集結する意志は全容を明かす(下)
集結する意志は全容を明かす(下)/1
◇
「何て事を……ッ!」
愕然と叫ぶラナの声色に、ルードラントは甘美な音楽でも聴くかのように笑みを深めた。ラナはその光景に目を奪われ、硬直したかのように微動だにも出来なくなる。
「俺が七分しかこの魔術を使えねーってのぁ知ってんだろ? だったらその時間を有効に使わねー手はないじゃねーか?」
ルードラントは一旦短刀を離し、勢いをつけて首筋に突き刺す――直前で、止める。ラナがその挙措に過剰な反応を示すのがおかしくてたまらないのだろう。
歯噛みする。苦虫を十匹は噛みつぶす。だが――抵抗は出来ない。魔術を詠唱して使い魔を向かわせるより、ヒセツの持つ短刀が首筋を貫く方が段違いに速い。
速度の優位性が逆転した。
「ラナ。その龍は召喚したままで、こっちに来な。それから梟ッ! 見てるんだろう? テメーも出てこなきゃ、この娘殺すぜ?」
――やられた。これだけの巨大な使い魔の召喚を維持する等、ラナには到底不可能だ。もって三分。ルードラントの魔術が解ける前に、ラナの精神力が尽きてしまう。
更に悪い事は、最後の希望である梟までが指示に従わざるを得なくなってしまった事だ。彼は隠密に、パズと合流しなければならなかったというのに。
最大の窮地が訪れる。ラナは双頭の龍を顕現したまま、ルードラントへと歩み寄る。
「よーし、いい子だ……手こずらせやがって」
ルードラントの元まで辿りつき、ヒセツの手で頭を撫でられる。これだけ怖気を感じる優しい手もないだろう。ラナが身を固くすると同時、ヒセツの膝蹴りが顎を打った。
悲鳴もあげられず、口を両手で押さえてラナはたたらを踏む。力はそれほど強くはなかったが、ヒセツの身体を弄ぶルードラントへの怒りで、身体が戦慄いた。
「……チッ、やっぱりうまく動かねーな。この身体」
「貴方は……最低の人間ですッ!」
「あ? ウゼー事ばっか言ってっとこいつ殺すぞ?」
一言で言いくるめられる。彼のさじ加減一つで、ヒセツ・ルナの命は失われる。本人の意向とはまったく関与しないところで、生殺与奪の権利が剥奪されている。これほど酷薄な話があるだろうか。
ルードラントは油断なく短刀を突きつけたまま、奈落が穿った大穴を見つめていた。
「なあ、オイ。聞こえなかったかあッ!? 出てこねーとこいつ殺すぞッ!」
ラナもまた梟の隠れている位置に目を配る。梟は一切の応答をせず、沈黙を守っている。何をしているのだろうか。一刻も早く姿を現し、指示に従わなければ――。
ラナの背中に衝撃が走る。ルードラントに蹴り飛ばされ、地面に這いつくばったところに、横顔をを踏みつけられる。
「うぁ……ッ」
「なあ、これ何かの作戦か?」と、不機嫌な声音で、ルードラントが尋ねる。
「し、知らない……ッ」
「何で出てこねーわけ?」
「知らない……ッ!!」
本当に、意味がわからなかった。姿を消したままである事に、何かしらの意図があるのだろうか。だが、それでは何の解決にもならない。
事態を好転させるにはパズまで辿りつかねばならないし、事態を悪化させつつもヒセツの命を繋ぐのならばルードラントの足元へ跪かねばならないのだ。
「ふーん……まあいいか。おい梟ッ! あと五秒やるから出て来い。な?」
考えている暇はない。苛立ちで制限時間まで設けた。ラナの思考は痛みと困惑で混沌とする。それに使い魔の召喚維持で霞んでいく。ぐるぐると渦巻く潮流が何もかもを呑みこんで、真暗な静謐の底へと沈み込ませていく。
意識を保つだけで精一杯になる。ルードラントの声が呪いのように脳内に反響する。
五ぉ、四ん、三ん、二ぃ、いぃーちぃ……――やっと出てきたかよ。
