咎人の手紙/4
◇
「あんなふざけた奴に、本当に彼女を任せるのか?」
明るくもなく暗くもない、狭くもなく広くもない部屋で、男の声が反響した。シワ一つないスーツを着こなす、漆黒色のサングラスをした男。彼は陽光を遮断するブラインドの際に立ち、背後からの返答を待った。
が、五秒、十秒経っても声はあがらない。仕方なく首だけ振り向かせると、そこには静かな寝息をたてて机に突っ伏す影があった。
「俺は真面目に話している。気を削ぐな」
「―――ん?」
呆れた声に呼応して、眠っていた影が目を覚ます。とりあえず、二度寝をしなかった事に男は安堵した。寝起きはいいらしい。影が伏せていた頭を起こして背筋を伸ばす。椅子の前足持ち上げて、腕を組んで伸びをした。
「う――…ン。あら、おはようございます、えーと……トキナス君? ところで今何時か分かります? 私的体内時計では三十時を指しているのですが」
「今は八時だ。悪いが、俺は三十時を体験した事がないな」
「そうですの。私は毎日三十時まで起きていますわ。でも何故か生活リズムが崩れていきますの。不可解な事にぴったり六時間ずつ」
男はその物言いに言葉を失い、これ以上の訂正を放棄した。その都度反応していては、この女との生活は三日ともたない。ストレスで死んでしまうからだ。
女は年の頃二十代前半。流れるような腰まで伸ばした金髪に、どこか幼さを残した顔立ち。痩せ過ぎず太り過ぎずの理想的な体型を包み込むのは、一点の曇りもないグリーンイエローのワンピース。どこを見たところで非の打ちどころのない、冗談のような容姿。
それが彼女――ミストラル・レイアの姿だった。
彼女はしばらく三十時の謎について煩悶していたが、どこまでも不毛なので、無駄な思考を遮断するように男――トキナスが口を開いた。
「聞いていなかったようなのでもう一度言うが、あの男に、彼女を任せて大丈夫なのか?」
あごに指を当てて考えあぐねていた彼女だったが、「あの男」のフレーズだけは、聞き過ごす事はなかった。彼女の口元に、いたずらっぽい笑みが浮かぶ。
「大丈夫ですわよ、それだけは私が保証してさしあげましょう。彼にとってルードラント攻略なんて、そう難しい命題ではありませんもの」
自信に満ちた、当然成り立つべき法則を述べたとばかりの口調。しかしながら、男の態度は未だ疑惑に満ちていた。
「しかし、名の通った壊し屋は、他にいくらでもいるだろう」
「文句言わずに信じてくださいな。せっかく紹介して差し上げたんですもの」
「ミストラル・レイア。お前の推薦でなければ確実に頼まなかったろうな」
彼は深い溜め息をついた。先刻まで、トキナスは壊し屋の様子を観察していた。彼は飲食店で起きた事件を解決しようと奔走した結果、少女に手柄を奪われている。ミストラルの言葉に、トキナスが懐疑的になるのも頷けた。
しかしミストラルは、そのトキナスの様子に嘆息。半眼で口を開いた。
「何でしたら、実力のほどを試してみたらいかが? 彼に与えた残り二十時間の調査期間、私たちがただおとなしくしている義理はありませんもの」
いたずらっぽく告げた、彼女の珍しく真面目な提案に、彼は逡巡の末に首肯した。
「ふむ、成程……。そうさせてもらおうか。――しかし人員を集めるのが大変だな」
「ああ、それなら問題ありませんわ。かもん♪」
ミストラルが笑みのままパチンと指を鳴らすと。それを契機に部屋の扉がバンッと乱暴に開かれた。突然の事態。何事か、と男が扉の向こうを覗き見ると、そこには等しく目つきの悪いチンピラ風情の青年達が詰め掛けていた。内から外を見ているために判然としないが、数は恐らく三十を超えるのではないだろうか。
――いったいどこから湧いて出た。
「ふふ、備えあれば憂いなし。奈落君を試すには丁度いい人材ですのよ?」
二の句を継げなくなった彼に、ミストラルが微笑を濃くする。
「いつもいつも、全く、お前には呆れる。最早感動の域ですらあるな」
◇
アウトロウをあとにして帰路につく。パズの店から奈落の家までは、歩いて十五分とかからない距離だ。その途中、軒を連ねた露天商がレンガ敷きの道路に並ぶが、一際目を引くのは、やはり城壁のように高くそびえたこの壁だろう。一般的なレンガ敷きのそれでなく、その壁は一枚の鉄で構成されていた。どうという事もない区画整理のための壁にはどれも落書きが施されているが、この壁にだけは、落書きはおろか綻び一つない。
