咎人の手紙/2



「契約成立だ」

言い終わらないうちに、奈落は駆け出していた。逃走者の軌跡を追うように。滑り込むように身を縮めて、店外へ続く大穴を通過した。

時刻は八時を二分過ぎていた。今はまだ、街が賑わうには早い時間だ。人通りの少ない道は逃走者の足を進めるが、人込みで見失う危険性が少ない。

とはいえ、一度は見つけなければ意味がない。周囲を見渡すが、既に逃走者の影はなかった。奈落は舌打ちし、その場で静かに瞑目する。閉じた視界に、地平線もない無窮の暗闇が広がる。現世とは隔絶された暗闇の中で、見えるものはない。だが感覚として、奈落は息吹を感じ取る。闇中に息衝くもの達の息吹を。それも数百の息吹を。

彼の内に眠る者達の中から、奈落は一つを選出する。イメージとしては、手を差し伸べる行為に近い。数百の手から一つを選び、闇から常世へと現出する。

ゆっくりと両手を胸の前に掲げ、奈落が開眼した。

「蒼の中、仰ぎの展開、先人の憧憬!」

その詠唱に応じて、彼の両手の先が淡い緑色の光を発する。続いてその緑淡色から、選出された息吹の持ち主が顕現した。

それは生物だった。扁平な円形をしていて、硬質な体表面は甲殻類を思わせる。現出したのは二体。しかし別個の生命を宿しているのではない。一対で一体。そのような特異な存在さえ珍しくはない生物群。それこそ、魔術師・奈落の内に眠る者――使い魔である。

「飛ぶぞ」

奈落が素早く両足をそれぞれの個体に乗せると、使い魔は上昇を開始した。使い魔は砲口のような器官から風を巻き起こし、大気をかき乱す。

奈落は往来を見渡せる高さにまで上昇するよう指示を飛ばした。それこそ足の延長のように使い魔を乗りこなす奈落は、滑空しながら目標を視線を方々へと飛ばす。

やがて細い路地裏に逃走者を発見する。彼は周囲を警戒していたが、さすがに上空にまでは気を配れなかったようだ。

奈落は斜面を下るようにして急降下していった。しかし使い魔が乱した大気が、不自然な風となって逃走者の頬を撫でた。

「うわっ」

「――チッ」

空に追跡者を発見した逃走者の悲鳴と、奈落が舌打ちするのとは同時だった。追跡が続いていると知るや、逃走者は再び走り出す。

狭隘な路地を飛行するのは骨が折れる。奈落は意思一つで使い魔を光の結晶へと戻して、両足で重力を確かめながら大地を蹴った。

奈落は余裕の笑みを浮かべる。逃走者と追跡者、彼我の距離は見る間に縮まっていった。

しかし、あと数歩で追いつくという、その時だった。

「危ねえ!」

思わず叫んだのは奈落。疾駆する逃走者が、まさに通り過ぎようとした、その左手側の店の扉が開いたのだ。出てきたのは紙袋を片手に提げた少女。その視界に、迫ってくる男は入っていない。奈落が干渉する余裕はなかった。逃走者と少女の距離は半歩もなかったのだから。次の瞬間には、少女は男に激突されるだろう。

だが、少女は驚くべき行動に出た。勢いに任せて突き飛ばそうとした逃走者の腕を、少女は空いた手の一本で受け流し、あまつさえ足を払って豪快に転倒させたのだ。逃走者は一切の抵抗も叶わず、うつむけになって、その場に突っ伏した。

「な……ッ」

流石の奈落も、驚きを隠せない。全くの無防備に見えた少女が見せた芸当は、例え示し合わせていても成功するとは限らない。それほどの瞬時の攻防だった。

剣呑な表情の少女は息を弾ませて、逃走者のもとへと歩み寄った。

「ちょっとおじさん!? 急に飛び出したら危ないでしょうが!」

「い、痛え、痛えなあ……っ。ついてねぇ!」

声を震わせながら、逃走者が身を翻して立ち上がる。鼻っ面を激しく打ったようで、手で押さえている鼻からは、どくどくと血が流れていた。

「うわひどい怪我。自業自得ね。これからは気をつけなさいよ?」

「な、だ、誰のせいだと思って……ッ! この、わ、我、御するは文明の源!」

逃走者の眼前で、大気がざわつき始める。先刻と同じ言葉の並び。

まずい。奈落がそう判じた頃には、事態は収束していた。

「げふっ……」

続く逃走者の言葉は詠唱ではなく、そんな、間抜けなものだった。それもそのはず、少女が咄嗟に紙袋から取り出したパンを、彼の口に詰め込んだのだ。

「ったく、危ないわね。こんな街中で魔法なんて使うんじゃないわよ!」

少女の機転が、逃走者の企みを霧散させた。

「せっかく買ったパンが台無しじゃないの。あーあ、期間限定の抹茶蜂蜜コロネが……。今日は大事な仕事もあるっていうのに、幸先悪いわねー」

残念そうにうめく少女は、年の頃十代後半、肩までの栗色の髪を、後頭部の銀色のバレッタで留めている。美しいというよりは、可愛らしいといった顔立ち。紺のジャケットにロングスカートという出で立ちは、どうにも先刻の見事な足払いとはちぐはぐな印象を受ける。