ラナの精神が暗い海の底に沈む。抵抗の意志さえも闇の中で見えなくなる。全てが暗くなる。泥の中へ、深く深く潜り込み、恍惚と甘美さえ伴いながら――そして、気を失った。
◇
状況は最悪だった。ヒセツ・ルナはルードラントに支配され人質となっている。支配の魔術の有効時間はあと三分強もある。その足元にはラナが昏倒し、離れた場所ではパズが大量の出血を伴って気絶している。
敵勢力もリガレジーという男が倒れているから、数字の上では半減している。だが――戦力差は絶対的だった。
考える時間を稼ごうと粘ってみたが、制限時間を設けられては敵わなかった。
ルードラントと相対するのは僅か体長五十センチの梟一匹。束になったってルードラントに与えられるのはせいぜいが引っかき傷程度だろう。
この戦局を引っ繰り返すのは、いくら放蕩の賢者といえど難しかった。
「何企んでたか言えよ」
「ほけけ。この老いぼれ、企む程の脳を持ち合わせておらんでな」
「白ぁ切るか。賢い梟じゃねーか」
嘲笑するルードラントに対し、とぼけるくらいしか出来ない。首をぐりんぐりんと回す。
「さえずれば良いでな。ほうほうほう」
「まぁいい。んな遠くにいねーでよ、こっち来いよ。なあ?」
指示どおりに歩き出すと、ルードラントは突然声を荒らげた。
「時間稼ぎしてんじゃねーよッ! 飛んで来んだよッ! 五秒以内!!」
見透かされていたか。梟は文句一つ言わず、全力で羽ばたいてルードラントの足元に降り立つ。掛った時間は五秒を過ぎていたが、とりあえず彼は満足したようだった。
ルードラント・ビビスもまた、焦っている。制限時間の渦中にいるのは、彼もまた同じなのだ。ヒセツを人質に指示を出し、こちらを自在に操作出来る時間だ。
だが指示通りに動いていたところで、ヒセツが無事でいられる保証はない。というよりも、まず助からないだろう。ルードラントの事だ、どちらにしろ意識支配が解ける直前に、ヒセツの首を斬る腹積もりに違いない。
つまり、あと三分でヒセツの首元に突きつけられた短刀をどうにかしなくてはならない。しかし、どうやって――?
「あー……確か――」とルードラントは思案しながら、呟く。「我御するは文明の源――歪む事なき我が正義、我が剣に宿れ、だったか」
詠唱に応じて、ルードラントの手中に炎の刃が形成される。梟は目を剥いて、ごくりと唾を飲み込む。その剣が突きつけられると、鼻先に灼熱の熱気が伝わってきた。
濃厚な死の気配だ。熱で焼かれ、刃に裂かれる――そのイメージは堂々巡りを繰り返す思考を、無闇に加速させる。どうしたらいい。どうにか出来るのか。どうにか。どうしたら。どうにか。どうしたら。どうにか。どうしたら。一体何を思いつきどう整理し何をもってどう展開し何を足掛かりにどう解決すればいいのだ。
「抵抗は無意味だぜ?」
熱気にさらされながら、刃の前に言葉が冷たく突き刺さる。
「ほ、ほけ、何故、鯨の召喚などするのか……?」
「時間稼ぎはもういいっつーに。往生際悪ぃーよ」
剣先が数ミリ、押し出される。嘴に触れ、黒煙が上がる。焼ける痛みは想像を絶した。熱いというよりも、圧迫され、無理矢理に剥がされていくような感覚。だが一番の苦役は、拘束されているわけでもないのに動けない事だ。
万事休す。賢者の知恵もここまでかと諦めた――瞬間。
視界を横切る、白い影。極度の緊張による幻覚かと思ったが、そうではない。証拠に、ルードラントの視線もその影を追っている。確かにそれは存在するのだ。
梟が幻覚かと疑ったのも無理はないだろう。それはこの窮地に、あまりにも似つかわしくない物だった。中空でふわふわと滑空し、やがて力を失い地面に落ちたそれは、
――一機の紙飛行機だった。
(これは――ッ!)
