この護衛兵、油断ならない腹黒だ
「本来の順番であれば、今回は寿兎府への視察だろう。なぜ、寿鼠府への視察が上がっているんだ」
「あ……はっ、はい、陛下!」
慌てて。ひとりの官が手元にある書類をバサバサと捲る。
五寿府というのは、照国を支えている王都を含む五つの大都市のことである。すべての街に『寿』という文字が入ることから、まとめてそう呼ばれている。
重要な都市のため、皇帝自らが定期的に視察することになっている。
「寿鼠府の
答えたのは工部尚書だった。
工部は、国の治水業や土木業の管理をしており、尚書省の中にあるひとつの部である。また、府督とは五寿府の治める地方長官のことだ。
「そういえば、寿鼠府は温泉で有名な場所だったな。体調が悪いと聞いて、気を遣ってくれたのかな」
「おそらくは」
寿鼠府の府督は気がきく者のようだ。
「対して、本来の視察先の寿兎府だが、何か迷う理由があるのか」
「寿兎府は、夏の雨が少なかったせいで干ばつに見舞われ、今年の収穫ができなかったようです。今はまだ備蓄分があるようですが、何せ大都市で人口が多いもので、これから冬にかけて厳しくなる見通しで……」
なるほど。
「だとしたら、今回は寿鼠府のほうが良いだろうな。これから食糧に困窮するであろう寿兎府に私が出向けば、無理にでも歓待の宴を開くだろうし、民の食糧を奪いかねない。今回は寿鼠府の府督の言葉に甘えて、先にそちらへ行こう」
「か、かしこまりました」
工部尚書は首肯しつつも、チラチラと上目遣いでこちらの様子を窺っていた。
よっぽど皇帝が意見を言うのが珍しいらしい。
瞬きの多さが彼の心情を物語っている。
「ただし、寿兎府への視察も行ってくれ。人数は最小限で」
「はい? そちらへも視察……でしょうか」
工部尚書が戸惑った声を漏らす。
「どれほど食糧が足りないか、報告書で上がってくるとは思うが、自らの足で現状を把握してきてくれ。上がってくる数字が正しいとは限らないし、報告外の部分で必要なものもあるかもしれない」
「なるほど。仰せの通りに」
工部尚書は持っていた書類に、カリカリと何かを書き付けていた。
さて、これで今日の朝議は終わりかな、と思った時、声が掛かった。
「しかし、陛下。寿鼠府へ視察に行かれるという話ですが、ご体調が優れないのでは? 五寿府への視察は重要ですが、まずは陛下の御身が一番。やはり、今回もこれまでのようにわたくしが名代として参りましょう」
尚書省の長官、
(へえ、いつもは彼が名代で行っていたのね)
項中書令と比べると若い長官だった。四十いかないくらいか。薄く笑った顔は穏やかそのもので、厳めしい項中書令とは対照的だ。
せっかくの親切なのだが、しかし――。
「いや、今回は自ら行こう。見て分かるとおり、随分と体調も良くなっているしな」
「ですが、王宮の外ですと何があるか……」
「ただの視察だ、心配いらない。それに
というより、刺客や毒が満ちた王宮にいるより、外のほうが絶対安全だ。
「項中書令も
轟尚書令がまだ言い募ろうとしていたのを
二人が「異存ありません」頷けば、二対一で轟尚書令は口を閉じざるを得なかった。
◆
やはり報告で聞くだけよりも、実際に関わったほうが分かることは多い。
結局、最後まで項中書令に大きな動きはなかった。終始、岩のように厳めしい顔で口を結んでいた。
(きっと簡単に尻尾を出すようなたまじゃないし……サクッとは終わりそうにないわね)
薄々分かってはいたが、これはしっかりと腰を据えて対応する必要がある任務だ。
それに、
降って湧いたような役目だったが、どうやら暗殺者の適正の他に、執政者としての適性もあったらしい。今のところ、
生まれた頃より、様々な場所に潜入したり、状況に応じて独自での即断即決が求められる環境に置かれ続けてきた功績かもしれない。
「さて、朝議も終わったし、あとは決裁などの細々した書類仕事だな」