彼女は思い出したように「そうそう」とついでのように呟いた。それからジャケットの胸ポケットから小さな手帳を取り出して、笑顔で逃走者の眼前に突きつける。

「こう見えても私、刑罰執行軍です。これ以上の抵抗は認めません。おじさん了解?」

見る見るうちに、逃走者の顔から血の気が引いていく。彼は観念して力無く頷いた。

少女は満足そうに頷いて、男から奈落へと視線を転じる。非合法の壊し屋である奈落はといえば、相手が刑罰執行軍だと知って、気まずそうに視線を逸らしていた。

「そこのあなた、事情を聞かせてもらえるかしら」

「あー……要はアレだ。窃盗。喫茶店での犯行で、盗まれたのがその鞄。店に大穴開けて逃走したこいつを、俺が盗品を取り戻しに追いかけてきた」

成程、と少女は頷いた。それから犯人を半眼でじろりと睨みつける。

「窃盗罪に器物損壊罪、それから街頭魔法行為罪か。思ったより重いわね」

「まァ俺には関係ないけどな。それじゃあ俺は盗品を持ち主に届けるから――」

「却下よ。盗品を易々と民間人に渡せるわけがないでしょ」

鞄へ差し伸べた手が、少女の手で妨げられる。

「俺は壊し屋でね。逃走者の破壊と鞄の奪還を依頼されたんだ。つまり正当な権利なんだ」

非合法なのは棚上げするも、これは奈落の言の通りだった。職業的契約を結んでいる以上、刑罰執行軍といえども簡単には干渉出来ない。

万が一にでも盗品が拾得物扱いにでもなれば、奈落は報酬を失ってしまうのだ。

「――アンタ、何考えてんのッ? 盗まれて困ってる人に対して、お金を要求したの!?」

「………は?」

「そんなの無償で取り戻してあげるのが人情でしょう! 全く信じられないわ!」

「お前……。んな事言ってたら壊し屋なんざ成り立たねえだろ!」

「時と場所をわきまえなさいよ! 困ってる弱みに付け込んで請求するなんて最低よ!」

「やかましい! 俺は食っていくのに必死だぞ!」

などと口論を始める二人に、割って入る声があった。「あの、すみません」と遠慮がちな口調は、逃走者のものだった。逮捕されたために謙虚になっているのであろう。パンは食べるわけにもいかず、口から取り出している。

彼は奈落に向けて、一通の封筒を差し出した。

「これを受け取ってもらえん、すか……」

「何だ、これ?」

疑問符を浮かべながら受け取った封筒には、しかし宛名も差出人も書いてはいなかった。

「それが……俺にも解らねえんです」

「どういう事だ? アンタのものだろう?」

少女も、奈落と同様の疑問を抱く。二人で逃走者の言葉を促すと、彼は言い難そうにしながらも、やがてゆっくりと口を開いた。彼自身ですら首を傾げながら。

「それが妙でよ――でして。もう全部喋っちまいますけど、今日の窃盗、計画的なもんでした。あの女は結構な金持ちで、アウトロウの常連だって事も知ってやした」

アウトロウを知らない少女に、奈落が喫茶の名称であると注釈を加える。

「計画したのは三日前で。だけどよ、俺はこの事、誰にも言っちゃいねえんです。親友にも、もちろん家族にも。なのに――今日、家を出たら、変な男に会って……」

「変な男ですって?」

職業柄なのか、少女が熱心な表情で聞き返す。

「ああ。そいつが、見破ってたんすよ、俺が窃盗を計画してた事を。『貴方は今日窃盗をしますね』って言ってきて……。もちろんとぼけたさ。当たり前だ――っすよ。けどその男、全然聞かねえで言うんすよ、『頼みがある』って。口止め料でも要求されんだろうって思ったんだが、違ったっす。『この封筒を渡してほしい』って言うんすよ。――そう、その封筒です」

奈落と少女が封筒を凝視する。少女は気持ちが素直に表情に出るらしく、眉をひそめて、気持ち悪いものでも見るかのような視線を向けていた。

「だが、どうして俺に?」

「それが……これが一番妙でよ。その男はこう言ったんだ。『逃走した貴方を捕まえた男に、この封筒を渡してくれ』って!」

「………何だと?」

人気の少ない通りに、一陣の風が吹く。一同が凝視する封筒は、まるで存在を主張するかのように、ぱたぱたと風に揺れていた。

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