夜襲
夜襲/1
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刑軍。刑罰執行軍の略称であり、俗世では略称が親しまれている。
刑罰執行軍とは、名のとおり刑罰を執行する機関であり、国の治安維持を目的とする。犯罪者の探索、追跡、確保を行い、その後、刑罰を執行する。
刑軍の特徴として挙げられるのが執行権と呼ばれる権利である。この権限により、刑軍隊員は独断で刑罰を下す事を許可されている。もちろん容疑者に対する証拠、罪状の確認と認識を終えた段階で正当化されるものだが、この権限は法的に強大な力を持つ。これによって、犯罪の発生率は大いに減少した。
だがそれ故に、刑罰執行軍の隊員には公平性、倫理性、人間性はもちろん、善悪を厳しく客観的に判断できる能力が最低限要求されるのである。
彼女――ヒセツ・ルナは、そんな厳しい環境下に身を置いたばかりの新米である。
1
悔恨と屈辱と動揺を胸の内に抱えて宿に戻るなり、ヒセツは糸の切れた操り人形のようにベッドへ倒れこんだ。しばらく客を迎えていなかったのか、ぶわっとホコリが舞い上がる。軽く咳き込みながらもホコリを払おうとはせずに、枕に顔を埋めた。
「奈落………非合法の、壊し屋………」
標的の家を突き止めたまでは良かった。が、実際に出会ってからの失態を思い出すと、穴があれば一目散に入りたくなってくる。
結局。彼の使い魔が消えるまでヒセツは捕らえられていた。その間に奈落は逃走し、しばらく待ち伏せてみたが戻る気配もなく。ファーストコンタクトは、落胆という一言で片付けられた。懸案すべきは、もっぱら彼に対しての今後の策だった。彼の住居から宿への帰途、そればかりを思案していたが、打開策どころか妥協案さえ浮かんでこない。
「あんなに……常識無視に、強いなんて………」
昼間の戦闘を思い出す。彼の挙措の一つ一つを。単純な力だけでなく、咄嗟の機転、判断力、周到な誘導。多角的に一律的に、彼の存在は常軌を逸脱していた。
新米とはいえ刑軍であり魔法使いである私に、傷一つ負う事なく勝利して、
素人とはいえ三十人もの人間を、ただ数分で、傷一つ負う事なく勝利した。
舞うように、誘うように、たゆたうように、流れるように、それが自然体であるかのごとく立ち回る彼は、十二分に達人の域にまで達している。
そんな人間に、魔術師に、非合法に、壊し屋に――私は勝たねばならない。
「でも………」
考えるのは、後にしよう。ヒセツは出口の見えない迷路に辟易していた。今は、身体も精神も休息を訴えていた。仮眠をとろう。三時間で十分だ。今は、休もう。
2
水の入ったグラスが結露し始めたころ、カランカラン、とドアに備え付けのベルが鳴った。その音を背中で聞いた奈落は、客に誰何を問うまでもなく、何者であるかを承知していた。
アウトロウ、窓際の六人がけのテーブルの脇に、一人の客は姿を現した。シワ一つないスーツを着こなす、漆黒色のサングラスをした男。その顔は、同封されていた写真の人物に他ならない。彼は壊し屋・奈落の依頼人だった。
ルードラント本社が火事により陥落した、その翌朝、午前十時。昇りかけの日はブラインドで遮断され、どこか暗澹たる空気が店内を覆っている。出入口の修繕が済んでいないために、店内に他の客の姿はなかった。
テーブルの両端に置かれた二人掛けの座席には、奥からパズ、そして奈落が座していた。シルヴィアは奈落に背を向けるようにして別のテーブルについている。
促すまでもなく、依頼人は奈落と対峙するように席へと腰を下ろした。
口火を切ったのは、男――トキナスである。
「まずは応じてもらえた事に感謝すべきか、壊し屋・奈落」
「まあな。とは言っても、報酬に釣られただけだ。アンタがトキナスで間違いないか」
「ああ」と、短く答え、トキナスは腕を組む。そして両眼を細め、その射抜くような眼で奈落を見据えるのだ。「ところで、昨日の惨事は酷いものだった」
その視線を嫌うように、奈落は半眼になる。まさか知らないわけはあるまいと、トキナスは言外に語っている。それが、一切の信用を置いていない相手への値踏みである事を看破して、奈落は反感を抱く。第一印象は――恐らく互いに――いいものではなかった。