皇帝業自体はそこまで苦痛ではないのだが、身体を動かし続けてきた今までの生活と正反対の環境は少々堪える。
だから、今度の視察はちょっと楽しみだった。久しぶりに身体を動かせる。
轟尚書令は自分が行くと言って良い顔をしなかったが、これだけは譲れない。
(あー、早く思いっきり身体動かしたい……)
肩を揉みながらぼーっと空を眺めていると、背後から声が掛かる。
「陛下」
「ん? どうした、
「寿鼠府への視察ですが、その……私がいるから、と……」
「えっ! お前も一緒に行くんだろう、当然」
まさかの問いかけに、
専属というくらいだし、毎日こうもべったりとついて回っているのに、さすがに役目が王宮内だけということはないだろう。ここで、「いえ、行きませんよ」などと言われたら、そちらのほうが驚きだ。というか、当然として話していた自分が恥ずかしい。
ぴったりと斜め後ろにくっついていた
「も、もちろんですが」
「そうだよね」
良かった。何か見当違いなことを言ったのかと焦ってしまった。
(いえ、本当は専属護衛兵なんてもの、いらないんだけど……)
しかし、そこは
「まったく、変なことを聞く奴だ――痛ッ!」
「陛下っ」
前を向き直った際、傍にあった木の枝で掌を切ってしまった。
伸びていた枝を、誰かが適当に手で折ったのだろう。枝先が鋭利になっている。おかげで結構深く切れてしまったようで、掌に入った線からは、玉になった血が次々と滲み出してくる。
「あー、やってしまった」
この程度、怪我の内にも入らないが、後ろのぴったり護衛兵は「治療を!」とかうるさそうだ。
わざわざ侍医を呼ぶのも手間だし、太医院まで行くのも面倒だなあ……などと思っていたら。
「失礼します、陛下」
「へ?」
怪我した手を、強引に引っ張られた。
「え、
そして、唐突に掌に口づけされる。
「ひうっ!?」
いや、掌を舐められた。
血を舐め取っているのか、温かいものが掌をなぞる。舐められた部分から発した痺れが腕を走り、喉元をヒリヒリさせる。
「飛、訓……っ」
「念のため、血も吸い出させていただきます」
ヂュッと音がして、彼の言うとおり掌を吸う感覚があった。
「ちょっ!? ば、か……っ」
くすぐったさに手を引っ込めそうになるが、両手でしっかりと手首と肘を固定され、かなわない。
ようやく口を離した
吐き出されたものには、薄ら赤い血が混じっている。
(……私の血か……)
ぼうっと吐き出された血を眺めていると、手の拘束が解かれ、やっと自分の元に手が戻ってくる。一際強く掴まれていた手首は、まだジンジンと違和感を訴えていた。
「――か、陛下!」
「っな、なんだ」
「不躾な真似を失礼いたしました。前回の釘のこともあり、すぐに処置をしなければと思ったものですから」
(前回の釘?)
以前にも
そして、それには毒が塗られていた……と。
なるほど。毒が身体に回らないように手首を締めて血流を阻害し、傷口から侵入した毒を吸い出す。処置としては完璧だ。
「痺れなどはありませんか。ご気分は?」
「いや……うん。問題ない。手も動くし気分も悪くない。毒はなかったようだな」
手を握ったり開いたりさせるが痺れはない。問題なしだ。
心配そうにこちらを見下ろしていた
「ただ、いきなりは驚くから。次からは、せめてひと言いってから処置をしてくれ」
「はい、善処いたします」
いかにも了解したとばかりの笑みを顔に貼り付けているが、絶対微塵も了解などしていないだろう。
「……この腹黒」
「はっ……え、い、今なんと……」
しまった。うっかり本音が出てしまった。しかし、今までよく心の中で留めていたほうだと思う。褒めてほしいくらいだ。
きっと、
「なんでもないよ」
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