倒れた皇太后

「――母上!?」


 いくら気に食わない相手だろうと、何かあったといわんばかりの音を聞いてしまったら、駆け込まずにはいられなかった。美花メイファは、いったん閉めた扉を放り投げるように開き、内側へと踏み込んだ。


 そこで見た光景に、美花メイファの瞳孔は大きく開かれた。

 先ほどまで、屏風の前に悠々と座っていたはずの皇太后の姿が、どこにもなかったのだ。否、卓の向こう側で伏していた。

「母上っ!」と切迫した声を上げながら、美花メイファは皇太后に駆け寄る。

 柳のように力なくぐったりと伏している彼女を、美花メイファは抱き上げ何度も「母上」と呼ぶ。すると、閉じられていた彼女の瞼が、震えながらゆっくりと上がっていく。


「さ、わぐな……っ、虎文」

「良かった、母上!」

「だから、静かにしなさいと……」 

「この状況で何を……!」


 ゲホッと大きくむせた皇太后は、微かに血混じりの唾を吐いた。


(毒……!)


 床には割れた茶器が転がっている。


「侍女を呼びます」


 しかし、美花メイファが部屋の外に向かって声を張り上げようとするのを、皇后の手が止めた。なぜとばかりに腕の中の彼女を見るが、彼女は首をゆるゆると横に振るばかり。

 この状況で皇帝に施されるのがそれほどに嫌かと、悲しみに似た怒りすらこみ上げてきたのだが、彼女の目を見て美花メイファは冷静になった。

 皇太后の身体に力はなくとも、目からは、得物を射殺すような強い意志が感じられた。『絶対に言ってくれるな』という強い意志を。

 美花メイファは逡巡の末に、懐から毒消しを取り出し、彼女の口に押し当てた。


「……苦いですが、頑張って飲み込まれてください」


 皇太后は、じっと美花メイファを見上げ、そしてうっすらと口を開いた。眉間がピクッと揺れたが、彼女の喉が一度大きく音を鳴らせばやっと人心地つけた。

 それは彼女も同じようで、しばらくすると自分で身体を起こせるくらいには、手足に力が戻ってきていた。


「あなたが来た時から、人払いは済ませてある。だから、あなたさえ黙っていればこの件は外には漏れない」

「……いつからですか」

「もうずっと昔からだ。先代の皇后であった時から……知っているだろう、虎文。ここでは毒など、天気が雨だったというくらいありふれたものだと」


 皇太后は口元についた血を、袖で拭っていた。多少、紅ははげたが、真っ赤な袍のおかげで、彼女の血は行方知れずとなった。

 背筋を伸ばし、凜として座る皇太后。

 そこで、美花メイファは彼女の周りすべてが赤い理由を、なんとなく悟った。


「いったい誰が……母上には心当たりでも」

「心当たりは多すぎるな。皇太后という存在を邪魔と思う者など、そこら中にいる。あなたも毒消しを持っていたということは……よく理解できるのでは?」

「そう、ですね」

「それにしても、この毒消し、味はいまいちだが、効果は屏侍医のものよりはるかにすごいな。あっという間に胸の苦しみが取れた」


 狗哭特製の薬だ。その効果はお墨付きである。

 美花メイファは、何事もなかったかのように振る舞おうとする皇太后の手を握った。


「母上……私に茶を飲ませないために、わざとあのように振る舞われましたね」


 握った手が、ピクンと跳ねた。


「犯人が誰かはわからない。だが、ここ一年、わたくし達を狙っている者の目的は予想がつく。おそらく、現政権の……あなたとわたくしの失墜なのだ」


 困ったように笑った彼女の顔は、今まで向けられていた厳しい冷然としたものより、彼女によく似合っていて、こちらが本当の顔など理解した。




        ◆




 皇太后曰く……。

 昔から毒は頻繁に様々な場所で使われてきた。だから、多少のことでは気にもしていなかったという話だ。皇后時代から付き従ってくれている、腹心の侍女ひとり以外は心を許していないという。おそらく、皇太后の言葉を与って、毎度追い返してくれていたあの侍女だろう。


 しかし、数年……特にここ一年での毒の使用状況に、今までとは違う意思を感じるようになったという。

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