夜襲/4


我が家――正確には主の家だが――へと戻ってから、シルヴィアは手持ち無沙汰に暇を持て余していた。背負っていた少女――ラナを寝室のベッドへと寝かせ、何とはなしに彼女の寝顔を見つめていた。ベッド脇に椅子を持ち出し、それに腰掛けている。

「……………」

二日前に英雄・カルキ・ユーリッツァから投げ渡された少女は、未だに眠ったままだった。一度たりとも眼を開けず、ただただ毒リンゴを食べた姫の如く、昏々と眠り続ける。

何か悪い病気か、魔術によるものか――いずれかに疾患を抱えているのではないかと、一抹の不安を覚えたりもした。

だが、それはシルヴィアの杞憂に過ぎないらしく、

「うう~。うへへへへぇ~、もう食びらんないよぉ~うふふへへぇ~」

こんな具合に、時折耳を疑うような寝言をほざく。

それよりも問題は、ラナの今後である。ラナの踏み倒したくなるくらい幸せそうな寝顔に視線を置いたまま、シルヴィアは思考を巡らせる。相変わらずの無表情で。

ラナは一体、何者であるのか。

外見的特徴に、これといって奇異な点は無い。年は十歳前後の、目に鮮やかな腰までの金髪をツインテールにまとめた、ごく普通の少女である。

二日前に渡された時は、彼女を「救出すべき娘」であると信じて疑わなかった。言を換えれば、奈落とシルヴィアはあくまで短期の保護者であるはずだったのだ。

トキナスも淡白な人間だ。双子のうち一人は要らないと捨て置き、必要であるルダという少女のためには、十億という大金を出す事も厭わない。

つまり、ルダには愛情を注いでいたが、ラナには無かったという事だろうか。否、とシルヴィアは即座に仮説を否定する。トキナスは、等しく二人ともに愛情など微塵も向けてはいないだろう。どころか、彼には愛情や情操といった感情が欠落している節すらある。

ならば、と新たに仮説を組み立てる。ルダに有ってラナに無いのは、利用価値だ。

有意義か無意味か、有効か無効か、有用か無用か。

ルダとラナ、二人の境遇の違いはそこにあり、そこにしかないのだろう。

ラナは、これからどうするべきか。刑軍に預けるのが最良の選択なのだろうが、お尋ね者である奈落が出向けば、たちまち刑罰執行に至る事は明白である。最も手っ取り早いのは、その辺に捨ててくる事ではあるが、それは倫理や道徳や社会が許さないだろう。

「………では、最寄の刑軍支部玄関に放置しておきましょう」

我ながら良いアイデアだ。その手段ならば刑罰執行に先んじて逃走が可能であり、なおかつラナは路頭に迷う事なく刑軍に引き取られる。万事解決、無問題。

嗚呼――

「――完璧な自分が憎い」

寝顔を見るのにも飽きて、シルヴィアは一旦席を立った。扉をくぐって寝室を出て、短い廊下を抜けて居間へ。ところどころに刑罰執行軍と争った跡が見られ、天井には自分の功績である大穴が開いていた。そのせいもあって、どこか生活感に欠けた印象を抱いてしまう。

廃墟二歩手前のような居間――その端に立つ本棚から、シルヴィアは一冊の文庫本を手にとった。古書店で見つけた、定価五十レートの掘り出し物だ。タイトルには『千切りキャベツへの心構え~天下黎明編~』とあった。シルヴィアの価値観は奈落をよく混乱させる。

