夜襲/6
◇
ラナはベッドに腰掛けていた。大きな瞳は手にした文庫本を見つめている。よほど熱中しているのか、こちらへ気付いた様子もない。奈落はベッドへ歩み寄った。
「何を読んでるんだ?」
声をかけると、ラナはビクッと肩を震わせた。その際に、本が手中から滑り落ちる。驚かせたつもりは毛頭なかったが、彼女にしてみれば突然人が出現したのだから当然の反応といえる。ベッドに投げ出された本へ目をやると、タイトルには『レタスへの耽溺』とあった。成程、と奈落は思う。シルヴィアには教育が足りないのだと。
「―――――誰?」
問われ、ラナがこちらを注視していた事に気付く。向けられる瞳には、怯えの色が濃い。奈落の外見――逆立てた黒髪に、身を覆う赤黒いコート――は、あまり親しげな印象を与えないのだろう。
着替えるべきだったかと後悔しつつ、奈落はなるべく穏和になるよう努めて答えた。
「ああ……壊し屋をやってる、奈落だ」
「奈落? ……変な名前」
「放っとけ」と、棘が含まれがちな口調に、内心で舌打ちする。「ああっと……、一応こいつの――シルヴィアと暮らしてる。詳しい話は後でしてやるから、今は俺の質問に答えてくれるか」
努力の割にはいたわりも何もないぶしつけな口調だったが、ラナはしばらく迷った末に小さく肯いた。
「よし。まず、そうだな……名前は?」
既知の事実だが、奈落はあえてそう尋ねた。基本的にまずは自己紹介から始めるべきだし、万が一とはいえ、彼女がラナではなくルダである可能性も捨てきれないからだ。
「名前? ボクの?」
「他に誰がいるんだよ?」
問いを受け、少女は周囲をぐるりと見渡す。全員の視線が自分に向いている事に、彼女は僅かに身を固くした。シーツを握る手に力がこもるのが見て取れた。
「……ラナです。ボクの名前は」
奈落は頷く。頷きながら、ラナを怯えさせる悪趣味なコートを脱いだ。シャツも同様の色調だったため、彼女の緊張を解くには至らなかったが。
「ラナ――記憶がねえってのは本当か?」
記憶。その単語に、ラナは過剰に反応を示す。目を逸らしてうつむいてしまう。彼女は怯えた眼の端に涙さえ浮かべながら、蚊のなくような声で「はい」と肯定した。
その涙は記憶を失った不安によるものか。あるいは騙すための嘘に対しての良心の呵責か。残念ながら判別する術はない。が、嗚咽を洩らす彼女は、無条件に信用してやりたくなるほどに弱々しく見えた。
奈落はラナが落ち着くよう間を置いてから、問いを重ねた。
「どんなに細かい事でもいい。――覚えている事は?」
しかし、彼女は細い首を左右に振るばかりだった。
「ごめんなさい……ボク、覚えてないんです。何も、何も……思い出せないんです」
シーツを固く握り締めて、そう繰り返す彼女に、これ以上の追求は出来なかった。
だが記憶喪失は一時的なものかもしれない。何日か落ち着かせておけば、あるいはあっさりと戻る事もあるかも知れない。ラナの境遇を鑑みれば、それが思い出したくない記憶であるのは、想像に難くないが。
「そうか、まあ、仕方ねえな。何か思い出したら、また教えてくれ」
「はい……きっと、きっと話します」
奈落は仕事に関する問いを諦め、別の事を尋ねる。
「――ラナ。君は、これからどうするつもりだ?」
恐らく、トキナスは彼女の親ではないのだろう。つまり、彼女には身寄りがいないのだ。行く当てもないだろう。公的な場所ならば託児所や刑軍があるが――
「奈落様」
おもむろに、シルヴィアが思考に割り込んできた。振り向くと、彼女は無表情のまま腰に手を当てて胸を張っていた。なんとなく、自信の溢れているように見えなくもない。
不審も露に、奈落は続きを促した。
「狂喜乱舞しながら驚きください。その件で、私に名案があります」
