集結する意志は全容を明かす(上)/4


   ◇

怖いか、と奈落は背中越しに尋ねてきた。

有り体に言ってしまえば、怖い。それが偽らざる本心だった。鼻っ柱を折る覚悟を固めたが、いざルードラントを眼前にすると、胸の奥に締め付けるような圧迫感を感じる。

肉体的には、彼の強欲に虐げられてきた頃と何ら変化していないのだ。恐怖を克服し自信を得るには、己が細腕はあまりにも頼りない。

泳ぎそうになる眼を必死で抑えてルードラントへ固定し、震えそうになる両足は必要以上に開いて過剰に力を込めている。

自制するのが難しい程に、ルードラントが怖い。

だけど――と、ラナは胸裏に己が意志を呟く。

奈落もヒセツも、パズもシルヴィアも――鯨の召喚阻止に全力を注いでいる。

奈落と鯨との力量差と、ラナとルードラントの力量差と。どちらがより遠大なのかを問えば答えは明白で、もちろん前者に他ならない。それ程、鯨の存在は圧倒的なのだ。それでも奈落は諦念を享受しない。その差を認知しながらも、抵抗の手を休めない。

それなら――ボクとルードラントの差だって、恐れるには不十分な差でしかない!

ルードラントは怖い。それは覆らない。だがラナは、奈落に対して今一度嘘をつく。それは自分を擁護するための嘘ではない。良心の呵責に悩まされる嘘ではない。誰かが不幸になり、怒り、落胆し、悲しむような嘘ではない。

己を奮い立たせ、克己するための嘘だ。

薄弱な自分をこそ、偽るための嘘だ。

さあ、言ってやれ。大きな声で、はっきりと。誤解のつけいる隙のない叫びを!

ラナは大きく息を吸い、いつか真実に変わるであろう嘘をつく。

「怖く――ありませんッ!!」


   ◇

頼もしい叫びを隣に聞いて、ヒセツは顔をほころばせる。きっと奈落も同じような表情を浮かべているに違いない。

恐怖を認めた上で虚勢を張れる者こそが、強くなれる。恐怖に竦んで足を鈍らせる者は強くはなれないし、恐怖から眼を背けて虚勢を叫んでもそれはただの誤魔化しだ。

越え難い障害であると認め、それでも尚越えてゆけるのだと胸を張れる者だけが、いつか本当にその障害を看破する。その先に到達できる。

「奈落様」と、シルヴィアが歩を詰め、奈落の隣に並んだ。「下り階段はすぐそこです」

ヒセツはシルヴィアの視線を追う。ルードラントの背後、半開きになった扉越しに、確かに階段が確認出来る。読図の結果、ルダの居場所は地下二階である可能性が高かった。

いまも尚、ルードラントの指令で鯨召喚の儀式を取り行っているはずだ。

「ほら、先に行きなさいよ、奈落」

告げながら、ヒセツは警棒で素振りを始める。重さを確かめ、速度を見極め、眼前の悪に対してどれほどの威力を発揮するのかを定めるために。

「行ってルダちゃんを助けるのよ。王子様っていうには、ガラ悪過ぎだけど」

ぴたり、と素振りを止める。突き出した警棒の向く先に自分の役割を見る。

ルードラント破壊の助力となり、正義の在り方を実感する事を、改めて主眼に据える。

「多分あの子が、一番地獄を見てるわ」

ルードラントが下卑た口調で異を唱えているが、ヒセツはそれを意に介さなかった。

「大丈夫かよ? 結構強そうだぜ? あいつ」

背中を向けたまま、奈落が声音も変えずに淡白に尋ねて来る。憂慮している気配などまるでなかった。ヒセツを駒としてしか扱っていないのか、それとも憂慮する必要もない程、実力を認めているからなのか。

