過去①
「ええ、今回は私のお忍びでして。護衛兵と女官ひとりずつ……最低限の旅です。些か私には王宮は窮屈すぎる。たまの息抜きもしたくなるものですよ。離宮で過ごしている母上が羨ましくなりますね」
纏っているのも、単色の地味な女官服だ。きっと寵妃顔の化粧は不釣り合いだっただろう。西充媛に普通の化粧を習っておいて良かったと、拱手しながら
「実は」と
「訪ねた理由なんですが、探し人をしていまして。母上なら知っているかもと祖父上に聞いたものですから」
「お父様に? 手紙で良かったでしょうに」
「言ったでしょう。息抜きもかねてですよ」
項淑妃は『あっそう』とでも言いたそうに眉を上げた。同時に、『それで』と用件を促す合図でもあった。
「先帝陛下の后妃、蘭賢妃様の居場所をご存知ですか」
ほんの些細な変化だった。一瞬だけ、項淑妃の下瞼が痙攣したのだ。
しかし、美花だけでなく、六竜も飛訓も彼女の変化を見逃さなかった。それはきっと表情の微細な変化というより、一瞬にして彼女の空気が変わったからだろう。
針を逆立てた針鼠のように、その話には触れてくれるなと全身で言っている。
しかし、こちらも命が掛かっているのだ。もちろん彼女の願いは受け入れられない。
「……どうして?」
「今、宮内が少々騒がしくてですね。そこに関わっている者として、蘭賢妃の名があがったのですよ。なに、取って食いやしませんよ。ただ彼女に確認したいことがあるだけです。むしろ、何もないのであれば、彼女の無実を晴らすだけですから」
六竜は項淑妃の逃げ道をあらかじめ潰すように、間断なく喋っていた。さすがにここまで言われれば、是か非の返答くらいあるだろうと思っていたのだが、彼女が口にしたのは、予想外な言葉だった。
「蘭賢妃……彼女は、死んだわ」
「え」と美花達三人の声が重なった。
「い、いつ頃ですか、母上」
「詳細な時期はしらないわ。先帝陛下が崩御されるまで私は後宮にいたんだし、追放された彼女の情報なんて入ってくるわけないもの」
項淑妃はどこか怒っているようにも見えた。彼女は、これで満足したかしら、とばかりにしかめっ面したのだが、美花には新たな疑問が生まれた。
では、情報が乏しかった彼女が、どうやって蘭賢妃の死を知ったのか。同じ疑問を持ったのだろう。六竜が項淑妃に尋ねる。
「そ、それは……」
彼女は途端に口ごもり、目を泳がせた。この反応、偶然知ったや、普通に誰かから漏れ聞いたなどではなさそうだ。何かあるのは間違いない。
「母上、答えてください。これは私の命にも関わってくることなのですよ」
「――っ」
さすがに息子の命に関わると言われては、項淑妃も無視できなくなったのだろう。泳いでいた目は丸く見開き、六竜を凝視していた。そして、一度唇を噛むとおもむろに口を開いた。
「……彼女は、追放された後実家にも戻れず、東へと行ったと聞いたわ。多分、寿鼠府……人流が多い街なら、女の放浪者いてもさほど気にされないでしょうし……」
美花は「ん?」と彼女の言葉に引っかかりを覚えた。
「項淑妃様。もしかして、蘭賢妃様は身ごもられていませんでしたか」
「どうしてそれを……っ!」
言った後で、項淑妃はしまったとばかりに口を両手で押さえる。
「寿鼠府の雲泉堂というところを訪ねたことがあります。そこの女将が、二十数年前、王都から、身ごもったとても美しい女人が流れてきたという話をしてくれました。身分は明かさず、何かワケありの様子だったとか」
「そういえば」と、隣で飛訓が呟く。
「確かその女人は男児を産んで数年後に、男と一緒に姿を消したと……二十数年前なら、ちょうど蘭賢妃様が追放された頃と被りますね」
「そう……そこまでもう分かっているのね。私に彼女の死を伝えてくれたのは、彼女の子供よ」
項淑妃は、訥々とだが話しはじめた。
彼女が離宮に入って一年が過ぎた頃、ひとり、二十手前くらいの少女が訪ねて来た。少女は母親から、よく『何かあれば項明を訪ねなさい』と言われていたらしい。もちろん、項淑妃は突然現れた少女を訝しんだ。人違いではないのかと。しかし、少女は『淑妃の項明』だと言った。淑妃の項明などこの世にひとりしかいない。少女は項明が先帝の後宮にいたことを知っており、後宮から出て来るのをずっと待っていたのだという。彼女の離宮暮らしがもう少し遅ければ、後宮宮女となって訪ねていくつもりだったとも。
そこまでして自分に会いに来るとは、この少女には何かある、と思った項淑妃は少女を離宮に受け入れた。
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