因果は直列する/2
◇
奈落の叫びに応じて、パズは脳裏に思い出す。魔術は詠唱の長短によって、召喚する使い魔の能力が変化する事。それから、完全な状態で召喚するには約五万字を要する事。
一般的に行われる魔術では、使い魔は本来の五十分の一程度の能力しか発揮できないという。つまり、ルードラントの目的は使い魔の完全召喚という事だろうか。
五万字を延々と唱えて。だがラナの回答は、パズの予想をはるかに上回った。
読み慣れた詩歌を吟じるように、ラナはすらすらと告げた。
「十六京・三千二百五十兆・七千二十一億・百三十八万・九千九百六十七文字」
◇
ラナの見る限り、二の句を継げそうな者はいなかった。奈落にパズ、ヒセツにシルヴィア。そのいずれもが例外なく絶句している。魂というものが存在するとしたら、間違いなく全員の肉体から乖離している事だろう。
やはりこの数字を前に、人間など無力でしかないのか。想定していたとはいえ、ラナの内心には落胆の色が濃い。
誰一人として望んでなどいない。それでも、その数が表わす絶望を、より具体的な絶望として、ラナは紡がねばならなかった。それこそ、絶望的に、だ。
「奈落さんの読みは、当たっています。ルードラントの目的は使い魔を召喚する事です。それも史上最悪の使い魔である――鯨を」
「鯨!?」と、ヒセツが素っ頓狂な声を上げる。声が裏返っていたのは、緊張で渇いた舌がうまく回らなかったのだろう。「だって、あれは伝説上の生き物でしょう!?」
ラナはゆっくりと、しかし確固として首を左右に振る。
「鯨は――」
「鯨は確かに存在する……」
ラナの言葉を引き継ぐようにして闖入したのは、奈落だった。まるで全身で鈍痛が疼いているかのように、沈痛な面持ちで。
声を荒らげるかと思いきや、彼の口調は静かなものだった。
「史実をたどれば、鯨の痕跡はいくつか見つかる……主に、国の滅亡の歴史にな」
ごくりと、ヒセツは生唾を飲み込む。国が滅亡するほどの深刻な被害を、鯨が引き起こしてきたという事だ。そしてそのあまりにも非現実的な力は、史実ではなく伝説とさえなって人々の間で語り継がれた。
部屋を包括する緊張は、魔術に疎いパズをも支配していた。
「二十六体の究極の魔獣……使い魔の最上位に君臨し、敗北の概念そのものを唾棄する最悪の存在……。気の済むまで破壊をばら撒き、最後には術者さえ喰らうと言われてる。魔術の知識がない僕だって、そのくらいは知ってる……」
付け加えるならば、とシルヴィアが後に続く。
「絶望の象徴として、しばしば引用されます。一度召喚されたが最後、滅ぶ国が一つで済めば被害は軽微と判断される程の、生物というよりはむしろ災厄に近似する存在ですね」
「そいつを召喚するってか……。十六京なんていう、途方もない字数を唱えて」
体重を支えるようにして、奈落はテーブルに両手をついている。ラナからは視認出来ないが、彼の両足は力なく震えているに違いない。
「何のためにだッ!!」
突然思い出したように、奈落は絶叫する。振り下ろした拳はテーブルを叩き割らんばかりだった。
「鯨だと!? ッざけるな! 何のために召喚するんだッ!! 一晩で国を滅ぼすような最悪の力を、何に使うってんだよ!! まさか世界征服なんて馬鹿げた事を言い始めるんじゃねえだろうな!?」
突拍子のない奈落の推測に、しかしシルヴィアが淡々と肯定を示した。
「――鯨の力ならばそれさえも、馬鹿げた話ではありません」
奈落が激昂を吐かんとシルヴィアを振り向くが、その口は中途半端に開いたまま言葉を為そうとしなかった。奈落も理解しているのだ、それを否定する要素がない事を。
見咎められぬよう、ラナは顔を伏せて嘆息する。奈落ほどの魔術師でも、やはり敵わないのだ。
「本当の事を言いたくなかった二つ目の理由がこれです。相手が鯨と知ったら、手を引いてしまうだろうと思った――でもボクは、助けてほしかった……」
ルダを救出出来ず、ルードラントの思惑通り鯨が召喚される。それはラナにとって明確な敗北であり、切実に回避したい問題だったが、しかし。その運命を享受するしかないのかもしれない。
抗する相手の巨大さを突きつけられ、奈落達は一様に黙り込んでしまった。誰もが誰とも視線を交わそうとしない。誰も策を講じる事が出来ず、それどころか糸口さえ掴めない。託した希望が、音も立てずに霧散していく。
どれだけの時間が経過しただろうか。絶望は感覚を麻痺させ、その時間は永遠にも感じられた。それはただの錯覚で、あるいは五分か、ほんの数十秒だったのかもしれないが。
とにかく口火を切ったのは、壊し屋・奈落だった。
「時間は、どんだけあるんだ……?」
「え……?」
もう手詰まりだ――そんな意味合いの言葉を想像していただけに、理解が遅れた。
「目算でいい。鯨の召喚まで、あとどのくらい時間がある」
伏せていた顔を上向かせる。奈落の顔には、予想に違わず焦燥がありありと浮かんでいる。余裕は窺えない。対峙する敵の巨大さにいまも尚、圧倒されている。
だが、それでも。彼の声に諦念の気配はなかった。
「勝てるの……?」
それは奈落への答えではなく、自然に口をついて出た言葉だった。想いがそのまま、思考を介する事なく言葉に反映されたかのような。
「鯨に勝つのは無理だ。それは絶対に覆らねえ。だが、まだ召喚されてないのなら、召喚自体を中断させりゃこっちの勝ちだ」
「そうね」と、同意を示したのは刑罰執行軍・ヒセツ・ルナだ。「まだカードが揃ってないのなら、叩くにはいましかない」
閉口する。彼らに宿る意志の固さを目の当たりにして、今度はラナが驚愕する。
歯噛みする。己を叱咤する。覚悟を決めたつもりでいた。だがそれは真実を話す覚悟であって、その上で脅威に対向するための覚悟ではなかった。
改めて、ラナは自問する。決意した覚悟が、何のための覚悟かを。そしてそれが、奈落やヒセツと肩を並べられるだけの重みを伴っているのかどうかを。
自分の双肩には、明らかに過負荷だ。苦笑する。だが、悪くはないものだと気づいて。
「多分、あと五時間程度だと思います」
刻限は五時間。それは絶望をより鮮明にする時間でしかないのかもしれない。
だが、あるいは――希望を見出せるだけの時間と成り得るのかもしれない。
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