集結する意志は全容を明かす(上)/2

   2

夜陰に沈む旧市街。見渡す限り、周囲に光はない。街灯は例外なく損壊してその機能を果たしておらず、天上の光源である月さえもその全容を厚い雲に覆われ、地表への光は遮断されている。

音はあった。ほんの僅かな衣擦れのごとき音。それが幾重にも重なり、音源の方向を見失わせていた。否、そもそも方向が限定された音ではないのだろう。それは全方位から聞こえているのだ。はじめは虫や草木の音かと思ったが、違う。それは息を殺す音だった。息を殺し、しかし殺しきれずに漏れる息遣いの音。闇に身を潜ませながら、じっとこちらを窺っている無数の視線があるのだ。

「居心地が悪いわね」

と、歩を重ねるヒセツは嘆息混じりに、率直な感想を漏らした。まるで劇場の舞台に立っているかのような錯覚に陥る。自分はいま、周囲を埋め尽くす観客の注目の的だ。

だがこれほど辟易する舞台もあるまい。視線を集めるための照明もなく、ひたすらに闇が跋扈する劇場で、観客は例外なく定住する事を拒む浮浪者なのだから。

ヒセツの言葉に誰が同意してきたわけでもなかったが、皆同じような感想を抱いているのだろうと思う。闇に沈んで視認は不可能なものの、目と鼻の先には四人がいるはずだった。

奈落にパズ、シルヴィアにラナ。とりわけラナは、ヒセツ以上に不快感――というよりも怯えているに違いない。ヴェンズの街を北上し続けて一時間、暗渠と警戒の気配は歩数に比例して増すばかりだったのだから。

視界を奪われたいまは確認出来ないが、ラナはシルヴィアの袖を掴んで歩いていた。

(私じゃなくてシルヴィアを選んだのは、ルードラントの気配でも残ってるのかしら……)

実際、咽喉の奥にはまだ煙草の灰が詰まっているような気がする。

腹立たしい話だ。ルードラント破壊の助力を宣言したというのに、実際にはルードラント側の間者を演じてしまっていたのだから。

ヒセツが小さく咳払いするのと同時に、先行する奈落から声が上がる。

「着いたな」

静かな声。それに応じて、暗中の行軍は停止した。

「ヒセツ」

と、奈落が思い出したような口調で呼ぶのに対し、ヒセツは「何よ」と無愛想に切り返した。何を言われるのかはわかっていた。

「合言葉」

「正義を貫け」

この一時間で何度交わされたのか、数えるのも面倒なほどに繰り返されたやり取り。奈落はルードラントを警戒して、口を開けばこの問答を繰り返した。

だが不平を訴えるわけにはいかない。それが、壊し屋・奈落の提示した条件だった。


時は一時間半前に遡る。

電話――十一権義会ヴェンズ支部長という肩書を持つエリオ・クワブスプの邸宅には、まだ珍しい電話が備えてあった――を切ったヒセツが振り向くと、案の定、渋面の奈落と目が合った。

「お前、俺の話聞いてたか?」

「アンタこそ、私の通話聞いてなかったの?」

強気に言い返すが、その視線は逸れる。後ろめたい思いが、まだ残っているのだ。奈落の視線から、言及から、逃げるようにしてそっぽを向く。

「………お前は、これでいいんだな?」

「これがいいのよ」

これでいい等とは言わない。この選択は妥協でも投げ遣りなものでもないのだと、自分に言い聞かせるために。

ヒセツは自らに問う。自分の信じていた正義とは、一体どこにあるのだろう、と。ヒセツ・ルナの中か、刑罰執行軍の中か、それとも――奈落の中なのか。

その解答を見つけ出せないまま、しかし一つだけ納得している事がある。それは、あるいは聞き分けのない子供の駄々にも似ているのかもしれないが。

――私は、奈落と一緒に行く。ルードラント破壊という命題の結末を、迎えるために。

それが最も肝要で必要な事なのだと、ヒセツは考える。根拠の見つからないままに。

頑なな態度を見かねたか、奈落は髪をかき上げて大きく嘆息した。

「お前がいいなら、まあいいさ。俺にとっては、戦力が多いに越した事はないしな」

許可はヒセツに安寧などもたらしはしない。むしろ、胸裏に沈殿する鈍色の塊が肥大していくのを感じた。

電話口の上官――ラッケン・イヴィス・軍曹といったか――から与えられた許可もまた、ヒセツを苦しめた。確かに安堵したのも事実だが、それ以上に巨大な負荷は、安らぎを覆い尽くすに充分だった。

ヒセツは強く瞑目する。視界に広がる闇は、胸裏に沈むものと同じだ。一切の光明もなく、ただ闇ばかりが広がっている。

だがそれを打破する手段を、ヒセツは知っている。目を開ければいい。自分の意志で、自ら責任を負って決意し、行動に移せばいいのだ。

だから胸裏に溜まった不快な塊も、意志と責任と決意と行動をもってすれば、払拭出来るはずだ。しかし、いまはそのための意志が固まらない。何に責任を負い、決意の矛先をどこに向けて、どう行動すればいいのかもわからない。