「………………………………………………試しに言うてみ」
「ラナ様は刑軍支部の玄関に放――」
無視した。
「ほけほけ。ん、ん、んー? 身寄りのない小童かね。外は寒い。段ボールが必需品――」
無視した。
馬鹿は放っておいて話を戻そう。なおも言い寄るシルヴィアと梟を無視して、ラナへ向き直る。戯言のせいで、彼女は下される審判にすっかり恐怖していた。
奈落はふっと口元を緩め、肩をすくめた。外野を容赦なく指差しながら。
「こんな性悪使い魔だったら別だがな。行く所がなければ、しばらく家にいてもいい」
「奈落様、幼女監禁ですね」
「まあ、お前の境遇には同情するところもあるしな」
「ほほほけ。この老いぼれも流石にロリコンには目を覆うな」
「もちろん、お前がそうしたければ、だけどな」
「甘い言葉で騙して――」
「って、やっかましいわああああああっ!!」
後ろで根も葉もない事を列挙する同居人と使い魔に、奈落は裏拳を繰り出した。が、彼らは軽く身をひねるだけで難なくそれをかわす。
「さっきから人を犯罪者扱いしやがって! マジで壊してやろうかテメエらっ!?」
啖呵を切る奈落の脇で、パズが小さく「非合法だから犯罪者には違いないけどね」と呟くが無視する。対するシルヴィアは嘆くように天を仰いだ。
「嗚呼、これも宿命なのですね………分かりました。忍者・シルヴィア、堂々とお相手いたしましょう。――闇討ちで」
「堂々の気配が一切感じられねえよ!」
「残念ですが奈落様、堂々の定義は改訂されました」
「いつだよっ!」
「さっき」
「曖昧だなオイっ!」
「ほけほけ。真理は境界の間、つまり曖昧の中にこそあるでな」
「意味が分からんっ!」
「ひっく………ぐすっ………」
「泣くなっ!」
「いえ、今のは私ではありません」
「―――――あ?」
言われてみれば、シルヴィアの声音にしては幼過ぎる気がする。我に返ると、その正体は――いや、探すまでもなかった。ラナの目尻から溢れ流れる涙が、ベッドのシーツを濡らしていた。彼女は唇を噛んで、声を押し殺して泣いていた。
奈落たちの喧騒が、自然に収まる。ラナの嗚咽だけが部屋を満たした。ぽたぽたと溢れる涙は、とどまる事を知らず。涙の理由は、すぐに知れた。
唇を震わせながら、嗚咽に混じって、声にならない声で。
彼女は静かに、何度も何度も繰り返していた。
――ありがとう、と。
それを聞いて、奈落はバツの悪そうな顔になり、しかし、安堵の息をついた。
と、その場で背を向け、出口へと足を進めようとする者がいた。パズだ。奈落はシルヴィアにラナを任せて、彼の後を追った。
「帰るのか」
「うん。調べたい事もあるし。――奈落さん、見送りをお願いできるかな?」
パズの言葉に、奈落は首を傾げる。何度も家に足を運んでいるパズだが、そんな事を要求してきたのは初めてだった。無言で頷き、両者は玄関へと向かう。
玄関まで戻り、靴を履き、扉を開ける。そこまで済ませて、ようやくパズは振り返った。
「どう思う?」
向けられた問いは、唐突だった。
「どうって……ラナの事か? まあ嘘ついてるようには見えねえけど」
「あまり信用しない方がいい」
パズの言葉を理解するのに、数秒を要した。彼は笑みで顔をゆがませながら、何でもない事のように言ってのけた。だがそれは、容認し難い言葉だった。
「………どういう事だ?」
「別に根拠があるわけじゃない。ただの勘ってやつ。まあ用心するに越した事はないからね。――それじゃ、また何かわかったら連絡するよ」
そう言って、パズは奈落邸を後にする。扉の閉まる音が、やけに大きく聞こえた。
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