『皇帝は天命に背いている』
「なぜ、時折口調が后妃のようなものになるんです?」
「あー」と、美花は視線を宙へ放った。
「…………年上は敬えって教育が……っ身に染みてるのよ」
美花は自分の腕を両手で抱きしめた。今思い出しても、明芳――母の教育は身震いしてしまう。
理不尽の煮こごりのような人だった。真面目な顔して、「いい? とりあえず殴れば相手は黙るわ」などと幼子に説くような人だ。「黙らせた者が勝ちなのよ」と。聞いていた父は何も口を挟まなかったが、口元は引きつっていた。おそらく、何か言った時点で黙らされると、身を以て充分に学んでいたのだろう。
そして、美花の教育を担っていたのも彼女だ。今にして思えば、それこそ后妃のような言葉遣いを教え込んだのは、潜入に役立つなどではなく、美花が公主だったからかもしれない。いつ王宮に戻る日が来てもいいように、という彼女の気遣いだったのだろう。
まさか、このような形で王宮に戻るとは思っていなかったが。
「年上というなら、俺も年上ですが……」
「不埒者は対象外なのよっ」
皇帝としての口調で慣れてしまったからというのもある。
「ねえ、飛訓。私もひとつ聞いて良いかしら?」
彼は眉と肩をひょいと上げて、了承の意を表した。
「どうして今朝、扉のところで寝てたのよ」
そう。昨日は確かに背後にいたはずなのに、起きたら彼は扉の前で剣を抱いて眠っていた。寝台は自分ひとり分のぬくもりしかなく、つい先ほど起きて入り口に移動したというわけでもなさそうだった。まるで野営のような寝方に首を傾げたものだ。
飛訓は後頭部を掻きながら「あー」と間延びした声を出す。
「あなたの寝相が悪すぎたんで、避難したんですよ」
「嘘っ!? わ、悪くないわよ! 一度もそんなこと言われたことないもの!」
「悪かったですよ。ものすごーい蹴りが飛んできましたからね」
「嘘よっ! きっちり綺麗に寝るわよ!」
「知らぬは本人ばかり」
「いやああああ――っ!」
悲痛な声をあげながら、美花は両手で顔を覆ったのだった。
◆
無事に王宮に戻った飛訓は、その空気に息を呑んだ。
「これは……何があったんだ……」
王宮内には危うい空気が満ちていた。戸惑い、焦り、猜疑――すべてが混在していた。まるで雷雲が立ちこめた時のような、いつ落ちるかわからない災厄に皆がビクついているように思えた。
飛訓はそこらで立ち話をしていた官吏を捕まえて、何があったか尋ねた。
「僕達は下っ端ですし、詳しいことを知っているわけじゃありませんが、王弟殿下の妃が何やらするようですよ」
「殿下の妃が、だと……?」
わかったことは、王弟の第一妃――雲蘭が、今度の『
大放朝議とは、半年に一度、王宮に勤める者であれば品階関係なしに、誰でも皇帝に直言ができる場である。通常の朝議は、各部省の長官位でなければ出席することが認められず、もちろん皇帝への直言も許されない。その厳しい囲いが取り払われ、下々の声を直接皇帝の耳に入れることができる貴重な機会だ。
しかし、誰でもとはいうものの、事前に直言内容の提出は必要である。
さらに、その内容は門下省長官が下読みをしある程度ふるいにかける。さすがに、『自分の評価は妥当なものではないから昇進させてくれ』というような、馬鹿馬鹿しい質問にまで耳を傾ける時間は、皇帝にはない。
そういうわけで、質問内容は門下省の面々はある程度事前に知ることができるのだ。
そして、今回はその内容が内容だったために、このような恐慌ともいえる状態に陥っていたようだ。
さらに、数人官吏を捕まえて尋ねたところ、実に興味深い答えが聞けた。
雲蘭が提出したものには――。
『今上皇帝は、天命に背いている』
と書いてあったという。
天命に背くとは、なんとも穏やかな表現ではない。最上級の批難と言っていい。いくら諫言でも忠言でも許される機会だからといって、これほどまでに包み隠さず皇帝を批難した者はいないだろう。
「王弟殿下が動いた結果、ひと息に殺しにきたということか。毒よりも分かりやすいことだ」
大放朝議は二日後だ。
終わった後、何かが起こることは確実だった。
◆
外朝と内朝を繋ぐように建てられた
王宮内で一番大きく壮麗な殿であり、階段の麓に広がる広場は数千人が並んだとて、まだ余裕があるほどの広大さだ。
皇帝が玉座に着いた。
傍らには専属護衛兵である
宰相陣のひとりであり、今回の提出書の内容を把握している門下省長官が淡々と進めていく。
直言する者は、皇帝の面前まで進むことが許されている。
もう何人が皇帝を示す五指の龍が彫られた階段を上下しただろうか。皆の「まだか」「次か」という緊張が次第に高まっていく。誰かの名が呼ばれるたびに、キリキリと弓弦が引き絞られていく心地だった。いつしか皆の息は浅くなり、背中はじっとりとした気持ち悪い汗をかいていた。
「次っ、
全員が息を止めた。
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