因果は直列する/4

   ◇

状況の変化は一瞬だった。軸足の踏み込みから身を跳ね飛ばし、彼我の最短距離を詰める。対象はラナ。彼女は突然の事態に理解が追いついていない。抵抗らしい抵抗も見せられないまま、ただ瞠目するばかりだった。

どこに隠し持っていたのか、襲撃者の手にはナイフが握られていた。刃渡り十センチほどの、小さなナイフだ。だが人を殺傷するには十分な凶器と言えた。その銀色に光る刃を頭蓋に刺突すれば、あらゆる生物は即死する。容赦のない生から死への転換。一度きりの、現実味の希薄な、しかし誰にでも訪れる死の瞬間。その運び手がラナへと急迫する。

その迷いのない速攻に反応出来たのは、動きを予測していたからに他ならない。迎撃手は立ち上がると同時に身を翻し、左腕を伸ばす。開いた左手に込められる力は遠心力。動体視力が捉えた凶器の軌跡に、その拳を割り込ませる。接点で交錯するナイフをやり過ごし、その左手はその先――凶器を持った腕を捕える。

手首を握られ、ナイフの閃きが停止する。だが襲撃者は瞬時に行動を切り替えた。手首のスナップだけでナイフを投擲する。狙うはラナ――ではない。

眼前に肉薄してくるナイフを、僅かに背中を反らす事で回避する。舌打ちする。その投擲には勢いがなかった。もともとこちらの殺傷を目的としていない。ただの目くらまし。だがそれに応じてしまった。身体のバランスが崩れ、押さえ込んでいた左手の力が緩んだ。

襲撃者が、その間隙を見逃そうはずもなかった。右手を振って拳から逃れ、左手は腰に提げた別の武器へと伸ばされている。それと同時に、こちらの足を払いに来た。三つの動作を並行して行うのは困難だろう。実際、その動きはそれぞれを独立して行うよりも遥かに遅々としていた――とは言っても、コンマ数秒の差ではあるが。

倒れるわけにはいかなかった。テーブルに右手をつき、重心を預ける。床を蹴り、両足を浮かせる。足払いはやり過ごしたが、悪手だ。身体を浮かせた事で、これ以上の回避は望むべくもない。だが攻撃はなかった。襲撃者はそれよりも目的であるラナへと殺到する。

それを許すわけにはいかなかった。宙にある身体を、無理矢理に回転させる。上半身をひねり、がむしゃらに右拳をラナの眼前へと伸ばす。相手に背中を向ける形にはなるが、この際構っていられなかった。

だんッ――と大きな音が弾けた。浮かせていた両足の、固い靴底が床板を踏んだのだ。

状況が静止する。ラナの鼻先に、その凶器はあった。だが、触れていない。伸ばした右拳がその凶器を握り締め、制動をかけていた。

襲撃者を迎え撃った――壊し屋・奈落は、凶器を見る。

刑罰執行軍に所属する者へ等しく支給される、その伸縮式の警棒を。

続いて背中越しに、苦渋に満ちた襲撃者の顔を見る。刑罰執行軍・ヒセツ・ルナの顔を。


   ◇

膠着状態に入った奈落とヒセツを警戒しながら、動く影があった。驚愕冷めやらぬラナを立ち上がらせ、ラナを背後に庇うように立ったシルヴィア。そして奈落からは見えなかったが、投擲されたナイフを拾い上げ、ヒセツの首元に突きつけたパズ。