奈落の視線も、その城壁に向いていた。公然と、そして堂々とそびえるその壁は、
「ルードラント製薬会社、ねえ……」
そうなのだ。街の中心で異彩を放つこの壁の向こうに、噂の絶えないルードラント製薬会社本社がある。こうも公にそびえていてなお、刑軍は彼らを殲滅出来ずにいる。その理由の一つとして証拠不十分が挙げられるが、それを助長するのがこの城壁である。探査の魔術を施された、高さ五メートル・全長三二十メートルの巨大な壁は、侵入者を察知すると同時に攻撃を放ち、容赦なく例外なく愚か者を排除するという按配だ。
その事を承知している街の人々は、誰もその壁に触れようとしない。奈落も例に漏れないが、それも近日中に撤回されるのかも知れない。依頼を承諾するならば、この壁を越え、ルードラントを壊さなければならないのだから。
まったくもって、
「面倒な仕事だな」
その台詞を壁との別れの挨拶として、奈落はコートを翻した。
狭い小道に入って五分ほど歩を進めると、質素な平屋が目に付いた。最近購入したばかりの、安さだけが売りの襤褸家だ。隣近所と比較しても、我が家はハッキリとこぢんまりとしていた。
その事に小さく息をついて、玄関の扉に手をかけ――なかった。ふと、奈落は親の敵を見つけたかのように眼を細め、射抜くような視線を扉に向ける。嫌な汗が頬を伝った。
今確かに、微弱ではあるが人の気配を察知した。招かれざる客の気配、だ。
家にはシルヴィアを置いて留守を任せておいたが、どうやら無意味だったようだ。
捉えた気配はシルヴィア含め二つ。もう一つは――考えるまでもない。非合法の壊し屋に友好的な客が訪れるはずがない。恐らくは刑罰執行軍――適当に当たりをつけて、奈落は足音を立てないよう慎重に一歩、二歩と引いていった。
「全く、今日は刑軍に縁のある日だな。――しがない壊し屋に何の用事だ?」
背後へと運んでいた足を、適当な距離が開いたところで止める。靴の踏む大地が、静かに乾いた砂埃を上げる。
奈落は右腕を前方に掲げて、そっと瞳を閉じた。
真昼間の日差しから隔絶した視界に、代わって果てのない闇が広がる。その中で、奈落は閉じた視線で彼らを探し始める。神経を集中し、闇という一点を見つめる。
走査する視線は、やがて目的である対象を捉えた。その瞬間を逃さずに目を見開く。
「顕気」
ごく短い詠唱は、攻撃のためのものではなかった。奈落は静電気を発した両手の平で、視界を遮る頭髪を後頭部へと撫でつける。活力を宿した一対の眼が露わになり、黒髪は怒髪天を突くが如く逆立つ。それが壊し屋・奈落のスタイルだった。
加えて、彼は詠唱する。
「――求むるは影、贄の羊、脅威を退けよ」
慎重に一字一句を、しかし早口に紡ぎだす。
瞬間、彼の言葉に呼応して、右手の先から光が放たれる。天空に伸びる緑色の淡い光条。湾曲の無い真っ直ぐな光線は、しかし唐突に歪み、そして瞬く間に一つの形を形成し――変化を終えた。
「うっし、上出来。んじゃ行くぜ」
その姿に、奈落が満足げに頷く。それを先頭に、我が家へと再び歩を進め始めた。
ガチャリ…。赤黒いコートの男が、そもそも鍵の無い玄関扉をゆっくりと開け放つ。何の躊躇も感じられない手際。普段どおりに扉をくぐり、内と外との境界をまたぐ。
刹那。警棒が脳天に打ち下ろされた。ビュンッっと風を切り裂く音とともに放たれるのは、一切の予備動作も迷いもない、洗練された動きだ。疑問を差し挟む余地すらなく振るわれた凶器は、寸分違わず対象を屠った。事実を事実とする証拠として、脳天に打ち下ろされた警棒の勢いそのままに、彼の頭がグニャリと歪んだ。
「――ッ!?」
かすかに息を呑む音。予想外の展開に、襲撃者の動きがわずかに鈍る。その瞬間を、彼の背後に控えていた赤黒いコートの男が見逃そうはずも無かった。
真中から奇怪な谷のような形に歪んだ男の脇を縫うように、腰を屈めた低い姿勢で、素早く足を滑らせる。
その先に、驚愕に目を丸くした襲撃者――刑軍の姿を認め、彼は口元に笑みを浮かべた。
自分を模した使い魔の横から滑り出て、屈めた腰を、跳ぶような膝のバネの動きで一気に伸ばす。踊り出た位置は敵の眼前。
奈落は腰を伸ばした際に浮かせた左足を、杭のようにカーペットに打ち下ろす。全身に伝わる床からの反動に腰の回転を乗せ、左肘を思い切り背後に流し、エネルギーを全て右腕に集結させる。スピードを乗せた右腕を、拳を、一気に刑軍に突き出した。
