ごめんなさい、お兄様。とっちゃった……

「あー……だから西充媛なのね」


 彼女は、后妃にしては珍しく化粧っ気が薄かった。


「まあ、彼女が私の寵妃なのは他にも理由があるんだけどね。あ、化粧は彼女に教えてもらうと良い」

「そんな……一応私は今あなたの寵妃ってことになってるのに迷惑よ」

「彼女はそんなこと気にするような狭量な女人じゃないよ。ああ、そうだ美花メイファ。ついでに頼まれてくれ」


 虎文フーウェンに託された言葉に、美花メイファは頬を緩めて「わかった」と頷いた。



 

        ◆



 

「花姐姐お姉様!」


 久しぶりの後宮で、美花メイファは花美人に扮して西充媛の宮を訪ねていた。

 顔を合わせた瞬間、飛びかかってこられ「寂しかったです!」と抱きしめられた。つい「お、おぅ」と変な声を漏らしてしまった。以前はこれほど積極的な様子は見受けられなかったのだが、もしかすると結構押しが強いのかもしれない。


 しかし、素直に来訪を前進で喜んでくれる姿には、つい頬も緩むというもの。きっと、虎文フーウェンも彼女のこのような裏表のない素直さが好きだったのだろう。

 突然の来訪に首を傾げる彼女に、美花は「化粧を教えてくれ」と頭を下げた。





 鏡の中には、花美人よりかは控えめで、しかし皇帝よりもしっかりと女とわかる顔が映っていた。花美人をあでやかな深紅の牡丹に喩えるのなら、西充媛が化粧を施した今の花美人は、淡い霜を纏いながら目を覚ました、白いザンのような清廉さがあった。派手さはないが、そこにいるだけで匂い立つような女らしさがある。

 西充媛だけでなく、彼女の侍女達まで拍手して化粧の出来栄えを喜んでいた。


「やはり……愛し合った男女は似るものなのですね」


 西充媛は平気な顔をして言ったが、声にはどこか寂しさが滲んでいた。

 そうだ。今、皇帝の寵妃は花美人ということになっているのだ。本来ならば、今の寵妃である美花メイファの顔など見たくもないだろうに……。それでも彼女は、こうして両手を広げて無邪気に迎え入れてくれる。


(本当に虎文フーウェンが愛してるのは彼女なのに)


 昨夜、美花メイファ虎文フーウェンから彼女への言葉をあずかっていた。


『そのまま伝えることはできないけど……どうか彼女に、私の愛は変わっていないよと伝えてほしい。必ず戻るから、それまで少しだけ寂しい思いをさせることになるけど、必ず私はあなたの元に戻るから、と』


 彼がどんな顔をして言っているのか、容易に想像できた。きっととても優し顔をしていたに違いない。


「西充媛様、安心されてください。今、私は寵妃などと言われていますが、陛下が心より愛しているのはあなた様なんですから」

「花姐姐お姉様……」

「今、陛下は少し複雑な状況に置かれておりまして……しかし、その件が片付いたのなら、まっすぐに西充媛様の元へと戻られますから」


 両手を伸ばし、彼女の幼さが残る顔を包む。若くして後宮という魔窟に放り込まれ、頼る皇帝も今はおらず、どれだけ不安なことだろう。せめて、自分は彼女と皇帝の寵を争う恋敵ではなと伝えなければ。


「花姐姐お姉様……」


 頬を包む両手に、西充媛の小さな手がそっと重ねられた。伏せられたまつげが、ふるふると揺れている。彼女は力を抜くようにふーと細く長い息を吐いた。そして、瞼を上げる。


「いえ、むしろ花姐姐お姉様と陛下が並んだ姿が見たいので、まっすぐにわたくしの元に来られると困ります」

「え?」


 一点の曇りもない瞳で何を言われたのか……?


「美しい者と美しい者が掛け合わさった光景……それこそが桃源郷だと思いませんか」

「ん?」


 熱弁を振るう西充媛。部屋の隅で侍女達が「わかるー!」とキャッキャしていた。


「あぁぁぁぁ、花姐姐お姉様のお美しい御手! はぁぁぁっ、この細く長く形の良い神の工芸品のような御手がわたくしの頬に触れているのですね! 慈しみと愛と清雅な心でもってわたくしの頬を撫でていますわ! 何か……何か、全身がよく分からないですが清められていく心地です!」

「充媛様、ようございましたね!」

「羨ましいです、充媛様!」


 なんだろうか、この状況は……。

 美花ははっと息を吐いて目を重くした。


虎文フーウェンには言えないわね……)


 愛する人に単品で来るなと言われて、妹をべた褒めしていたとは、到底兄には伝えることなどできなかった。




        ◆




 それは、寝殿に久里ジウリ達がやって来た夜のこと。

 近況情報の交換を終え、去り際に六竜を抱えた久里ジウリに『任務が終わったら伝えたいことがある』と言われ、なんだろうと首を傾げていたら父に呼ばれた。


美花メイファ


 今まで会話に口を挟まなかった父が、最後になってやっと名を呼んだ。目が合った。薄暗くて瞳の奥までは覗けなかったが、何か思いが宿っているのは伝わってきた。


『はい、お父様。なんですの』


 しかし、呼びかけに応えたのに、彼から反応が返ってくるまで時間があった。そう言えば、父と話すのはあの日以来だ。本当の母の死について教えられた日以来……。


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