仕掛けられた毒

 毎日の政務処理と過去の朝議録を読むのに忙しくて、後宮などいつの間にか頭の片隅に追いやられていた。過去の朝議録を読まないと官達との話に齟齬が出てしまうし、政務処理もしないと政が滞ってしまう。そして、夜はいつ来るか分からない刺客に対し、次はどうやって口を割らせるか、などと考えていると、後宮のことを考える余裕などなくなっていたのだ。


 というより、女であるため、女の園である後宮に意識が向かなかったのもある。


「しばらく体調が悪かったし、病み上がりで色々と溜まっていた政務もこなさなければならなかったからな。訪ねる時間がなかっただけだ」


 それらしい理由を述べて、いかにもわざと行かなかったように装う。


「左様でしたか。では、まだ後宮を訪ねるのは難しそうですね」

「轟尚書令が心配しなくとも、その時が来たら足を運ぶから安心しろ」


 どうやら無事にだまし通せた。しかし、なぜこのようなことをいきなり聞いてくるのか。


(もしかして、子を早く作ってほしいとか?)


 官達にとっても後継者というのは、国を安定させるために早く望まれるものである。しかも、求められる子はひとり二人ではない。特に男子はできるだけ多く望まれる。虎文の年齢ならば、そろそろひとりくらいは、と思われているのだろう。


(男子……ね)


 ク、と勝手に口端が引きつる。無意識に手が胸を撫でていた。

 同時に生まれたというのに、女だからという理由だけで、自分のほうが消されてしまった。虎文のほうを、という意味ではない。ただ、生まれる性別が違っただけで、運命はこうも分かれてしまったのだなと、妙な感慨があるだけだ。


(それが今、こうして皇帝のふりなんてしてるんだから、本当運命も分からないものね)


 その他の発言がなかったことから、この日の朝議は閉じたのだが、席を立つ際に項中書令が近寄ってきて、妙なことを言われた。


「陛下、轟尚書令をあまり信用なさいますな」


 ボソリ、と呟かれた捨て置きがたい言葉。

 その意味を問おうとしたが、すでに彼の背は遠くなっていた。



 

        ◆




 項中書令のあの言葉は、どういうつもりで言われたものなのだろうか。

 メイファは執務室で、過去の視察に関する記録に目を通していた。


(なるほど。虎文の治世になってからの視察は、ほぼ轟尚書令が名代で行っていたのね)


 項中書令の言葉が気になって、轟尚書令のことを軽く調べてみた。今のところ手元の記録からだけでは、積極的に地方に目を向けてくれる長官という印象しかない。


(こればっかりは、今までの王宮事情を知らなかった私には考えても分からないことね)


 メイファは、両手を天井に突き出して「んーっ」と背中を伸ばした。

 すると、ちょうど茶を淹れ終わった飛訓フェイシンが、盆にのせて茶を運んで来る。茶は女官が決まった時間に運んで来るようになっており、それが休憩の合図となっている。メイファの仕事中は執務室の外で門兵よろしく立っている飛訓フェイシンが、女官から茶を受け取り、部屋の中で淹れてくれることになっていた。


 なぜ、このような面倒な形態になっているのかは不明だが、過去に何かあって、虎文との間で今のかたちに落ち着いたのだろう。毒味も茶を淹れた飛訓フェイシンが行う。


「武官のお前に茶など……さずかに退屈じゃないのか」

「今更何を仰るのやら」


 飛訓フェイシンメイファの目の前で茶をひと口だけ飲む。コクンと彼の喉が動き、ややあって「問題ありません」と机に置かれた。

 目の前に置かれた茶からは、仄かに甘い香りが漂っている。

 そして飛訓フェイシンは、メイファの傍らに膝をついてメイファの手をとった。


「陛下を守ると、あの日に誓ったではありませんか。あなたを守るのは国を守ること。禁軍の役目に何も反しておりません」


 メイファの手に手を重ねて語る彼の表情は、相変わらず感情の読めない恬淡としたものだったが、向ける目だけは気持ちいいくらいに澄んでいて、まっすぐだった。


「陛下が心の底から笑えるようになる日まで、私がお傍で憂いを払いますよ」


 メイファ飛訓フェイシンに対する評価は、融通の利かない食えない男、嘘くさい笑みをする腹黒男という信用とは言えないもの。

 しかし、彼の虎文に対する想いだけは信じても良いと思えた。

 それがメイファには嬉しかった。誰が敵か味方か分からない中で、兄に掴める藁があったことは、彼がギリギリでも生き延びれた理由だろう。

 メイファは重ねられている彼の手に、自分のもう片方の手を重ねた。


飛訓フェイシン……お前がいてくれて良かった。ありがとう」


 気づいたら飛訓フェイシンの手に頬を寄せていた。この手が虎文の救いだったかと思うと、飛訓フェイシンの手でも愛おしく感じてしまう。


「……陛下、茶が冷めてしまいます」

「ああ、そうだな。それじゃいただこうか」


 茶に視線を向ければ、顔の近くにあった飛訓フェイシンの手がするりと逃げた。

 メイファは気にすることなく、その手で次に茶をとる。じんわりと指先が熱くなる。良い香りに目を細め、ズッと茶をすすった美花はほぅと熱い息を吐き出した。


フェイシン、大丈夫か」


 いきなりの質問に、飛訓フェイシンは首を傾げる。


「大丈夫と言いますと?」

「これ、毒だぞ」


 次の瞬間、フェイシンによって茶器は床に叩き落とされた。

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