咎人の手紙/5
表情の伴わない忠告。奈落は反射的に背後を振り返っていた。言葉の意味を吟味する間もなく、ただ経験が危険だと警告したのだ。
果たしてその先で、数分前の光景が再現されていた。
いつのまに意識を取り戻したのか――刑軍の少女が警棒を振りかぶり、こちらへと打ち下ろす、その瞬間だった。
咄嗟に奈落は背後へと跳躍する。間一髪、鼻先を警棒が掠めた。あと一瞬でも行動が遅れていれば――想像して、奈落はゾッとした。
跳んだ先に、既にシルヴィアはいない。右か左か、それか上にでも身を退けたのだろう。
前方からは舌打ちが聞こえた。度重なる空振りに苛立っているのか、少女は間髪いれずに二撃目を放つ。下段からの、掬い上げるような一閃。今度は横に跳んでそれを回避。
間断なく少女の剣戟は続く。正眼に構えた警棒で、向かって左に逃げた奈落を水平に薙ぐ。それも背後に跳んでかわし――奈落は焦燥にかられた。
背に感じるのは、平板で硬質の気配。壁だ。避ける事に精神を研ぎ澄ませていた奈落は、自分が罠にはめられた事に、ようやく思い至った。
敵の鮮やかな剣戟は、それすらも罠にかけるための手段でしかなかったのだ。
眼前に、勝利の笑みでにじり寄る少女。背後には、壁。まさか我が家で袋小路に陥るとは思ってもみなかった。今更に、安さだけで購入した事を後悔する。
額といわず全身が、危機的現状に冷や汗の涙を流す。
手がないわけではない。今や勝機を掴んだ事を確信し、彼女の瞳には自信が溢れている。ともすれば、それは奢りに転じかねない危ういものだ。その間隙を――縫う。
――やってみるか。
心中で腹をくくる。そもそも賭けなければ可能性など生まれないのだから。
奈落は、今にも襲い掛かってきそうな少女から逃げるように、瞳を閉じた。
「お手上げだ。まさかアンタが俺を狙ってるなんてな。分が悪ぃ」
「そうね。私も、まさかアンタが壊し屋・奈落だとは思わなかったわ。さっき窃盗犯と一緒に捕まえておけば良かったわね。ま、これで仕事完遂だから良いけど!」
叫びと共に、少女が地を蹴った。繰り出されるは、好機を最大限に活かした、大きく振りかぶる必殺の斬撃。
一瞬。結局、ほんの一言二言分の一瞬の猶予しか、奈落には与えられなかった。だが、魔術師はその一瞬を勝機へと昇華させる。敵が大振りの一撃を選択した事も好都合だった。必殺の攻撃は、それだけ時間がかかる。とは言っても、それもほんの一瞬の相違でしかないが。
高速展開される状況の中、一瞬の余裕で勝敗は分かたれる。
稼いだ一瞬で、閉じた視界――闇の中から、探り当てた。
攻撃の一瞬で、開いた視界――身を翻し、必殺の軌道から身を逸らす。
掠めた警棒をやり過ごし、奈落は右手を浅く掲げ、早口にまくし立てた。
「求むるは刃、鉄の光条、我が手中に為せ!」
甲の宝石が光条を宿し、それが形を変えぬままに鋼鉄と化し、刃となって奈落の右手に頼もしい重みをズシリともたらした。
奈落が刃を水平に構えるのと、少女が上段からの一撃を加えるのとは、同時だった。
キィンッ――と、小気味いい音を放ち刃と警棒が交差、激突する。
二人の頬に汗が伝う。少女が両手に握る警棒に、更に体重を乗せる。奈落が右手だけで支えていた刃の柄に左手を添え、押し返す。
お互いに引けをとらない、互角の鍔迫り合い。だがその最中で、奈落は勝利を確信していた。こんなものは茶番に過ぎないと、口元に笑みさえ浮かべた。その余裕に少女が眉をひそめた。慙愧の念は、しかし一瞬後、明らかとなる。
奈落は力を緩める事なく、瞳を閉じたのだ。閉じた視界、すなわち闇の中で、新たに適当な使い魔を探査する。鍔迫り合いのような硬直状態に陥った場合、瞑目し詠唱するだけで使い魔を召喚できる魔術師は、絶対的優位に立つ。
