護衛兵の本心

 

 緊張と長旅とで疲れていたのだろう。腕の中の彼女は、つい先ほどまであれだけ喚いていたのに、いつの間にかすーすーと穏やかな寝息をたてていた。


「本当……俺の気持ちは伝わっているのやら……」


 おそらくだが、ほぼ間違いなく彼女は並の者ではない。

 ここまで完璧な身代わりを演じられるということは、そういったことを生業としている者でないと無理だ。きっと、あの毒の件がなければ今もまだ彼女を皇帝だと思っていたに違いない。しかも、彼女個人で引き受けたわけではないのだろう。いち個人に皇帝の身代わりなど依頼するはずがない。


 それに彼女は、以前に自分が毒味して気付かなかった弱毒にすら気付いた。日常的に毒に対する訓練をしていなければ無理なことだ。

 それらを勘案すると、彼女は自分の身を守れる程度には武術が使えるはずだ。

 きっと彼女が本気を出せば、自分が襲いかかっても逃げることくらいはできるはずだ。


「だから、完全に拒否されている……というわけではないと思うんだが」


 飛訓は、美花を起こさないように静かにゆっくりと腹部に回していた手を離し、するりと寝台を出た。

 窓から外を見ると、いつの間にか日は落ちてすっかり空は紺碧色だ。


 通りに人けはほぼない。街に入った時にも思ったが、この寿虎府という街は大都市に数えられるほどだというのに、人々の活況さは少ない。圧政が敷かれているという話は聞かないし、民の暮らしが貧しいというわけでもなさそうだ。

 飛訓は窓台に腰を下ろし、チラチラと見える赤い火をぼうと眺めていた。

 見回りの兵士の手燭か松明だろう。


 チラと寝台へと視線を振る。彼女の背中が規則正しく揺れていた。

 こうしていると、本当にただ夫婦で旅行に来ているかのようだ。誰も彼女を見て皇帝だとは思わない。自分を護衛兵だとも思わない。


「人生とは、わからないもんだな」


 よく韓大将に、『いい年なんだし、さっさと女房もらって腰を落ち着けろ』と言われていた。確かに、二十七という歳は結婚には少々遅いくらいだ。

 女が嫌いだとか、過去にヒドイ振られ方をして傷心している……というわけではない。相応に好意を寄せてくれる女もいたし、花楼で妓女を買うこともあった。しかし、ずっと傍にいたいと思ったことは一度もなかった。


 彼女達はよく笑い、よく身体に触れ、よく潤んだ目で見つめてきた。

 それでも心が動くようなことはなかった。ざわつきもしなかった。自分はきっと一生女には縁がないのだな。このまま皇帝の専属護衛兵として侍るのも悪くない、と覚悟すら決めていた。


 しかし、ある時期から皇帝と接していると、心がざわめく機会が増えていった。

 よくよく考えれば、自分は本能的に何か察知していたのだろう。いくらなんでも数年もずっと一緒にいた皇帝に、今さらそういった感情を抱くのはおかしすぎる。性癖が変わるにも限度がある。


 彼女はさして笑わないし、滅多なことでは触れてこないし、決してそういった目を向けてこない。

 だからこそ、皇帝の仮面から時折見せる彼女自身の表情に惹かれたのだろう。


 一度――今でも理由はわかっていないが――彼女が感情を爆発させた時があった。寿鼠府視察の時だ。

 堪らなくなった。

 この際、もう衆道と思われても良いと思った。


 震える華奢な肩を抱く自分の手は、ずっと雷撃に打たれたかのように痺れていた。涙で濡れた瞳に釘付けになった。「何も知らないくせに」と言う言葉に「だったら教えてくれ」と願った。その涙が止まるのなら、なんでも受け入れるからと。


 しかし、専属護衛兵とはいえたかが平民の自分と皇帝では、背負うものが違いすぎる。あの時の自分は踏み込むこともできず、ただ傍にいるからと伝えることしかできなかった。

 どんな女にも抱いたことがなかった『ずっと傍にいたい』という感情を、生まれて初めて持った。


「あなたは、俺がこれほど愛してるなんて思ってないんでしょうね」


 自分が好意を持っていることは知っているだろう。言動で伝えているのだから。

 ただ、その好意の深さをきっと彼女はまだ知らない。


「いつか、俺にあなたのすべてを教えてください」


 独り言を彼女の背に投げる。


「ぅう……んん……」


 驚いた。まるで返事をするように、美花がごろんとこちらを向いた。口をむにゃむにゃさせ、またすーすーと穏やかな寝息を立てる。


「……本当に顔は驚くほど陛下に似ているな」


 身代わりに選ばれたとはいえ、これほどに似た他人が存在するのだろうか。


「そういえば、王弟殿下ともやけに親しげだったが……」


 兄として接しているからなのか。いや、皇帝姿の時なら分かるが、女官のふりをしている時でも二人の関係は身分差などないようだった。王弟が美花を気に入っているのは、彼の様子からわかる。彼女と距離が近いのも好意の表れだと思う。

 しかし、彼女が彼とまるで対等かのように振る舞うのはなぜだろうか。それを王弟も許している。


「さて、明日は聞き込みをしなければならないし、俺も寝るとするか」


 飛訓は、寝返りを打ったときに肩からずり落ちた掛布をそっと掛け直すと、入り口の扉を背にして床に座った。


「野営のようにして寝るのは久しぶりだな」


 本当は、彼女の了承なく抱く気などさらさらない。色々我慢しているのは本当だが……。

 できれば、彼女から自分を求めてほしい。

 彼女に「いい」と言ってもらいたい。

 本気で触れることを、愛することを許してもらいたい。

 飛訓は剣を抱き、瞼を閉じた。


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