だから、まず出来る事からやってみる。

正面を向く。開眼すれば、奈落がそこにいる。まず出来る決意から固めていく。責任を負って決意し行動していく。

瞳を開けるのに、これ程勇気を必要とした事はなかった。

「見つけるから」と、ヒセツは奈落と向き合って宣告する。「私は自分の信じる正義の在り処を見つけて、この選択に間違いはなかったのよって、自信を持ってアンタに答えるから」

奈落はきょとんとして瞬きするが、やがて得心したように笑みを浮かべた。

「一つ条件がある」

「……何よ?」

会話の繋がりが見えずに、ヒセツはオウム返しに尋ねる。

「正義を貫け」

「……はあ?」

「合言葉だ。ルードラントに支配されてないかを判断するためのな。俺が聞いたら、そう答える事」

成程、とヒセツは思う。関係者である事を確認する、最も古く、容易で、かつ確実な手段だ。しかしまだ腑に落ちない点があった。

「アンタからそんな言葉が聞けるとはね」

その言葉の目的が何にせよ、やはり奈落の口から放たれるには似合わない文言だった。

「多分、いまのお前に一番必要な言葉だからな」

皮肉を言うヒセツに、奈落は不敵な笑みを返す。その真意について尋ねたが、彼は答えようとはしなかった。簡単に解答を提示するような人間ではないのだ、彼は。


そして、現在。日付が変わり、時刻は一時を五分過ぎている。

奈落は往来に立ち止まったまま、地図と睨み合いを続けていた。彼の頭上には手の平大の火球を抱えるリスが浮かんでいた。羽ばたくわけでもなく風船のように空中に漂うその生物は、言うまでもない、奈落が召喚した使い魔だった。

その光源を頼りに地図を確認した奈落は、一つ頷いて背後を振り返った。

「ここで間違いないぜ」

そう告げる奈落の周囲には、目立った建造物は一つもない。ただでさえ幅のある道で、林立するのは木造家屋ばかりで、しかも風が吹けば飛びそうな程簡素なつくりである。何より二千人を収容する事など到底かなわない。せいぜいが五名程度だろう。

だが一時間の末にたどり着いたこの地点を示して、奈落は目的地への到着とした。

それは、どういう事か。

その解答は、奈落の持つ地図に記されている。パズが十一権義会に調査を依頼し、購入した情報だ。

「さあ、ここで一つの謎が解明されるわけだね」

と、パズが注目を集めるように両手を広げる。浮浪者の視線がパズに注がれるのが、気配でわかった。お調子者の彼なら、その視線でさえ感心に満ちた熱い眼差しだと解釈できるのだろう。実際、彼は気を良くしたのか、歌うような調子で言った。

「ずっとわからなかったルードラント・ビビスの居場所。北と南に別れて捜すも見つからず。二千人なんて言ったらこの街の人口の五十分の一にもあたるっていうのに」

そう。組織全体での移動にもかかわらず、ルードラントは発見されなかった。

「地図? もちろん確認したよ。大きい建物をチェックするためにね。でも残念、二千人を収容出来る建物は、僕らが宿泊を考えていた宿以外にはなかったんだ。だけどルードラントは確実にいた。だって僕らは襲われたんだから。ラナとシルヴィアは直接刺客を放たれ、奈落さんなんか罠にはめられて死ぬところだった」

「うるせえ」と、奈落が呻く。

「確実にいるのに、でも見えない。そうして途方に暮れている、まさにその時。僕らはある事に気がついた。否、思い出したと言うべきかな。それも違うなあ……そう、視野に入れた。この言い方が一番、まさに正鵠を射ているね」

パズはそこで一息をつく。誰も続きを促そうとはしなかった。奈落達は彼の居場所を既に知っているし、浮浪者達は何を言っているのかもわからないだろう。

それでもパズは質問を受けたかのように、大きく首を振った。

「うん、じゃあ答えよう。僕らが視野に入れた事――それは、この街がヴェンズだっていう事実さ。ルードラントはとりあえず近場に潜んだ――わけじゃない。敢えてヴェンズを潜伏先に選んだんだ。どうしてかって? ここで思い出さなきゃいけないのは、ヴェンズの土地柄。風通しのいい避暑地を継続するために、建物は軒並み低く、規模の大小は占有する底面積で競われるってところ。平たく言えば、開発が進まない」

