖呵を切る奈落の脇で、パズが小さく「非合法だから犯罪者には違いないけどね」と呟くが無視する。対するシルヴィアは嘆くように天を仰いだ。

「嗚呼、これも宿命なのですね………分かりました。忍者・シルヴィア、堂々とお相手いたしましょう。――闇討ちで」

「堂々の気配が一切感じられねえよ!」

「残念ですが奈落様、堂々の定義は改訂されました」

「いつだよっ!」

「さっき」

「曖昧だなオイっ!」

「ほけほけ。真理は境界の間、つまり曖昧の中にこそあるでな」

「意味が分からんっ!」

「ひっく………ぐすっ………」

「泣くなっ!」

「いえ、今のは私ではありません」

「―――――あ?」

言われてみれば、シルヴィアの声音にしては幼過ぎる気がする。我に返ると、その正体は――いや、探すまでもなかった。ラナの目尻から溢れ流れる涙が、ベッドのシーツを濡らしていた。彼女は唇を噛んで、声を押し殺して泣いていた。

奈落たちの喧騒が、自然に収まる。ラナの嗚咽だけが部屋を満たした。ぽたぽたと溢れる涙は、とどまる事を知らず。涙の理由は、すぐに知れた。

唇を震わせながら、嗚咽に混じって、声にならない声で。

彼女は静かに、何度も何度も繰り返していた。

――ありがとう、と。

それを聞いて、奈落はバツの悪そうな顔になり、しかし、安堵の息をついた。

と、その場で背を向け、出口へと足を進めようとする者がいた。パズだ。奈落はシルヴィアにラナを任せて、彼の後を追った。

「帰るのか」

「うん。調べたい事もあるし。――奈落さん、見送りをお願いできるかな?」

パズの言葉に、奈落は首を傾げる。何度も家に足を運んでいるパズだが、そんな事を要求してきたのは初めてだった。無言で頷き、両者は玄関へと向かう。

玄関まで戻り、靴を履き、扉を開ける。そこまで済ませて、ようやくパズは振り返った。

「どう思う?」

向けられた問いは、唐突だった。

「どうって……ラナの事か? まあ嘘ついてるようには見えねえけど」

「あまり信用しない方がいい」

パズの言葉を理解するのに、数秒を要した。彼は笑みで顔をゆがませながら、何でもない事のように言ってのけた。だがそれは、容認し難い言葉だった。

「………どういう事だ?」

「別に根拠があるわけじゃない。ただの勘ってやつ。まあ用心するに越した事はないからね。――それじゃ、また何かわかったら連絡するよ」

そう言って、パズは奈落邸を後にする。扉の閉まる音が、やけに大きく聞こえた。

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