瞑目し使い魔を召喚する――その過程の中において、奈落は当然気付けなかった。
敵が彼と同種の――勝利の笑みを浮かべた事に。
奈落が世界と隔絶している間に、少女は深く息を吸い、叫んだ。
「我、御するは文明の源――炎の裁断、愚者に裁定を!」
刹那、奈落の体が炎に包み込まれた――かに見えたが、警棒から伝わる抵抗が消失した事から、その炎が獲物を喰い損ねたのは明白だった。役目をまっとう出来なかった炎が、その場に四散して消滅する。
油断なく背後に視線を走らせれば、そこには驚愕に顔を歪ませた奈落。
少女は感心と呆れの入り混じった表情で、小さな口を開いた。
「よく避けたわね。これで終わると思ったんだけど」
「魔法使いだったのか! マジでやばかったな今の。――何してくれるテメエ!」
ぜえぜえと息を弾ませて、彼は必死の形相で抗議の声をあげるが、
「何を今更。非合法の壊し屋・奈落――貴方に刑罰を執行しているんです」
と、少女は実にあっさりと職務を言い表した。
「半人前が言うじゃねえか」
「誰が半人前よ! まだ決着もついてないじゃないッ!」
少女は耳を傾けながら、奈落の瞳を注視する。先程のように時間を稼ぐ事を意図しているのならば、一瞬でも瞑目があるはずだ。しかし、彼にその気配はない。そして彼女は、その意味にまだ気付いていない。
「決着がついてから実力差がわかるようじゃ遅いだろ」
少女が反駁しようと口を開くが、それを制して奈落は続けた。
「俺もそう暇でないんだ。もう終わりだ。気をつけな、終わりを見失ってるぜ?」
「意味が解ら――」
瞬間、少女を中心に砂礫が舞い上がった。
「――ッ!」
何事かと少女は半ば混乱しながら危険を感知、背後へ飛び退く――が、その先にも眼前で視界を塞ぐそれと同様の砂礫が舞っていた。
それらは意志を伴うように彼女を取り囲み、やがて縄のようにまとまり、少女を圧した。
「かはっ――」
少女が苦悶の嗚咽を洩らす。ギリギリと、何重にも少女に巻きついた砂礫の縄は、拘束の力を強めていく。とどめに砂礫が猿ぐつわを形成し、少女に噛ませた。
縛られた事でバランスを崩し、少女はその場に倒れてしまう。奈落、勝利の瞬間だった。刑軍の少女は、訳の分からないままに、拘束という形で敗北を喫した。
「言ったろ。見失ってるって。いるか、解説?」
軽薄な口調が空から降ってきた。簀巻きにされ地に転がるという屈辱に赤面しながら、少女は煽りの視界に声の主を入れた。
そこには、逆立った黒髪、赤黒いコートの男、奈落が――二人いた。一人は直立不動。もう一人はこちらを見下しながら隣の自分に肘をかけるという、挑発的な態度をとっている。間違いなく後者が奈落だ。もう一人は――。
この時になって、ようやっと、自分の敗因を悟った。
彼の訊いた解説の必要有無について、彼女は首を横に振った。
「自分で喋りたそうだな。――刑罰執行軍之心得第九条之三項」
奈落の言に呼応して、少女の脳裏に条文が反芻する。曰く、刑罰執行軍は虚言を弄してはならない。採用試験に備えて徹夜で丸暗記した心得を、今もはっきりと思い出せる。
「魔法を使わないなら、猿ぐつわ外してやるが?」
彼の言に、迷わず首肯した。どうにも砂礫の猿ぐつわは、気持ち悪くて仕方がない。「よし」と短く答え、奈落が使い魔に命じる事で口が解放された。
とはいえ魔法の行使は許されない。如何に非常事態と言えど、刑軍の規則には、心得を翻せるようなものはなかった。奈落もそれを承知の上で解いたのだろう。
ほぞを噛む思いを抱える少女はうめくように言った。
「………やられたわね」
「だから言ったろ? 半人前だって。まあ、俺が直接言ったわけじゃないけどな」
つまりはそういう事だ。
