弟の不安

 彼女は、虎文が皇帝になり持ち上がるようなかたちで六竜リウロンが次期皇帝である皇嗣となった時、最初に与えられた六竜リウロンの後宮妃だった。確か、どこかの地方貴族の娘だったか。その街一帯で『美女といえば』と訊くと、必ずいの一番に名が上がるという噂があったとかなかったとか。


 確かに、雲蘭は美しい。

 この世の美女が集めたと言われる皇帝の後宮。そこの后妃達にも勝るとも劣らぬほどに美しい。香でも焚きしめているのだろう。梳きたくなるような艶やかで長い黒髪からは、桂花キンモクセイの香りがふわりと漂ってくる。

 しっとりと吸い付くような傷ひとつない真珠色の肌。女人の魅力をふんだんに詰め込んだ柔らかい身体。迎え入れるように薄く開かれた、厚い唇。

 そのすべてが女人の一級品だった。


 十五で迎えた初めての自分の妃。自分よりひとつ二つ年上だったと思うが、威張ったところもなく従順なものだった。

 若さもあったのだろうが、随分と彼女の身体に溺れたものだ。今思い出しても、猿のほうがまだ手加減すると思えるほど何度も肌を重ねていた。


(まあ、多少なりとも皇嗣になったことを喜んでいたんだろうな、俺も)


 皇帝になるつもりはサラサラないが。

 今、皇帝――の身代わりである美花メイファ――は視察に行っており、皇帝代理で朝議に出席しているが、正直自分には向いていないなとしみじみ思った。あちらを立てればこちらが立たず、こちらを立てれば今度はあちらが立たず。

 そういった、ちまちました調整をするのが苦手だった。今は、皇帝の代理という立場ゆえに抑えているが。もし、皇帝になったら全部面倒くさいのひと言で独断即決するだろう。

 だから、早く皇帝には子を作ってもらいたいのだが……。


(兄上が戻ってこないと、こればっかりはどうにもならないからな)


 六竜リウロンは、自分の腕に甘えるように絡みつく雲蘭にチラと見下ろす。


「雲蘭」

「はい、殿下。なんでしょう」

「お前は俺に皇帝になってほしいのか」


 意地の悪い質問だったかなと思ったが、王宮の中に住む女人で欲のないものなどいないだろう。欲があるから王宮に集っているのだ。


を除いてだろうがな)


 六竜リウロンは、現在の日華殿の主を思い出してクスッと笑った。

 一方、雲蘭は「まあっ」と、目も口も驚いたとばかりに丸くしていた。


「殿下ったら本当意地悪なお方。わたくしは殿下の隣にいられたら、殿下の肩書きなどなんでもよろしいのですよ」

「子ができなくともか」

「わたくしにとっては殿下こそが必要なんですから」


 ほう、と六竜リウロンは面白いものを見るように細めた目を向けた。雲蘭の顎を掴み、強引に上向かせる。


「そんなに俺を愛してくれていたとは重畳。子を子をとうるさい兄上の后妃と違い、俺は良い妃を持ったものだな」

「わたくしも、このように殿下の瞳に映してもらえて嬉しいですわ」


 幼い西充媛がなぜ虎文の寵妃だったか、六竜リウロンには彼の気持ちが分かった。まだ二十にもなっていない西充媛と違って、四夫人は皆二十も半ばだ。子をと気が焦る頃合いだ。

 虎文も子を作る気はあるのだろうが、美童と呼ばれた頃の名残の女性的な美しさが、彼に子作りに無関心なのではという空気を纏わせてしまっている。それが余計に彼女達を焦らせているのだろう。


 兄は内面は鋼のように強いが、端から見ると女人のように頼りなく思えてしまう。弱腰皇帝と渾名されるほどには……。見る目を持たない馬鹿の戯れ言と、彼の本質を知る者はいちいち取り上げないが。

 きっと、兄は後宮を訪ねるたびに子作りを迫られ、嫌気がさしたのだろう。それで、後宮で一番幼い妃――西充媛に癒やしを求めたと思われる。


(おぼこい妃だったもんな。それに対してこちらはどうかな)


 兄に子ができるまで、子を作るつもりはない。

 雲蘭がぽってりした口を開いた。


「覚えていてくださいまし。わたくしはそんなに弱い女じゃございませんのよ」

「弱いと思ったことはないな」

「ふふ。わたくしがここにいるのは、殿下と同じように家族を想ってのことですもの」


 俸給のためか。王宮の勤め人となって実家に仕送りする者達は多い。


「素直で良い」


 六竜リウロンは、雲蘭の柔らかい唇に触れるだけの口づけを落とし彼女の部屋をでた。





 

 空はまだまだ青い。

 はぁ、と清々しい空に六竜リウロンはため息を流した。


「護衛兵……頼むから理性だけはしっかりと繋ぎ止めとけよ……」


 今視察先で彼女は何をしてるだろうか、と軽い気持ちで遠見を使ったのだが……。まさか、温泉の中で抱かれている光景を目にするとは思ってもなかった。しかも、雲蘭に呼ばれて意識を逸らしたため、その続きは分からない。


「あいつは素直とかいう話じゃないんだよな」


 ただの馬鹿だ。自分が周囲からどのように見られるか認識していない、ド阿呆である。


「帰ってきたらしこたま怒らねえとな」


 ふと、嫌な感じが背中の真ん中を駆け抜けた。


「帰って……来るよな……?」


 六竜リウロンは眉間に濃い皺を刻み、東の空を見つめた。



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