「いくらもやしっ子の僕でも、この距離で仕損じる事はないよ」

視認できなくとも、パズの声でヒセツが動けなくなったと判断する。警棒から手を放した奈落は、改めてヒセツへと向き直った。

「いったい、何の真似かしら?」

苦言を呈するヒセツだが、奈落はそれを一笑に付した。

「臭い芝居はよせよ。さっき言ったろ? 俺らの行動はルードラントに筒抜けだってな。なぜだと思う? 簡単な事だ。裏切り者がいたのさ」

ヒセツは警棒を握る手に力を込める。だが打てば響くように、首元のナイフの切っ先が沈み込む。一ミリ程度の動きだが、ヒセツにはその差異がはっきりと認識出来るのだろう。

彼女はごくりと唾を飲み込み、わざとらしい笑みを浮かべた。

「私がその裏切り者だって言うの? 確かに私は刑罰執行軍よ。本当は敵対する間柄なのも承知してる。でも、だからって決めつけるのは――」

「臭い芝居はよせって言ってんだろ、なあ――ルードラント?」

「ルードラント!?」

オウム返しに悲鳴を上げたのは、ただ一人状況を理解していないラナだった。

「奈落様の言葉を代弁すると――」と、シルヴィアの静謐な声音がヒセツへと突き刺さる。「ネタは上がってんだよォこんの腐れゴミ畜生がぁ……と」

「いやそこまで言ってねえ。口調も微妙に違うし」

「何馬鹿な事言ってるのよ!? 頭でもおかしくなったの!? 私がルードラントに見えるっていうわけ!?」

身体は微動だにせず、しかし全力で抗弁するヒセツ。だがその様相に緊張する事は、奈落にはどうしても出来なかった。それはもはや冤罪の訴えですらない。ただの三文芝居だ。

嘆息交じりに答えたのは、ヒセツの背後でナイフを構えるパズだった。

「初めに妙だと気づいたのは、十一権義会支部での一件。立ちくらみを起こしたっていうヒセツに、僕が優しく『大丈夫ぅ?』って聞いたら、『ああ』だって。ヒセツらしくない、実に男らしい応答だったと思うよ」

「そんなの誰にでも――」

「あるよね。誰にだって口が変に回る事くらいあるさ」

言い繕うヒセツを遮って、パズは先んじて肯定する。肯定した上で、更に続けた。

「でもとにかく違和感を覚えた。そこで僕は咄嗟に、ヒセツたんって呼んでみた。貴方は知らないだろうけど、本物のヒセツに、呼んだら殺すとまで言われた呼び方だよ。いやあまさに命懸けだったね。でも僕はこうして生きてる」

おどけるパズに、ヒセツの抵抗もまだ続く。

「あの時は、そんな場合じゃ――」

「なかったよね。確かにそんな場合じゃなかった。でも違和感は助長するばかりだった。そしていまこの場で、君は決定的なミスを二つ犯した」

パズは二本の指を立て、うち一本を折り曲げた。

「一つ目。さっきまでラナちゃんって呼んでたのに、いつの間にかラナになってる」

ヒセツは負けじと口を開きかけるが、間髪入れずにパズが二本目の指を折り曲げる。

「二つ目。正直これは賭けだったけどね。君は煙草を吸った」

奈落から見て明らかに、ヒセツの顔色が変わった。

「まさか――」

呻くヒセツの背後で、パズが舌を出す。

「手癖悪いんだよねー、僕」

それは、奈落とパズとで示し合わせた細工だった。ホテル襲撃からの帰途、パズはヒセツへの違和感を奈落に告げていた。そこでふと思い立ったのが、ヒセツの私物ではない何かを、彼女の身に忍び込ませる事だった。