文庫本を手に、シルヴィアは来た道を戻っていった。

廊下を抜け寝室へと至る扉を開けると――少女と目があった。

「……………」

普段から滅多に表情を表さないシルヴィアが、静かに瞠目する。

二日間眠り続けていた少女。その閉じられていた瞼は開かれ、その瞳は蒼かった。まだぼんやりとはしているものの、上体を起こしている。

シルヴィアが声をかける――その前に、幼い少女の、小さな口が開かれていた。

初めて聞く声は、曇りなく澄んでいた。

「――――――あなた、誰?」

無垢な瞳が訪問者を捉え、少女は不思議そうに尋ねた。

「――――――ここ、どこ?」

無垢な瞳を右往左往させ、キョロキョロと周囲を窺い、少女は不思議そうに尋ねた。

小首を傾げると、ツインテールが小さく揺れた。

警戒心の感じられない――それこそ視界にあるもの全てに好奇心を抱く乳呑児のような様子に、シルヴィアは場違いな危惧を抱いた。

「このような愛くるしい幼女、奈落様が目の色変えて養子縁組を迫りかねませんね」

残念な事に、その場にはツッコミを入れられる者がいなかった。


床一面に描かれたそれを見て、梟が感心の声をあげた。

「ほほけ。これはまた見事なり。壮麗よォ、のォ、魔紋陣でな」

「気味が悪いな……」

と、パスが呟く。知識のない彼の目には、床の紋様はただひたすらに気味悪く、文字通り得体の知れないものに見えた。

「ほけほけ。特定の文字で描く陣でな。召喚術の一種よォ、のォ、奈落?」

問いを向けられた奈落も、神妙に頷く。彼の額にじっとりと汗が浮かんでいる事を、パズは気付いていながら指摘しなかった。

「ああ。こいつは、言ってみれば詠唱の一種でな。一般的な詠唱は言葉で表すんだが、それを文字で著すんだよ。――ちなみに、魔術や魔法の精度が詠唱の長短で決まるって事は知ってるか?」

問いに、パズは聞き手としての姿勢を崩さなかった。やっぱりなと奈落は呟く。

「魔術で召喚される使い魔は、実は本来の五十分の一程度の力しか出せてねえんだよ。それは詠唱が短過ぎるからでな。もっと長く詳細な詠唱をすれば、使い魔は強力になるし、召喚時間も長くなる。完全召喚には、だいたい五万文字を要するらしいな。それを魔術師は、一般的に三拍子から成る詠唱に縮めているわけだ」

「ほけけけ。およそ魔術師という者は鬼畜でな。自身に一番使い勝手のいい詠唱を選択する。老いぼれどもに最も欠如しているのは自由だという。真理でな」

「言葉は悪いが、確かにその通りなんだよ。詠唱の短さ、程好い威力を追求していくと、最終的に三拍子に行き着く。そもそも、何万文字も暗記出来ねえし」

奈落と梟の言葉に、パズが成程と納得して、その碧眼で魔紋陣を見据えた。

「つまり、物語のようなものか。要約を読んでも概要は掴めるけど、全体を読んだ方がより詳細を知る事が出来る」そして、とパズは続けた。「ルードラントは、何らかの目的で、使い魔を完全に召喚しようとした」

「そう。そして困った事に、その理由がまるで解らねえ」

奈落が魔紋陣の側に寄り、片膝をつく。描かれた文字に目を凝らし、触れてみるが、そこから得られる情報は何もなかった。

「奈落さん、魔術師なのに読めないの?」

「魔紋陣に使う文字は、この大陸にはない文字なんだよ。お前も見た事ねえだろ? 俺は専門知識を身につけるのが面倒でな、全く読めん。というか、そもそも役にたたねえんだよ、魔紋陣ってのは。戦闘じゃあ時間がかかりすぎるし、日常生活なら三拍子の魔術で十分なんだ。身につける意味がない………はずなんだ」

しかし魔紋陣は眼下に確かに存在する。恐らくは重要な意味を添えられて。パズは奈落から梟へと視線を転ずる。彼もまた、興味深そうに魔紋陣を短い四肢でつついていた。パズの視線に気づいたか、梟は問われる前に答えた。

「ほけ。賢き小童よ、何を求める。魔紋の識字に関して、この老いぼれはただの鳥と差異ないでな。さえずればよいでな。ほうほうほう」

「何だ……」

パズががっくりと肩を落とす。つまりは三人が三人とも、明確な解答を持たなかった。

瓦礫に埋もれた廃墟で、魔紋陣は静かに語る。真実をこっそりと、しかし確実に。それに対する聞く耳を持たない彼らは、それこそ愚考するしかなかった。

「うーん……昨日の火事をこれで起こしたとか」

「そんなもん、マッチ一本ありゃ済む話だ。魔術だって三拍子で足りる」

「だろうね……」

それこそ愚考するしかなかった、魔紋陣の発する、不穏な気配について。

唸る奈落の横で、パズが窓外に輝く陽の位置を見やり、嘆息する。

「奈落さん、残念だけど時間だ。そろそろ、刑軍の調査が再開される」

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