後者だといいとは思うが、断言は出来ない。だが、その必要もないだろう。言葉で答えるよりも、提示すればいいのだ。結果を出せばいいのだ。

「さっさと刑罰執行して、すぐ追いつくわよ」

「舐められた、ものですな――」

ひどく、沈着冷静な声が闖入した。極力声帯を震わせないよう留意した声――そう比喩しても過言ではない。口調こそ異なるが、その声を、ヒセツは聞いた事があった。昨晩の公園での一件――ヒセツが対峙した男が、扉の奥から姿を現した。

尖った顎を持ち、総白髪をオールバックにまとめた初老の男。眼鏡の奥に光る、あらゆる感情を削ぎとったような瞳は忘れられない。

「リガレジー、テメー、何しに来やがった?」

猫背のルードラントが、見上げるように男――リガレジーの顎をねめつける。彼は表情を崩さずに――というより、表情らしい表情など面に浮かべていなかった――答えた。

「喧嘩っ早さに定評のあるどこぞの社長が、いつまでも戦場に顔を出さないものですから。嫌な予感がしまして――と、言えば納得しますかな?」

「しねーな」と、リガレジーの言葉を寸断するルードラント。即答してから、しかし粘着質な笑みを漏らす。「しねーが、結果的には僥倖だぁな」

銀縁眼鏡の位置を直して、リガレジーは奈落から最後尾のパズまでを順々に睥睨する。

「壊し屋が降りれば、残るは年端いかぬ少年少女。我々にとっては、文字通り児戯ですな」

「つーかよ、行かせねーっつの。あそこにゃあルードラント製薬会社の意志、その全てが詰まってんだ。――……あと六時間、死守すりゃ俺らの勝ちなんだ」

獣のように唸るルードラントに、その口調程の余裕は感じられなかった。刑罰執行の強行軍に、最深部への奈落の到達。

彼にとって、あってはならない事だった。特に、正念場となるいまこの時間には。

「行かせてもいいでしょう。下階には英雄が待機していますからな。壊し屋一人、屠れぬはずがない」

英雄という単語に、奈落が身を強張らせる。常に斜に構える彼らしくもない、眼に見えた緊張だ。彼にとって鯨召喚の阻止と十年前の仇討とは、天秤でぴたりと吊り合う命題なのだろう。

それに気づくでもなく、猫背の社長と無感情の男の対話は続いていた。

「英雄なら、そっちに合流させたはずだぞ」

「いえ、来ておりません」と、怪訝そうに――と言ってもほとんど表情に変化はなかったが――答える。「恐らくは、残った方が良策と判断したのでしょう。文字通り、英断という奴ですな。私と同じく」

「そうかよ。だが、そういう事なら――」

ルードラントは奈落に向き直る。

「壊し屋」

「あ?」

「行っていいぜ。行って死んでこい」

「てめえに許可もらうまでもなく行くけどな」

応じて、奈落はルードラントに背を向ける。ヒセツと視線を交わし、パズとラナとも同様に向き合う。そして頷き合う。ヒセツも全員の顔を今一度見渡す。誰一人として、悲観的な表情を浮かべてはいなかった。

大丈夫だ、と思う。何一つ心配はない、とも。

「ここは任せた……!」そう言い残して、奈落は壁際へと駆け出した。睨みつけるは角隅の床下。そこへ両手をかざし、叫ぶ。「栄華の栄光、示すは具現、振るうは奔流!」

詠唱に応じて放たれた光熱波は、更に下へと続く穴を穿つ。ヒセツを追い越し、ラナに見送られ、パズと平手を打ち合い――赤黒いコートを翻して、最奥へと消えていった。

――――――――――――――――シルヴィアは?

疑問が差すと同時、その解答はヒセツの横を駆け抜けた。奈落の描いた軌道をトレースするように。皆が呆気にとられている中、彼女は刑軍式の敬礼などして、

「私も行きます。ぶっちゃけ――ここにいても役に立たないので」

穿たれた大穴に身を躍らせた。

『あの馬鹿………ッ!!』

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