咎人の手紙/6

シルヴィアに崩壊された住まいを後に、奈落が一歩を踏み出すと。

そこには見渡す限りの人、人、人。あるいは堂々と、あるいは建物の影に、あるいは屋根の上に、それらはいた。全員が個性的な衣装や化粧に身を包んだ、いわゆる不良である。

シルヴィアの言によれば、散開した彼らは総勢三十二名。そしてそれぞれが木刀、ナイフなどの得物を携え、それぞれに構えを取っている。

奈落は一人一人を睥睨して口の端を吊り上げた。構えを見れば一目瞭然だった。全員が素人である。武器を拠りどころにして強気になっている、カワイイ連中だ。素人三十二名を相手にするなど、今しがた剣を交えた刑軍と比較すれば朝飯前だ。

奈落は瞑目し、闇の中から彼らを探り当てた。

「さて、誰に喧嘩売っちまったのか、後でじっくり反省するんだな」

その宣言を皮切りに、壊し屋のもとへ素人衆が殺到した。

奈落は開眼した。使い魔を召喚する、闇色の黒瞳を。


眼前に展開された光景を目にして――相変わらず奈落の使い魔に捕らえられていたが、這って玄関まで出てきていた――ヒセツは開いた口が塞がらなくなった。

一斉に肉薄する無数の凶器を風に例えるならば、奈落は柳だった。

圧倒的不利な数の暴力を、彼はことごとく回避した。身をずらし、跳躍し、時に不安定な体勢で自重に任せ回避――。その立ち回りに、攻防という単語は似つかわしくない。

攻撃をかいぐくり、生じた隙に呼び出すのは数々の使い魔たち。続くはそれらによる迎撃。召喚する使い魔はどれも人の範疇を越えた代物であり、素人達は当然のように軒並み地に伏していった。

次々と顕現され使い魔は増えていき、それらに昏倒される事で素人は減っていき――最後には、数が逆転していた。一対三十二から三十二対一へ。

奈落の側に立つのは、剣を模したものもいれば盾を模したものもいる。醜悪な姿の者もいれば、可愛らしい妖精もいた。その中心で腕を組むのは、主人たる壊し屋・奈落。

統一性が皆無である彼らに、しかし共通する理念がある。

それは、奈落という主人を防衛し、愚かな敵を屠るという、生存意義。


そして――。奈落の振り上げた剣が一閃し――最後の一人を壊した。


顕現されたその力を眼前にして、ヒセツは戦慄していた。

――何て人の相手をしてしまったのだろう。

先の戦闘では、屋内という条件が付与されていたために、結果的に敗北したものの、互角を演じる事が出来た。しかし今、展開されるは屋外での戦闘。それは、最早戦闘と呼称できるのかも判然としない。己に害為す者への、圧倒的な力による、迅速な排除。