ここまでの動作にかかった時間はコンマ数秒、視認する事すら困難な右拳を――しかし刑軍は防いだ。凶器の両端を両手に握り、水平に構える事で盾としたのだ。
拳と凶器のぶつかり合い。拮抗するかに見えた押し合いだが、すぐに結果は訪れた。勢いの乗った拳は、凶器の盾もろとも刑軍を背後へと吹き飛ばしたのだ。迫る壁に背を激しく打ち付け、刑軍が昏倒しその場に崩れる。
当然、奈落には抵抗する相手を防御策ごと吹き飛ばすような力は無い。恐らく、刑軍の対応が不十分だった――構えたまでは良かったものの、全く力が入っていなかったのだ。
結果、奈落の勝利に落ち着いた。
張り詰めた緊張の糸が切れ、場に静寂が流れ込む。奈落もその空気に倣い、突き出した拳を収め、安堵の息をついた。
沈静化した事で、浅い呼吸も耳にしっかりと届く。気を失った襲撃者のものだ。不完全とはいえ抵抗を示した刑軍に、奈落は苦笑と賞賛と視線を送る。
襲撃者は、刑罰執行軍採用の頭部用防具を被っていた。首から上をほぼ包囲する作りのために、顔は窺えない。奈落は相手の昏倒を確認するため、防具を慎重に外した。
と、青天の霹靂が彼を襲う。理解を示した彼は、思わず舌を巻いた。
美しいというよりも可愛いと形容した方がしっくりとくる丸い顔立ち、肩までの栗色の髪、それを後頭部で留める銀色のバレッタ。軍の制服に包まれた華奢な肢体。そして。規則正しく上下する胸は、わずかに膨らんでいた。
「こいつ、さっきの……?」
襲ってきた刑軍は――先程窃盗犯を豪快に転ばせた、あの少女に相違なかった。
「言ってた大事な仕事って、俺への刑罰執行の事だったのか……」
否が応にも、先程の邂逅が思い出される。起きればまた面倒な問答をする事になりそうだ。想像しただけで顔をしかめてしまい、目覚めないうちに捨ててしまおうと決めた。
だがその前にやる事があった。ひとまず襲撃者から視線を外し、自分を迎えるべきだった本当の送迎者の名を、半眼で、露骨に剣呑にうめいた。
「――シルヴィア」
「ここに」
呼びかけに、打てば鳴るような勢いで、凛とした響きの声が頭上から応えた。
途端、天井が瓦解した。にわかに信じがたいが、突然亀裂が走ったかと思うと、続く動作で天井の一部が瓦解したのだ。
崩れる天井の瓦礫が重力に引かれ、派手な音を立ててカーペットに牙痕を穿つ。一つや二つではすまない、大小様々な礫が降り注ぎ、もうもうと砂埃が立ち込めた。
砂のカーテンが落ち着くと、その中で。瓦礫の山の上、一人の少女が肩膝をついていた。
「主の呼びかけを天井裏にて待ち、御用とあらばどこからともなくスラリと参上――今日は忍者テイストで決めてみました」
「……………いや、もうどこからツッこむべきかも分かんねえや」
肩を落とす奈落の眼前、感情の起伏を見せない無表情で、黒髪黒瞳の少女が首を傾げる。
無駄に凝った登場で襤褸家に拍車をかけたこの少女こそ、今朝方鍋を降らすという偉業をなした――シルヴィアである。
身を包む黒の和服は、なぜか砂埃の中心にあってなお一つの汚れもなかった。
「で? 一応家主としては無視できず、言及したいところだな。天井壊した理由を」
「壊し屋である奈落様に仕える者としては当然の行為だと判断します」
「成程。たった今、俺は急に目の前の間抜けを壊したくなったんだが見解を述べよ」
「何を仰っておられるのでしょうか。奈落様の前に間抜けな女などおりません。ですが、日々立派に主のために尽くす忍びの模範ならば、ここに」
「お前の減らず口は相変わらずだなあ――殴っていいか?」
「奈落様、口が減らないのは当然です。一つしかありませんので、減ると困ります。ところで、なぜ私を殴ろうなどと仰られるのか、皆目見当もつかないのですが?」
会話があらぬ方向へ行ったまま帰ってこない。奈落は嘆息をもって閑話休題とした。
「はあ……。そんでシルヴィア、あの娘は刑軍みたいだが、何でお断りしなかった」
「主ではなかったゆえ、忍びが出るわけにもいかなかったので」
「お前は忍びじゃなくて――」
「奈落様――」
力無い奈落に、シルヴィアが口を挟んだ。
「――後ろです」
「――ッ!」
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