歓喜の声を上げずにいられたのは、強固な自制心などではない。単に灼熱の痛みに口を強く引き結んでいたに過ぎない。だがその臆病風が、功を奏した。
その紙飛行機はパズが折った物に相違ない。指の形にべっとりと血が付着していた。どうやら彼は意識を取り戻したらしい。そしてこの状況を見ただけで、自分に何が求められているのかを理解した。
(ほけけッ! 何と賢き小童か、ケルトの眷族!)
だがその機転も、このままでは意味がない。あの紙飛行機を開いて、中身を検めねばならないのだ。だが剣を突きつけられ、人質を取られ、動く事は出来ない。
ならば動いてもらえばいい。いまこの場で、唯一動けるのはルードラントだ。彼を動かし、墓穴を掘らせる。幸い、ルードラントは怪訝な眼差しで紙飛行機を見据えている。
まさか放置するわけはあるまい。何かしらの行動を示すはずだ。
さあ、どう出る?
放蕩の賢者は天恵に感謝し、熟考に入る。もはや灼熱さえ忘れて、死を越えて生を掴む手段を模索する。たった一枚の紙片が、全員の命を救うかもしれないのだ。
「おい情報屋!」
ルードラントもパズが紙飛行機の制作者であると気づいているようだ。声を張る。しかしパズは微動だにしない。梟は彼の意図を読み取る。ケルトの眷族は意識を取り戻したが、紙飛行機を折って力尽きてしまった。そういう事なのだ。
ルードラントも自身の肉体から離れるのを躊躇ったか、彼に近づこうとはしなかった。先程と同じく制限時間を設けてパズを起こそうとしたが、それでも彼は狸寝入りを続けた。あるいは本当に力尽きてしまったのかもしれない。
ルードラントもまた、同じ結論に至った。パズへの言及を諦め、梟へと向き直る。
梟は体内時計で時間を刻む。意識支配が解けるまで、あと二分。あと二分でどうにかしなければ、ヒセツも梟も刃に貫かれる。
ルードラントにとっては、紙片一枚など、一分後に自分の身体で確認すればいいのだ。
ならば、それを覆さなければならない。あと二分以内に紙飛行機を調べる必要があると、思い込ませなければならない。だが彼もまた賢い。生半な策は通用しないだろうし、むしろ死期を早める結果になりかねない。
まるで距離感を測るかのように紙飛行機を見ていたルードラントは、ほんの僅かだけ炎の刃をひっこめた。尋問の必要性あり、と判断したのだ。
さあ、正念場でな……ッ!
「おい、あれは何だ?」と、梟へ尋ねる。
「ほけ? さあ、この老いぼれ、識字に関してはただの鳥と変わらぬでな」
「何だ知ってるんじゃねーか。あれは何かのメモってわけか?」
「ほけ!?」
かかった。ルードラントに、それが文字情報であると刷り込む事は出来た。だがただのメモだと思われては、それは脅威にはならない。もっと具体的な脅威であると認識させて、中を開かねばならない。だから気づけ。その矛盾に。賢き猫背なる小童!
「何のメモだ? ………いや、待て。メモが何の役に立つってんだ? この鳥が動けねー事は、情報屋もわかっただろうに……」
そうだ。動けない者に対して、閉じられたメモなど何の用も為さない。そこまで気づいたならば、後一歩だ。
「それに、字が読めねーって口滑らせたな、テメー」
「ほけ? この老いぼれ、記憶が――」
「馬鹿言うな」と、一蹴される。「字が読めない相手に送る文字……?」
そう。そうだ。ならば結論は一つしかあるまい。梟は叫びだしたくなるのを必死でこらえながら、ルードラントの思考展開を見守る。
情報屋なら知っていそうで、識字について無知な者の助けとなる文字。そんなもの、この魔術と魔法の世界には一つしかない……ッ!