仮に、素人衆と代わってヒセツ・ルナという個人が立ち向かったなら。結果が変わらないどころか、戦闘の所要時間は更に短縮される事だろう。

この時、ヒセツは初めての戦闘訓練を思い出していた。相手は戦闘の専門家で、上官だった。その訓練に勝機は見出せず、それはひたすらに結果の見え透いた戯れであった。

今、回想と現実とが重なり合う。

その感覚は、ヒセツにとって久しいものだった。即ち――畏怖。

それはヒセツの胸中を埋め尽くし、その他の一切を些事とし、認識を拒んでいた。

だから――その間に奈落が逃走した事にも気付かないでいた。


火の勢いは増すばかりで、赤色と闇色の境界に立つ少年まで熱風を運んできたが、彼はそれに気付いてすらいなかった。

少年は、瞠目する先に全ての神経を傾注させていた。視線の先に屹立する英雄の姿へと。

火中の惨禍より現れ出でた英雄。その出で立ちは惨憺たるものだった。身につけた鎧は赤黒い返り血と黒い焦げ目で覆い尽くされ、装備の状態は満身創痍といえた。

それでも顔色一つ変えない彼は、ただ黙して少年へと歩み寄る。

少年は微動だにしなかった。全身が総毛立ち、襲い来る震えが、「逃走」という選択を霧散させていた。惑乱した思考は遅々としてはたらかず、ただ立ち尽くすばかりだ。

やがて。少年には永遠と感じられた一瞬の時が過ぎた。

憧れの英雄――カルキ・ユーリッツァが眼前にまで迫っていた。見上げる視界に、彼の瞳が――冷酷な、感情の一辺すら覗かせない瞳が映る。

英雄カルキ・ユーリッツァは、右手の長剣を高々と振り上げる。

業火を反射させる剣は、血に塗れてなお銀光を放つ。

躊躇なく、容赦なく――カルキ・ユーリッツァは、少年へと剣を振り下ろし。

そして鮮血が舞った。


「奈落様……っ!」

珍しく切迫したシルヴィアの声で、奈落は固く閉ざしていた目を開けた。

薄ぼんやりとした霞む視界で、シルヴィアの無表情を見つける。今回ばかりは礼を言ってやりたくなる。見ていた夢は極上の悪夢だった。

常とは微妙に異なる彼女の口調に懸念が差し、奈落は睡魔を一蹴して上体を起こした。窓の外は暗闇に包まれていた。曇天なのか、星も月も、今宵はその姿を潜めている。

夜の帳に落ち込んだ部屋は、しかし彼の部屋ではない。昼の一件があって家が半壊し、なおかつ刑軍に場所を知られたので、パズの家に寄生したのだ。その折に彼は「邪魔です帰って下さい」と奇声をあげて抗議したが、恫喝して黙らせた。

そんな経緯で、パズのベッドを奪取して寝入っていたのだが。

「どうしたシルヴィア、こんな時間に?」

暗中で時計をどうにか確認すると、午前三時だった。

「ルードラント製薬会社が、かつてない大惨事です」

「――何?」

シルヴィアの即答に、奈落が目を細めた。スプリングの利いたベッドから跳ね起きて、シャツを着替えてその上にコートを羽織った。

辺りにパズの気配はなかった。恐らく徹夜で情報収集に奔走しているのだろう。

使い魔を封じた手甲を両手にはめながら、奈落は鋭い声で問いを重ねた。

「それで具体的には?」

和服姿の彼女が、噛んで含めるように答えた。


「――ルードラント製薬会社が、燃えています」


手甲をはめる手が思わず止まった。

窓の外に視線を転じる。一瞬。赤色の惨事が、炎としてその一辺を垣間見せた。


惨劇が、ルードラント本社を襲っていた。製薬会社を防護し続けた鉄壁は無残に崩壊し、その内側に佇む城のごとき屋敷は、業火に彩られていた。

奈落が到着したころには、何十人という単位で野次馬が群がっていた。しかしその中に、崩れた壁を越えようとする者は一人としてない。こんな状況でさえ、人々はルードラントを恐れていた。我関せずの徹底ぶりに舌打ちし、奈落は崩落した堅固な壁に駆け寄る。見れば、壁の厚さは少なくとも二メートルはある。奈落の胸中に懐疑が生じた。そんな代物が、果たして火事で崩れ去るだろうか。当然、答えは否だ。小さく再度舌打ちする。

壁が外的要因によって破壊されたのは明白だ。ならばこの火事も放火と見て相違ないだろう。焦燥にかられ、シルヴィアとともに奈落は壁を飛び越えた。

視界の遮蔽物をまたいだ事で、本社の様子が、より鮮明に展開される。十年前を想起させる惨状だった。赤という赤が、熱という熱が屋敷を支配し取り囲んでいる。愚民に罰を下す神の如く、炎がその力を誰にでもなく見せ付けていた。

