集結する意志は全容を明かす(下)/4
◇
ヒセツは満身創痍の身体を酷使して、警棒を次々に繰り出していた。
身体能力の限界は、もう随分前に超越していた。いつ倒れてもおかしくないこの状況下、しかしヒセツが止まることはない。
服が肌に張り付くほどの滝のような汗、酸素を渇望しゼェゼェとあえぐ喉、全身に刻まれた傷から流れ出る血、口に広がる血の味、霞む視界、霞む思考。
それでも、彼女は立ち止まらない。
ただ疾駆し、ただ剣を振るう。
眼前に迫った短刀を、ヒセツは軽く身をひねって回避した。真っ直ぐにルードラントを見据えたまま、ヒセツは警棒を横薙ぎに払う。だが、疾駆の勢いを載せた一撃は空を切る。慌てる事なく素早く視線で追うと、ルードラントは右方向に跳躍していた。
ヒセツはダンッと地を蹴り方向転換、警棒を腰溜めに構えるや否や、瞬間、突きを放つ。
一瞬で急迫した警棒にルードラントは目を見開いたが、彼は最小限の動作で――首を曲げてやり過ごす。警棒は掠るのみで決定打を与えるには至らなかった。
今度はルードラントの刃が閃く。突きによって伸びきったヒセツの右手を斬りつける。腕をひっこめれば却って傷を深くすると判断したヒセツは、手首のスナップを利かせて警棒を逆手に持ちかえる。即席の手甲として刃を受け止めると、ギン――ッと鋭い音が響き渡る。
警棒の上を滑らせるようにして刃を受け流し、ヒセツは左足に体重を乗せて床を踏み抜く。背後へと跳躍して、距離を取る――が、ルードラントがそれをさせなかった。
彼は一定以上の距離が開かないよう、常に間合いを詰めてきた。距離が開けば魔法による攻撃が来るとわかっているのだ。契約済みの使い魔がいなくなった以上、彼は接近戦しか行えないのだ。
それがわかっているだけに、歯痒い。距離を取ってしまいさえすれば魔法で畳みかける事が可能だというのに――もう五分以上、彼我の距離は肉薄したままだった。
「我、御するは文明の――くッ!」
それでいて、接近戦用の魔法も行使出来ない。魔法の詠唱を始めると、決まってルードラントはこちらの口に刃を突き出してきた。それは隙の大きい攻撃――というよりも、詠唱をさせないためのその場凌ぎでしかない――で、ヒセツの詠唱を封じる代わりに警棒の一撃を喰らっていた。しかしどの一撃も、浅い。
ルードラントは優秀な手合いだ。それはもう認めざるを得ない。折れた手首を庇いながら、こちらの詠唱も防ぎ、尚且つ急所を叩かれないように保護している。それでいてこちらへの攻撃の手を緩めない。
だから彼女が気づいた頃には、疑問が口をついて出ていた。
「何でなのよ!?」
ヒセツが右方向へ迂回する。ルードラントもそれを追尾し、左方向へ回り込む。互いの間合いはほぼ共通していた。得物を振るうタイミングも同時で、金属同士の乾いた音が鳴り響く。幾重にも重なって、響きは奏楽へとさえ変わっていく。
その合間を縫って、ヒセツは思いの丈をぶつける。
「何で鯨の召喚なんてッ!!」
ルードラントは答えない。唇を引き結んだまま、攻撃の手を緩めない。
「答えなさいッ!」
攻防を続けながら、ヒセツは一言一言を短く放つ。
「私はねッ!」と、警棒を握る手に一層の力を込めながら、叫ぶ。「正義のためよッ!!」
「吐き気がすらぁあッ!!」
正義を謳うヒセツに怒声を浴びせ、ルードラントは初めて数歩を飛び退き、間合いを広く取った。ヒセツは反射的に腰を落とし、防御の姿勢をとる。何か新たな攻撃を仕掛けてくるのかと思ったが――その推測は的を射ていなかった。
ルードラントはすっかり構えを解き、短刀の切っ先を床へ向けたのだ。
その無防備な相手に対して、ヒセツは魔法を放とうとはしなかった。恐らくはルードラントも彼女の考え方を予測しての行動だろう。
お互いに武器を収めると、ルードラント・ビビスはヒセツに答えを返した。
「俺が鯨を召喚すんのも――正義のためだ」
「……何ですって?」
明確な悪としてルードラントを評価していただけに、彼の口から漏れた正義という単語は、どうしても耳に馴染まなかった。ヒセツにとって正義と悪とは、水と油のように混じる事なき対極の概念だ。絶対に歪まない永久機関だ。
