彼の腕の中を心地好いと思ってしまったのは……

 きっと虎文フーウェンはこのように激昂しない。

 きっと虎文フーウェンは護衛に八つ当たりなんかしない。

 きっと虎文フーウェンは…………虎文フーウェンだけだったら、誰も不幸にならずに済んだ。


「……知っていたさ……捨てられていたと聞いてたんだから、自分が望まれてないことなんかとうに理解していたさ」


 呟かれた消え入りそうな言葉は、雫と一緒にぽたりと地面に落ちて消える。

 誰かに不要とされていても何も感じなかった。狗哭の者達は、皆そのような事情を背負った者達だから。


「でも……でも……っ、これは違うだろ…………っ」


 捨てられたんじゃない。生まれたことをなかったことにされたんじゃない。自分は、大勢の者達に死を望まれた人間なのだ。

 そして、唯一自分の生を望んでくれた人を殺した張本人だ。


「どうして……っ!」


 分かっている。これは単なる八つ当たりだ。

 消化したふりしてできていなかったのは自分のせいなのに、彼に憤りを浴びせるのは間違っている。

 分かっている。分かっている。分かっている、のに、感情があふれて止まらないのだ。

 ハハッと空笑い口を突いて出た。


「……こんな自分……自分でも望めな――――っあ」


 何が、と想った瞬間には、美花メイファ飛訓フェイシンに抱きしめられていた。

 いや、実際は、すぐにそうだとは気づけなかった。何かに背中を押された――その程度にしか思わなかった。

 倒れ込んだ彼の身体から離れることができなくてはじめて、押されたわけではなく、彼の腕が自分を抱きしめているのだと気付いた。


「飛……」

「そのようなことを言わないでください」

 肩を抱く彼の手は、痛いくらいに強く強く握りしめていた。覆い被さるように抱かれているため、顔を上げることもできない。

「ちょっ……飛訓フェイシン、痛い……っ」


 手で押し返そうとしたら、さらに強く抱きしめられる。

 影と同じ色の飛訓フェイシンの黒衣。黒い胸に、黒い腕。暗い影の中、美花メイファの視界は黒一緒に包まれていた。

 トク、トク、と耳に響く鼓動は彼のだろうか。

 抵抗しても彼の力に敵うはずもなく、美花メイファは瞼を閉じ力を抜いて彼に身体を委ねた。


 存外、強い力も一定を刻む音も、心地好いと感じてしまった。

 夜の静寂が二人を包み、闇に溶かしていく。本当に自分も黒に溶けてしまったのかもしれない、などと思っていると、頭上から「俺は」と静かな声が降ってくる。


「あなたがいてくれることを望む者です」


 頭を支える彼の指先が耳に触れ、夜風で冷えた耳には熱かった。


「俺では駄目ですか」


 駄目とは何がだろうか。


「あなたが笑うようになってくれて、俺は安心しました。あなたが堂々と玉座に座っている姿が誇らしかった。あなたが……から決して弱みを見せなかったあなたが、こうして俺に心を見せてくれて……嬉しかったんです。嬉しいんですよ、あなたの存在が」


 美花メイファは瞼を開け、ゆるゆると顔を上げた。


飛訓フェイシン……」


 背中を丸め、覗き込むようにして見下ろす彼の顔は、暗い中でさらに影が落ちてよくは見えない。


「俺があなたを望みますからっ。だから、泣かないでください」


 飛訓フェイシンの、皮膚が硬くかさついた指が、美花メイファの目元を拭った。

 指が下瞼を撫でるのがくすぐったくて、美花メイファは目を閉じる。

 直後、右目左目と交互に拭っていた彼の手が、ピタリと止まった。終わったのかと思って瞼を上げようとしたら……。


「わっ!」


 先ほどまでの丁寧さはどこへ。突如、ゴシゴシと力強く目元を擦られた。見えないが、おそらく彼の腕で拭われている。


「っ泣かないでくださいよ、お願いですから……俺のためにも」

「い、痛い! 痛いって、飛訓フェイシンっ」


 飛訓フェイシンの腕を何度が叩く。ようやく、雑な拭いが止まる。しかし、彼の腕はまだ目元を押さえていて、美花メイファの視界は真っ暗のままだ。


「俺も……自分がわからなくなることがあるんです。どうしたらいいか……どうして……こんな気持ちを抱いてるのかって……」

「なんの話だ、飛訓フェイシン

「……俺にもわかりません」


 やっと飛訓フェイシンの腕が遠ざかり、視界が開ける。現れたのは、困ったように目を眇めて、曖昧な笑みを浮かべた飛訓フェイシンの顔。


「……やっぱり、同じ香りなんですね」

「香りがどうした」


 彼の言葉に首を傾げて気付いた。いつの間にか、胸のグチャグチャした感情がなくなっていた。吐き出したおかげか、それとも彼に自分が望むからと言われたからか。


(――って、私、なんてことを……っ!)


 考える余裕が出てきたからだろう。急に、自分のやったことが恥ずかしくなってきた。しかも、まだ彼の胸に甘えたままの体勢。

 我慢ならず、美花メイファはグイッと腕を突っ張り、飛訓フェイシンから離れた。


「――っ飛、飛訓フェイシンって、『俺』って言うんだな」


「あ」と、しまったと言わんばかりの声が聞こえた。


「いえ、これはその……陛下の専属護衛兵になるなら、相応の品格は保たないとと……」


 見上げてみれば、飛訓フェイシンは口を覆った手の下でため息を吐いて、視線を明後日へと飛ばしていた。


「お前が、品格ぅ? 嘘くさい笑みを貼り付けているお前が、品格なんか気にしても無駄だろ。ははっ、『私』なんて気取った言い方より、そっちのほうが随分と似合っているよ」


「嘘くさいとは失礼な。いつ私が嘘くさい笑みを――」と、飛訓フェイシンの目がギロリと美花メイファに向けられた時、遠くのほうで声がした。


「陛下ーどちらですかーー?」

「……離席しすぎたようだな」


 遠くから聞こえる声がうるさい分、互いに黙ってしまうと、相手の出方を窺うような焦れた空気が漂ってしまう。

 先にその空気から脱したのは美花メイファだった。

 声のする、明るい場所へと足を向ける。


飛訓フェイシン、今夜のことは全て忘れてくれ。酒に酔いすぎた」


 暗がりから出ると、ちょうと探していた者が美花メイファを見つけた。美花メイファは「すぐ戻る」と片手を上げると、宴席へと戻ろうとした。


「戻らないのか?」


 しかし、飛訓フェイシンは珍しく付いてこず、壁にもたれたまま。


「私もそこそこ酔っているようですので、しっかりと覚ましてから行きます」

「そうか」


 どこかホッとしている自分がいた。


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