美花が生きている理由②
拾い上げた彼女は落ちてきたものを見て、クスリと微笑した。
『どんぐりだなんて……私にはリスさんがついてくださっていたのですね』
瑠貴妃はどんぐりを握りしめると、床に打ち付けんばかりの勢いで叩頭した。
『このままではあの子は殺されてしまいますっ。この国にとって、それがなすべきことだとも理解しております。しかし……っ、私は腹を痛めて産んだ我が子を……まだ何も知らぬ、罪すら犯していない愛らしいだけの我が子を殺さねばならぬのは……耐えられないのです!』
涙声で叫ぶ瑠貴妃を、天井のリス――李張は黙して眺めていた。
つい数日前までは、美しい姿で大きな腹を愛おしそうに撫で、皇帝と笑みを交わしあって幸せそうに笑っていた。そんな彼女が今は、櫛も入れていない髪を床に散らばらせ、芋虫のように丸くなり震えている。
『私の命はいりません! ですから、陛下の血を引いたあの子だけでも助けてください! どこか、誰も知らぬ場所へあの子を連れて行って……幸せに暮らしていけるように……っお願……し……ッどうか……』
額を擦りつけて、『どうか』と繰り返す瑠貴妃の姿に、同情を覚えない者がいただろうか。
『我らは皇家を守る者。その幼子の身に皇家の血が流れているのであれば、断れはせぬ』
李張は瑠貴妃の前に姿を現した。
『ただ、勝手に赤子が消えれば、それこそ草の根分けても探し出そうとする輩が現れる。下手をすると、行方不明の公主だと、虚言で人心を惑わせる不届き者も現れるかもしれん』
しかし、瑠貴妃は視界に入った李張の足先を見て、僅かに背中を跳ねさせただけで、決して顔は上げなかった。
李張は、この時点でなぜ皇帝が彼女に惹かれたのか理解した。彼女は賢かった。それは科挙などに必要とされる賢さではなく、相手が守っているものを決して侵さないという、線引きの上手さである。
もし、ここで瑠貴妃が顔を上げて李張の姿を見ていたら、今後李張はずっと「彼女に姿を知られている」という懸念を抱かなければならないところだった。
しかし、彼女はそうしなかった。
だから、李張は瑠貴妃の願いを叶えたのだった。
李張はすぐに、嬰児の死体を用意した。この死体を公主と偽り、死んだことにすればいいと。
ころん、と床の上に転がされた嬰児を見て、瑠貴妃の顔は蒼ざめた。
『まさか、身代わりにするために、どこかの子を殺したのでは……っ』
『そのように面倒なことをせずとも、赤子の死体など、戦場になった村や山の中にはよく落ちている』
『……そうですか』
悲しみが滲んだ声音だったが、強張った顔は安堵に緩んでいた。
瑠貴妃は蝉のさなぎのように縮こまった嬰児を脱いだ袍で包み、『少しだけ待っててね』とまるで生きた者に声を掛けるようにして、寝台の奥へと隠した。
そうして、侍女を呼んで『ねえ、髪を結ってくれるかしら』と、綺麗に笑った。
その後、化粧を施し身なりを整えた瑠貴妃は、皇后宮を訪ねた。
芙蓉にたとえられ、皇帝の寵愛を一身に受けた美しい美しい貴妃が、再び日の下に現れちょっとした騒ぎになったものだ。皇后は親しくしていた瑠貴妃が訪ねてきたことと、僅かながら笑顔が戻ってきていたことに安堵し、両手を広げて迎え入れた。
双子は一時的に皇后宮で預かられており、瑠貴妃は双子に会わせてほしいと願った。皇后はもちろん快諾した。
『ああ、やはりとても愛らしいですわ。このふにふにの頬……ふふっ、手なんか繋いで眠って……寝顔もそっくり。仲良しさんで嬉しいです』
『ああ、あなたの子だと思うと、わたくしも可愛くて仕方ないよ。しかし……っ』
皇后の顔が曇った。皇后にも、双子の片割れがどうなるのか分かっていたのだろう。
『皇后様、一晩だけ娘と過ごしてもよろしいでしょうか』
『瑠葉……』
誰が、生まれてすぐに死を賜る娘と母親が、たった一晩共に過ごすことを拒めただろうか。皇后は静かに頷いた。
『瑠葉、この子達の名は決めたのか』
『はい。男児が虎文で、こちらの子が……美花ですわ。生まれる前に、陛下と男の子だったら、女の子だったらと決めていました。まさか、どちらも名付けられるだなんて、思ってもみませんでしたけど』
女児を腕に抱いておかしそうに眉を下げた瑠貴妃から、皇后は目を背けた。
『皇后様……いえ、
皇后の名を呼び、瑠貴妃は深々と頭を下げた。
翌朝、瑠貴妃を起こしに寝室に入った侍女は、朝の静けさをつんざくような悲鳴を上げた。
真っ赤な袍を纏った瑠貴妃と胸に抱かれた赤子が、一本の剣に身体を貫かれ死んでいた。
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