十年前の地獄と同様の光景が、今、現実として彼の前に踊り狂う。酷薄な記憶に顔をしかめるが、今ここで苦悶を享受し私情に立ち止まれば、掴める情報も逃してしまう。

「奈落様。最善の行為が立ち止まりであるとお考えでしょうか」

「――解ってるよ」

頭を振って苦悶を振り払う。気を取り直し、事情に通じた者がいないか、奈落は周囲をぐるりと見回した。そして一つだけ、人影を見つけた。

それを認め、奈落が息を呑む。追い払ったばかりの凄惨な記憶が、瞬時に蘇った。

一気に緊張が全身を走りぬける。暗然たる胸中を代弁して、握る手には嫌な汗が浮かび始めている。頬から首筋にまで伝う汗を感じながら、自嘲気味に呟いた。

「何てこった……」

奈落の動揺に、しかし人影は慌てた様子もない。ただ、火中の屋敷を背景に立っていた。

その影はあの時のように鎧は纏っていない。だが、隻腕だけは隠しようもなかった。

過去と現在が、一致を見せる。

「何でここにいるんだ? ………英雄・カルキ・ユーリッツァ」


英雄、カルキ・ユーリッツァ――十年間、奈落が探し続けてきた、伝説の英雄。


あの日の惨事を忘れた瞬間などなかった。盲目的に憧れを抱いていた英雄に、ものの見事に裏切られたあの日。当時は恐怖と混乱のせいで、理由を問い質す事すら出来なかった。自分の住んでいた辺境の町を焼き尽くし、町民を残らず惨殺した理由を。人々を救う立場であるはずの英雄が、あの様な惨事を起こした理由を。

だが、今は違う。あれから十年の時を経た今、自分はもう子供ではない。壊し屋として力をつけた。それは、奴を倒すための力――。

白くなるまで強く握り締めていた手を開く。背後に控えるシルヴィアに下がるよう指示する。この逢瀬にだけは、いかに彼女とて関わる事は許されない。

この瞬間を、どれだけ待ちわびた事か!

「……俺を………覚えてるか?」

「………」

「リリスト………。十年前、英雄であるはずのアンタは、なぜ、リリストの町を、焼き払った……? なぜ皆を、斬った――殺した?」

一字一句、聞き逃す事など有り得ないとばかりに丁寧に紡ぎだす。問いに、英雄はわずかに顔をしかめた。が、それも一瞬の事で、英雄は人形のように表情を消した。

畏怖を禁じえないがっしりとした体躯を微動だにすらさせず――英雄は口を開いた。

「貴様には、それを知る資格がない」

「―――ッ」

全身に戦慄が走った。冷淡で淡白な口調。それは、彼が十年間求め続けた声。しかし紡がれたのは求めた解答ではなかった。撥ね付けるような、神経を逆撫でする言葉。

「貴様、あの時の子供か。なぜここにいる」

言葉とともに、鋭い眼光が奈落を射抜く。冷徹な瞳が静かに細められる。たったそれだけの一挙動で、奈落の全身が凍りついた。並大抵の意気では、容易く消沈する。

視線のみで圧倒する、その在り方が、カルキ・ユーリッツァが嘘偽りなく英雄であるのだという事を、雄弁に語っていた。

奈落は震える身体を叱咤し、怒りを声に乗せた。

「ふ――ざ、けるな。俺の事は問題じゃない! 質問に答えろカルキ・ユーリッツァ! 皆を殺して、リリストの町を焼いたのは、何故だッ!!」

「言ったろう。貴様に、それを知る資格はない」

彼が長年の間、内に秘めてきた問いを、英雄は言下に切り捨てた。

英雄の表情に変化は見られない。それは同時に、奈落の問いになど関心はないのだと、はっきりと表明していた。それで、奈落の激情が理性の臨界点を超えた。

「ふっざけるなあああああッ!!」

過去と現在とが乖離する。

かつての自分は震えるだけで、何をする事も出来なかった。

今は違う。今なら出来るはずだ。英雄という名の悪魔を、一発ぶん殴る――ッ!

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