さっきまで普通だったじゃない!

『さすがに、三年前の尚書省からの『人事考課書を出せ』っていう手紙を見たら、このままで良いなんて言えませんよ』


 人事考課書は、武官達のその後の出世にも関わってくる。もし、未提出で全員査定が下げられていたらと思うと、一発叩きたくなってくる。しかし、位階が下がったことはないため、どうやってかしっかりと査定は行われているのだろう。


『そういや、この間もどっかの部省が名簿が必要だって言ってきたな。それはこの間の視察のやつだったから、日もそんなに経ってなかったしすぐ見つけられたんだよなあ』

『巡幸名簿ですか!』

『痛ぁッ!!』


 咄嗟に飛訓は名簿という言葉に声を大きくしてしまった。同時に、ゴッ! という痛そうな鈍い音と、韓大将の猛々しい悲鳴が聞こえた。


『だ、大丈夫ですか、韓大将』


 執務机がガタガタと揺れている。慌てて覗き込めば、彼は後頭部をさすりながら、声を詰まらせていた。天板に頭をぶつけたのだろう。


『お、まえ……っ、いきなり大声は、やめろよ……っ』


 こんな弱々しい声を出す彼をはじめて見た。飛訓は素直にすみませんと謝り、『それで』と食い気味に名簿について尋ねた。


『それでってお前……まあ、良いけど。どこの部省かはわからねえけど、あいつにに聞きゃわかんじゃねーの』


 わからないというか、おそらく聞き流していたのだろう。


『あいつって誰ですか』

『あー確か宇玄だったかな。頼まれたって』


 灯台もと暗しだ。




 

『おー飛訓じゃん、お疲れい』


 訓練場で朗らかに手を振る宇玄を見つけた飛訓は、ずかずかと大股で近寄ると、宇玄の両肩を掴んだ。力強さに宇玄の身体が「何事!?」とばかりに強張る。


『ナ、ナニナニナニいきなり!? 俺、また何かしちゃった!?』

『韓大将からもらった名簿はどこに渡したんだ』

『め、名簿!?』

『寿鼠府巡幸の時の、龍武軍の名簿だ』


 宇玄は視線を斜め上へと飛ばし、『あー』と唸りながら記憶を探っているようだった。


『確か、尚書省の……部までは覚えてないけど持っていったね』

『ったく、記憶力まで鶏だな。とりあえず尚書省に行けばいいんだな』

『いや、記憶力までって何!? 他にも俺に鶏成分あるかなあ!? って、まあ、鶏はいいとして、いや尚書省にはもうないよ』

『なんだと!?』


 ではどこに、と焦ったのも一瞬。


『だって、もう返してもらったからね』


 宇玄は『へへ』と頬を掻きながら、甘ったれた笑みを向けてきた。ので、渾身の力で頭をどついておいた。本来、すぐに韓大将に戻さなければならないのだが、どうせ「明日でいいや~」と放置して、そのままズルズルと忘れていたのだろう。

 その後、首根っこを引っ張って行き、彼の部屋から発掘させた。『あったよ~』とへらへらした顔して小走りでやって来た時には、もう一発お見舞いしてやろうかと思った。


『で、なんで飛訓は名簿なんて探してたの? もしかして、陛下の命令?』

『いや……韓大将が確認したいことがあるって言っててな。じゃあ、返しておくから』

『あーい、よろしくー』




        ◆




「じゃあ、名簿はしばらく尚書省にあったていうこと?」


 飛訓の曖昧な表情の理由が分かった。尚書省を調べると言ったのはこちらだ。それなのに、見つけられなかったとは。


「ごめんなさい、余計な手間をかけたわね。もっと私がしっかりと尚書省に聞いておけば……」

「いえ、入れ違いになっただけでしょうし、お気になさらず」


 しかし、何はともあれ、目的の名簿は手に入ったのだ。さっそく開いた名簿を二人して覗き込む。

 中に書かれていたのは、本当に役職と名のみ。韓大将を筆頭に各部隊長や兵卒の名が、等間隔に並んで書かれている。名簿を作ったのは韓大将のはずだから、見た目に寄らず彼はきっちりと整った文字を書くようだ。おかげで、名前が見やすい。


「ざっと百名くらいね」

「そうですね。結構、俺の見知った名もあります」

「だったら、あなたが見たほうが良いわね。この中で、視察前後で妙な言動をしていた者や、普段から皇帝に反感を持ってそうな者を洗い出してほしいの」


 美花は名簿をバラララとひと息に最後まで捲ると、パタンと閉じて飛訓へと差し出した。


「私はもう覚えたから」

「覚え……え? 百名の名を……ですか? この一瞬で?」


「ええ、そうよ」と目を瞬かせる美花に、飛訓はゆるゆると首を横に振った。


「あなたには、とことん驚かされますよ」

「そこまでかしら」


 まあ、確かに狗哭の中では物覚えが良い方だと思うが、そもそも狗哭にいるのならこの程度必要な技術だ。潜入にしろなんにしろ証拠品をいつも持ち出せるとは限らないのだから。


「さて、じゃあ明日は歩き回らないとだし、さっさと休みましょ――っとと?」


 なんの気はなしに声をかけただけなのだが、なぜか飛訓が柔らかに肩を押してきた。おかげで寝台に半ば寝転ぶかたちになっている。


「…………何をしてるのかしら、飛訓?」


 掛布を手にして、美花の上に跨がる飛訓。その顔は、「え、何が?」と言わんばかりにキョトンとしている。


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