「私と言い争いしてたのは、本物のアンタを模した使い魔だった。その使い魔と入れ代わったのは、私が魔法を使ったあの瞬間――炎に紛れて、ね。そして使い魔が時間稼ぎをしている間、アンタは新たに、この砂の使い魔を召喚する準備をした――こんなとこ?」
「ご名答。もっと早く――俺が話しかける時に気付けりゃ、百点満点だったのにな。魔法使いは単発での魔法行使しか出来ないのに対して、魔術師は契約している限りの使い魔を同時召喚出来る。それがお前――魔法使いの敗因だ」
言いながら、奈落は自分を模した使い魔を緑色の宝石へと戻した。
少女は歯噛みした。初任務でこんな失態をさらすとは、末代までの恥だ。
「さて、いくつか訊きたい事がある。階級は?」
「刑罰執行軍・第三位所属・ヒセツ・ルナ・下士官」
何ら逡巡の見受けられない答えに、奈落はきょとんとする。
「お前――ヒセツ? 訊いといてなんだが、んなアッサリと答えていいもんかね」
「自分の職業に誇りを持ってるのよ、アンタと違って」
「成程、立派な心掛けだ。それで参考までに訊いておくが、俺が刑罰執行される場合、刑種は何だ? 傷害刑か、剥奪刑か、懲役刑か」
刑罰執行軍は、犯人を確保した時点で、その場で刑罰を決定する権限を持つ。執行権と呼ばれるそれは、事件の早期解決と、犯罪者に対する警告効果がある。何せ適用される刑罰が傷害刑であれば、確保した次の瞬間には隊員からの物理的制裁が下され、しかも刑種の決定が個人に委任されているために、時には過剰な刑罰を執行する事さえあるのだ。
この執行権が施行されてから犯罪が減少したのは事実である。しかし強力な権限を保持するが故に、刑罰執行軍に入隊する人間には厳しい戒律が設けられている。例えば、先程の虚言を弄してはならない等である。
少女――ヒセツは執行権を加味しながら、犯罪者の顔を見た。
「多分、懲役刑でしょうね。力が強いから、傷害刑にしたら返り討ちに遭いかねないし、剥奪刑にしたら、その力で強引に奪還しかねない。だからまあ、三十年くらいおとなしくしてもらうのが、最善かしらね」
「長いな――。そうなると、悪ぃが執行されるわけにはいかないな。んじゃ次に――」
ガシャーンッ! 奈落の言葉を遮って、天井が崩落した。
………。見上げると、そこには先の崩壊分も含め、二つの穴から青空が覗けた。
黙って――元凶の方向――すぐ脇を凝視する。瓦礫の敷き詰められたカーペットの上、砂埃のカーテンから身を躍らせたのは、言うまでもない――シルヴィアだ。
どこにいたかと思えば、やはり屋根上に避難していたのか。主の危機にも安閑たる無表情で。しまいには天井を二度も破りやがった。
しかし奈落の怒りも何のその。状況を把握した忍者シルヴィアが抑揚なく告げた。
「――緊縛」
「待てシルヴィア。それはとてつもない誤解を招く」
「真理として申し上げます。誤解も解の一つであると」
「自信たっぷりに拳握るな馬鹿。――で、何の用だ忍者シルヴィア」
「大変嬉しいご報告があります。総勢三十二名、団体で、ガラの悪いお客様がお越しです」
「――マジですか」
「マジです」
思わず、苦虫を噛み潰したような顔になる。もう吐息すらない。息をつく暇もなく、次々と起こる騒乱に。いい加減不条理を訴えずにはいられなかった。
「でもまあ、悲観してても仕方ねえな。それに、ものは考えよう……か」
裏を返せばこの状況、今日一日で溜まった鬱憤の発散先が、三十二名もの大サービスで、しかも向こうから向かって来てくれている、という事だ。
鬱憤を晴らしに向かえ討たんと、奈落は扉に手を掛けた。
背後から、拘束されたままのヒセツが抗議の声をあげていたが。
無視した。
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