「ああ、当然俺も現場に行った。俺にとっちゃ非常に有益な夜だったね」
その言に、まず奈落が想起したのは英雄の顔だった。だが、それは仕事には無関係な私情であると自戒する。有益という言葉に反応したのは、依頼人も同様だった。
「ほう。聞かせてもらおうか」
奈落が不敵な笑みを浮かべる。依頼人への報告で、これに勝るものはないだろうと。
「端的に言って、仕事は完遂した」
「――というと?」
しかし完遂という単語に対し、トキナスは眉一つ動かさなかった。
「……ああ。ルードラント製薬会社はあの通り焼けちまったし、社員さえ一人も発見されちゃいねえ。――誘拐された愛娘ってのも」
そこまで言って、奈落がパチンと指を鳴らした。その合図に呼応して、シルヴィアが席を立ち姿を現す。彼女の両腕の中に、十代に満たない少女が寝息を立てていた。
昨晩、大火の惨禍で魔法使いが投げ寄越した、あの少女である。その姿は、誘拐された少女の写真の顔に相違ない。気掛かりなのは、少女は救出されてから今まで、まるで眠り姫のように眠り続けている事だ。が、その点を案じる必要性は、奈落にはない。どうせこの場で引き渡してしまうのだから。
奈落は自慢げに腕を組んだ。――何もしてないくせに。
「ほおら見てみろこのとおりだ。壊し屋・奈落の仕事は正確かつ迅速。ルードラントは焼け崩れ、アンタらの娘も見事に救出した。さてじゃあこれで依頼は達成だな」
奈落の芝居がかった口調に、トキナスは肩をすくめて嘲笑した。
「寝言は寝て言え」
「――だろうな」
挑発に、奈落は同意を示した。彼ら二人だけでなく、その場の全員が――誰一人としてトキナスの言に顔色一つ変えなかった。全員が、その誤解を承知していた。
つまりは、奈落の仕事がまだ終わっていないという事だ。
溜め息を乗せて、奈落が続ける。
「俺だって、だてに非合法やってるわけじゃねえ。大衆はあれで納得するんだろうが、あいにく俺は疑り深い。確実に、ルードラントはまだ生きてやがるな」
事実、人々はルードラントの脅威から解放されたと信じて疑っていない。昨夜の惨事を受けて、街はかつてないほどに活性化し、周囲から気味悪がれているほどだ。
しかしトキナスは、さも当然のように相槌を打った。
「ふむ、少しは頭が回るようだ」
「街全体を支配してたような連中が、ただの火事で壊滅するわけがねえ。あれは、外部犯に見せかけた、むしろ内部での放火だろ――恐らくは目くらましとしての」
結論は、つまり単純極まりない。
「そもそもルードラントの本社が火事になるって事が、本来有り得ねえ。あんだけ丈夫な外壁で囲ってたんだからな。その外壁は壊れてたわけだが――仮に、この事件が外部犯の犯行であったとしよう。そいつが外壁を壊したのも、まあギリギリ認めるとして、だ。
ところが、周囲には真新しい靴跡なんか俺らのもん以外には一つもねえ。つまり、誰一人外に出た形跡もなかったわけだ。しかし、当然のように本社はもぬけの殻だった。そして火は本社の真正面から堂々とつけられていた。
ここまでが提起だ。これらから導き出される解答は――つまりヤツらは抵抗しなかったって事だ。なぜか。放火事件はルードラントの自作自演だったからだ」
「それも正解だろうな」
――何もかも御見通しってか。
胸中で軽く舌打ちして、それを表に出さないように平板に紡ぐ。
「あいつらは、何らかの目的でアジトを離れたんだろうさ。その目的までは、まだ分かってねえけどな」
奈落は一拍置き、シルヴィアの抱える少女に一瞥をくれる。
「ま、そんなわけで。この子はともかく、ルードラントの方が未解決ってわけだな」
これまでと同様に肯定が返ってくるかと思いきや、奈落の予想は的を射損ねた。
「寝言は寝て言えと言ったろう。娘の救出も、まだ済んではいない」
彼の返答は、依頼を、何一つ達成していない事を示唆するものだった。
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