それはエリオ・クワブスプの言葉だった。しかしその言は、正確ではなかったのだ。

天上へと伸ばす形での開発が困難なら――その逆に目が向くのは当然の帰結だ。

パズは天へと向けた人差指を、ゆっくりと下ろしていき、直下を指し示した。

「地下ですね」と、シルヴィアが静かな声音で言う。

「ありゃ、おいしいとこ持ってくねー、シルヴィア。でも、そう。つまりそういう事なんだよ。階層を重ねる事が出来ないなら、開発の目が向くのは地下だ。その事に気づいた僕はエリオに調査を頼んだ」

奈落が持っていた地図を、パズはつまんで取り上げる。

「そしたら案の定、地下ホテルの建設計画なんて資料が出てきた。規模はかなり大きいね、何せ三千人に対応可能な敷地面積を有するらしいし。だけど着工から一年で、計画は頓挫してる。原因はスポンサー同士の対立。ああだこうだと醜い議論してるうちに開発計画は凍結し、土地の権利の行き先も不透明になっちゃったらしいね。だもんだから、地下に出来た巨大な空洞は、誰の目にも触れずに放置される事になった」

「で、その計画に名を連ねたスポンサーの一人が、ルードラント・ビビスだった」

「……奈落さんも良いとこ持ってくね。まあ、その通り。つまりその場所は、ルードラントにとって誰にも見つからない巨大な隠れ家となったってわけ」

「そうね。そしてここが、ルードラントの部屋の真上ってわけね?」

尋ねながら、ヒセツは脳裏に地図を描く。出発前にパズから見せられた地図には、巨大なロビーから十本の線が伸びている様が見て取れた。各線の左右には宿泊部屋がずらりと並んでおり、その十線は再び束となって一つの部屋に通じていた。支配人室となるはずだったその部屋に、ルードラント・ビビスは潜伏しているのだろうと一行は推測していた。

その支配人室は、ヒセツの足裏から五メートルを下った位置にある。

ルードラント製薬会社に所属する二千人の配下は、今頃ロビーに殺到しているに相違ないだろう。囮である刑罰執行軍は、ヒセツが密告した正面口からの突入をかけているだろうから。

巨大空洞の一端に人員が集中している以上、もう一端が手薄になる事は必定。

ルードラント自身も前線の戦闘に参加している可能性もあるが、それならばそれで構わない。もしそうならば、支配人室横の関係者通路から、更に地下へと降りる。地下二階に広がるのは劇場だ。歌劇、演奏会、舞踊などの社交場として用いられるはずだった空間だが、掘削した時点で工事が中断したために、そこにはただ広大な空間が広がっているだけとなっているらしい。

そしてそこには、恐らく――ルダがいる。鯨を召喚するための儀式場として使用されている可能性が高いと、奈落は踏んでいた。収容人数千人を数える広大な空間に、小さな少女が一人、延々と呪文を唱えているのだ――。

ヒセツは拳を握る。全ての決着はもう、目と鼻の先にある。

時刻は一時十五分。鯨召喚まで、あと六時間。

「ここを降りたら、もう後戻りは出来ねえ。刻限も迫ってるしな。さて、覚悟はいいか?」

奈落は一同を見まわして、視線をやや下方へと向ける。彼が相対したのは、ラナだ。

「ラナ。君の覚悟もいいか?」

「はい」と、ラナは緊張を帯びた声で応じる。「ボクはルードラントを恐れません……ッ!」

「おいおい違うだろ?」

奈落は大仰に肩をすくめた。

「え?」

「ルードラントの鼻っ柱を折る、その覚悟を決めるんだよ」

口の端を吊り上げて言う奈落にラナはぽかんとしていたが、すぐに表情を引き締めた。

「はい! べっきべきに折ってやります!」

「いい覚悟だ」

意気込むラナの頭を撫でて、奈落は踵を返す。

見据えるのは己が足元。大地に視線を固定したまま、奈落は背後に問う。

「降りたい奴はいるか?」

「それはこの件から? それとも地下に?」と、パズが苦笑する。

「どっちだと思うんだ?」

「どっちにしても愚問だね」

「違いねえ」

短いやり取りの後、奈落は短く詠唱する。「――顕気」と。静電気をまとった両手の平で、視界を遮る頭髪を後頭部へと撫でつける。活力を宿した一対の眼が露わになり、黒髪は怒髪天を突くが如く逆立つ。壊し屋・奈落が、ここに顕現する。

「さあ行くか。くだらねえ野心を全部、ぶっ壊しに」

奈落は両手を大地へとかざして詠唱する。結末への最短距離を進むために。

「栄華の栄光、示すは具現、振るうは奔流!」

詠唱を終えると同時、奈落の両手から眩いばかりの光熱波が放たれた。振り下ろされる鉄槌の如く、光熱波は凄まじい轟音を伴って、容易にコンクリートを破砕し、吹き荒ぶ風を生んだ。無残な姿となった瓦礫と砂塵が風に打たれ、一帯に撒き散らされる。

穿たれ口を開けた大きな穴に、奈落は躊躇う事なく身を躍らせた。

「さて…と。――終わらせに行くぞ野郎どもぉおッ!」

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