奈落もパズも禁煙者だったが、幸いにして、エリオ・クワブスプは喫煙者だった。

「禁煙者のはずのヒセツが煙草を吸った。それが何を示唆しているか、もう説明しなくても解るよね?」

ヒセツは苦渋に皺を寄せていたが、やがて諦念も露に、力無く笑みを浮かべた。

「たまたま吸ってみたくなった――……なんつう言い訳は、通用しねーわな」

その身体はヒセツのもので、その声色は相違なくヒセツであるというのに、そこに立つのはヒセツ・ルナではなかった。ルードラント・ビビス。奈落の破壊の対象である。

ヒセツ――否、ルードラントが、その瞳――澄んでいるはずが、どこか濁って見えたのは気のせいか――をラナに向けると、彼女は「ひっ」と小さく悲鳴を上げた。

覚悟を決めたとはいえ、唐突な闖入に恐怖が先立っているのだろう。

ラナから視線を外したルードラントは、奈落に向き直った。

「しっかし、よく解ったじゃねーの。意識支配の魔術って結構レアだし、そんな推理が立つとは思わんかったぜ?」

「へえ。やっぱりそうなのか……」

と、感心して頷く奈落に疑問を感じたのか、ルードラントは眉根を寄せた。まるで詐欺師にでもあったかのような表情だった。だがそれは、比喩ではない。

なぜなら彼の自供を得て、ルードランの存在に、ようやく確信したのだから。

ルードラントの背後で、パズが思わず吹き出す。

「ヒセツたんが禁煙者かどうかなんて知らないよ、僕達」

「な、何、この……ッ!!」

「まあその可愛い顔で喫煙者なんて、僕はあまり歓迎しないけどね」

などとおどけながら、パズは空いている手でポケットを探る。取り出した一枚の紙片をルードラントの眼前に持っていくと、彼の顔面にはっきりと焦燥と苦渋とが満ちていった。

「これ何だかわかる?」

「そういう事かよ……。権義会から買ったってか……ッ」

「いやあ、お買い得だったもんでね」

ひらひらと揺れる紙片には、ルードラントにとって致命的な情報がびっしりと書き込んであった。それは彼の使用する魔術の一覧だった。詠唱の文言、それにより発生する効果、そして召喚維持の限界時間。その中に、意識支配の魔術についての記述はあった。

エリオ・クワブスプから購入した、ルードラントの資料の一部である。

それは、ルードラントの弾圧に苦患を強いられてきた者達の叫びの結晶だ。彼から受けた魔術を、苦しみを、それが小さな情報であっても、やがてルードラントを打倒するのに役立つのならと、年月をかけて十一権義会に積み重なっていった。

少しずつ収集された断片的な情報は、蓄積され、やがてルードラントを脅かすほどの情報源とまでなったのだ。

「資料によれば、意識支配の使い魔は七分が限界みたいだね。呼び方がラナちゃんからラナに変わってから、現在六分四十秒。カウントダウン・スタート」

ルードラントの意識支配が解けるまでの時間を数え始めるパズ。

動く事の出来ないルードラントに、奈落は気だるそうに、しかし険を込めて尋ねる。

「何のために、鯨召喚なんざしてんだ?」

「吐くわきゃねーだろ」と、ルードラントは挑発的に舌を出して見せた。あと十四秒。

「随分御執心みたいじゃねえか。最初は魔紋陣で召喚しようとしたんだろ?」

ルードラント製薬会社の一室に描かれた、巨大な魔紋陣を思い出す。

「だが鯨召喚にはあまりにも非効率的だった。そこでラナとルダを知って、奪ったわけだ」

「ウゼえ。お喋りな奴は嫌いなんだよ、特にテメ―は」

「最後には術者も喰らうって聞くぜ?」

「……あくまで伝説だ。確証はねーよ」

「従う保証はねえだろ」

「従わねー保証もな」

あと、五秒。

「――ぶっ壊すぜ? てめえの野心全部」

「――言ってろ」

「ゼロ」と、宣言すると同時、パズはナイフの切っ先をヒセツから放した。それと同時にヒセツの身体が力を失い、前のめりに傾いで――急にせき込み始めた。

「ゲッ、ゲホ……ッ。何よこれ――口の中、何か気持ち悪い……ッ!?」

一瞥しただけで、脅威は去ったのだと知れる。奈落は安堵の息をつくと同時、胸中で呟いた。どうやらヒセツは禁煙者だったらしい、と。

咽喉を撫でさすりながら煙草の灰に苦しむヒセツに、パズは両手を広げて笑った。

「良かったねヒセツたん。これで謎は解め――」

「呼んだら殺すって言ったわよね!?」

言い終えるより早く、ヒセツの振りかぶった警棒がパズの頭頂を打撃していた。

「し、私情で殴ったらいけないんじゃないの?」

「事前に警告してた場合は別よ! 刑罰執行軍之心得第一条之二十九項・付記之一!」

「ま、間違いなく本物だね………」

奈落が目端にラナを捉えると、二人のやり取りに苦笑していた。どうやらルードラント介入による緊張は解れたらしい。ラナの背後に立つシルヴィアは、無表情のままに親指をグッと立てていた。応じる気にはなれなかったが、悪い気はしなかった。

ようやく、ルードラントに一泡吹かせたのだから。

これを初撃に、壊し屋の仕事は始まる。

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