果たして、ルードラント・ビビスは結論を出し――戦慄した。
「魔紋陣かッ!!」
グレイトッ! 梟は胸中で喝采を上げる。梟の仕掛けた罠に、彼は鋭い洞察力を持つがゆえに見事に引っかかった。
そうならば――これが魔紋陣であるならば、すぐにでも対処しなければならないはずだ。この状況を打開する使い魔が、いまこの瞬間にも召喚されてしまうかもしれないのだから。
例えば還幻魔術だったとしたら、ルードラントの契約している使い魔が失われる。即座に魔術の効力が失われ、タイミングを逸したルードラントはヒセツと梟にとどめを刺す事が出来なくなる。
そうなれば仕切り直しだ。こちらが全員手負いである事を鑑みれば、依然として彼の優位は揺らがないかもしれない。だが、例えば、狸寝入りしていたパズが懐で次の魔紋陣を書いていたらどうだろうか。必ずしも優位とは言えなくなる。
ルードラントは制限時間を設けられた。しかも、針はあと一秒のところで停止していて、尚且ついつ動き出すか解らない、厄介極まりない代物だ。
どうするのが最善かを、ルードラントは考えるだろう。梟は彼の思考が手に取るようにわかった。社屋を検分した事で、彼が魔紋陣の知識を持っているであろうと予測出来る。
ならばどうする。どんな魔術かを確かめようとするだろう。脅威でない場合は、放っておいて一人と一匹の息の根を止めればいい。脅威である場合は、即座に息の根を止めて身体に戻り、全速力で撤退すればいい。――いや、違う。
梟に持たせればいい。
ルードラントはそう結論するだろう。梟に持たせて、自分は梟の肩越しにそれが読めるぎりぎりの位置にまで後退し、魔術の効果を梟に集中させればいいのだ。そうすれば、例えば還幻魔術である場合、効力は梟の主、奈落に対して働くではないか。
それに識字に関して無知な梟は、それを広げてもどうする事も出来ないはずだ。
(そうであろう、賢き猫背なる小童?)
梟の思考など知らずに、数秒の沈黙を置いて、ルードラントはこう言った。
「合図をしたら、その紙を広げて見せろ」
「ほ、ほけ」と、梟は緊張気味に頷く。
そして、梟の予想に違わぬ構図が展開する。梟は紙飛行機を持つ。首筋に短刀を突きつけたルードラントは距離を取り、梟の肩越しに紙が見えるような位置を取る。
「広げろ」と、ルードラントは指示を出す。
ついにこの瞬間が訪れた。
梟の手中にあるのは、パズが持っていて、梟の知識を合わせる事で、逆転の一手を築く事が出来る情報だ。梟は震える手をもたつかせながら、紙片を開いた。ルードラントからは見えないよう、翼で隠せる位置で。少しでも時間を稼ぐために。
あと四十秒。
そこに書かれた文字の羅列を、梟は貪るように読んだ。見えない位置で紙を広げた梟へは、当然、背後からルードラントの叱咤が放たれる。
「オイッ! もっと高く上げんだよッ!!」
「ほ、ほけ……。嫌でな……」
ここで拒否する事が重要なのだ。ルードラントは激昂するだろうが、ここまでの彼の行動から類推するに、彼は次にこう言う。あとは彼の気分次第で示される数字だが――、
「テメーふざけんなよッ!! 時間稼ぎはもういいっつってんだろーがよッ!! 三秒以内に高く掲げろッ!!」
ほら、来た。与えられた時間は三秒。先程よりも若干少ないが、充分な時間だ。梟は一秒を使ってわざと身をよじらせ、躊躇いがちに、蚊の鳴くような声で言った。
「い、いや、しかし……そ……………」
「何ぶつくさ言ってんだよッ!!」
これで全ての布石は整った。
これで、あと二秒間ぶつくさ言える。
梟は紙片を上げないまま、二秒を使って小声で何事かを呟いた。
「だから、何をぶつくさ言ってんだぶっ殺すぞぉおッ!!」
もはや聞き飽きたルードラントの怒鳴り声に応じて、今度は梟は明言した。
「ほけけ。『未到達の空域、作物、オウレンゼブの蒐集』。――そう言ったのだよ」
金属質な音が響いた。梟が振り返ると、ヒセツの握っていた短刀はコンクリートの床に落下していた。言うまでもない事だが、血に濡れる事なく、だ。
意識を失ったヒセツは、眠るようにその場に倒れ伏した。
制限時間を二十七秒残して、放蕩の賢者は最悪の状況を見事切り抜けて見せたのだ。
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