「――十年前、リリストっつー小さな町が、地図から抹消された」
ヒセツは車中で奈落から聞いた話を思い出す。偶然にも共通の故郷を持つ奈落とルードラントの話は、同じ軌道に乗った滑車の如く一致する。
「奈落も、同じ事を言ってたわ」
「滅ぼされたんだよ」と、ルードラントは忌々しげに声を絞り出す。
ヒセツはほぞを噛む思いでいた。聞いてはいけなかったのかもしれない、ルードラントの行動目的など。ずっと気になってはいた事だ。言わば正義に刺さっていた、小さな棘だった。その棘を取り除いて、より正義を純然たるものへと昇華させたかった。
ヒセツは困惑する。その棘は大きさを増していくばかりだった。ルードラントの悪は、絶対的な評価ではなかったのだと――立場を変えれば相対的に正義になり得るものだと、そう思ってしまっている。
だって彼の行動原理は、奈落と同じなのだから。
「これは、復讐なんだッ。何も知らされないままたった一晩で虐殺された町の皆の、晴れる事のない無念のためのッ!!」
青天の霹靂と言っても過言ではない衝撃が、ヒセツの正義を激しく揺さぶる。閉口する。刺さった棘は肥大し、既に姿を変えていた――ルードラント・ビビスの正義へと。
ヒセツ・ルナの前に、正義が立ちはだかる。
仲間を失ったルードラントの正義の怒号が、戦場にこだます。
「復讐するんだよッ!!」
ヒセツ・ルナは混乱する――が、次の刹那、混沌は更に巨大化し、思考の混濁を加速度的に助長する事となる。奈落とルードラントの共通過去が、乖離する。
聞き間違えようもない。
彼の口から迸った蹂躙者の名は、英雄・カルキ・ユーリッツァではなかった。
「十一権義会にッ!!」
彼は、憎々しげにそう言ったのだ。
「………何ですって?」
◇
膝立ちになってルダを抱くシルヴィアは、相変わらずの無表情で鯨を見上げていた。だがそれは表情として面に表出していないだけで、胸中に渦巻く感情の嵐に、シルヴィア自身、ひどく戸惑っていたのである。
のっぺりとした粘土細工のような痩躯に、あらゆる生物が苦悶する巨大なレリーフを戴く異形の使い魔――その王。抵抗などという選択肢は残されない、最上位存在。
王を眼前に控え、シルヴィアの動悸は激しくなっていった。強く脈打ち、早鐘のように、制動の利かない間隔で心の臓が鳴動する。
もう随分前から息苦しい。体内からの鼓動が耳朶を打ち、支配し、外界の音を消し去るまでに至った。異常な速度で伸縮を繰り返す鼓動しか聞こえない。
恐怖によるものかと思ったが、そうではない事をシルヴィアは承知していた。それが無感動な性格によるものなのかはともかくとして、彼女は鯨にいささかの畏怖も抱いてはいなかった。
だからこそ、シルヴィアは秩序なき混迷の渦に翻弄される。
それは、高鳴りだった。鯨を眼前にして沸き起こる感情は、負ではなく正。油断すれば笑みにでも歪みそうな顔を、シルヴィアは惑乱しながらも自制する。
一体、何に胸が高鳴るというのか。絶望の王が破壊以外の何をもたらしてくれるというのか。考えようにも、思考は麻痺している。喜び、希望、期待。この劇場に最も相応しくない感情が、シルヴィアの預かり知らぬところから無限に生み出されていく。
私は、どうしてしまったのか。
胸の高鳴りをどう扱っていいかわからぬままに、シルヴィアの視界の中、鯨・ワースティヌシンが、初めて能動的な動きを見せる。
レリーフに刻まれた全ての動物達が、一斉に号泣を始めたのだ。大粒の涙に浮き彫りの表面を濡らし、あらゆる生物が大口を開けて大音声で、絶望の悲鳴を唱和した。
その絶望は、シルヴィアの鼓動をさえ貫通して彼女の芯に響き渡る。こちらに背中を向ける奈落に、シルヴィアは声なき声を挙げる。
助けて下さい……奈落様………ッ。
――rrrrrrrrrrrrrrraaaaaaaaaawwwwwwwwwwwwッ!!
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