こうして彼は皇太子の護衛兵となった

 そうこうしている間に、皇太子は自分の口に指を突っ込んで、胃の中のものを吐き出した。生理的な涙を流しながら何度も嘔吐し、彼はまだ形の残る菓子と茶をすべて床に戻した。


『はぁ……、はぁッ……』

『殿下!』


 仰向けに床に転がった彼は、息は荒くしていたものの、顔色は回復していった。

 茶か菓子に毒が仕込まれていたのだ。


『申し訳ございません、殿下……っ』

『あなたが、なんともなくて……良かった、よ……』


 飛訓フェイシンは、吐瀉物で汚れた皇太子の手を握りしめ額を擦りつけた。悔しさと怒りで噛んだ唇からは、血がポタポタと流れていた。





 毒については、すぐに仕組みが判明した。

 侍医が調べた結果、毒物ではないが、菓子や茶には使われない薬草が入っていたという。

 それ単体での影響はないが、食い合わせると毒性を発揮してしまう代物だった。同じ物を食べた飛訓フェイシンに中毒反応が出なかったのは、少量だったことと、それぞれ単体で食べたからという話だった。


『きっと、茶と菓子を一緒に口に含まれたのなら、すぐに殿下は気付かれたでしょうな』


 とは、侍医の言葉だ。

 弟とはいえ、第二太子は以前より皇太子の座を狙っていると噂があった。

 おそらく皇太子は、宦官が去るまで我慢していたのだろう。弱みを見せ侮られないようにという、皇太子の意地だった。


 自分より五つも年下の少年とも付かない者が、弱みを見せないようにと毒すら我慢して飲み込み、たかが護衛兵に対して無事で良かったと声を掛ける。

 どこの世界に、これほど強い者がいるだろうか。

 こんな小さな、頼りないとさえ思った身体に、彼はどれほどの強さを秘めていたのか。


 

 飛訓フェイシンは、第二太子付きの宦官を斬り殺した。

 王宮内での刃傷沙汰。たとえ皇太子の護衛兵であっても、攻め入られたわけでもなし、許されることではなかった。重罪である。

 それがわからぬほどフェイシンは蒙昧ではないし、後先見ずではない。まず規律が重要視される禁軍に、そのような直情的な者が入れるはずがなかった。


 しかし、フェイシンはやった。

 すべては皇太子のために。


 宦官を皇太子宮へと呼び出し、同じ東屋で首を貫いてやった。そして、その死体を第二太子宮へと投げ込んだのだ。

 見せしめだった――『皇太子を害しようとする者は、こうなるぞ』という。もちろん、誰もが宦官単独の計画ではないことは気付いていた。背後にいた者が誰かなど分かりきっていた。しかし、そこまでは追及できない。


 第二太子を断罪するには、証拠も彼が関わったという証言も足りなかった。

 だからこそ、フェイシンは皇太子を守るために、大勢に見せしめたのだった。

 その後、宦官が皇太子に毒を盛ったことと、皇太子が護衛兵に命じて処分させたと証言したことにより、護衛兵のフェイシンが罰せられることはなかった。

 そうして、皇太子は飛訓フェイシンを専属護衛兵に任じ、皇帝になっても隣に置き続けた。飛訓フェイシンも、当初抱いていた皇太子への認識を変え、片時も離れることない忠実な臣下となった。




        ◆




 と、そんな懐かしいことを飛訓は、馬上で思い出していた。



 今日は、朝から可府督のすすめで、新たに湧いたという温泉へやって来ていた。皇帝を馬車に乗せ、寿鼠府の街を出て半刻(一時間)。

 城外はしばらく荒野が広がっていたが、遠くに見えていた山の稜線がくっきり見える頃には、高低様々な木々が生い茂り、冬も近づき色づいた葉が景色を染める絶景へと変わっていた。

 新たな温泉ということは、元々そういった土地なのだろう。確かに、独特の香りが漂っている。ただし、風がよく通るのかそこまでの不快さはない。


「陛下、到着いたしました。景色も見頃ですし、きっと良い湯治になると思いますよ」


 可府督が馬車の中に向かって声を掛けるが、皇帝は降りてこない。


 

 それもそのはず。

 外から可府督が声を掛ける中、美花は馬車の中で頭を抱えていた。


「嘘でしょ……温泉がこんな場所にあるなんて聞いてないわよ……!」


 自然豊かな場所とはいえ、あまりにも開放的すぎだと思う。


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