護衛兵の『やっと』……
胸を激しく打つ飛訓の動悸は、途中から意味が変わっていた。
皇嗣宮からの帰り道、皇帝の様子がおかしく毒を盛られたのだと気付いた時は、彼が死んでしまわないかと不安で胸が早鐘を打っていた。
しかし、今。彼が彼女だったのだとわかった今……喜びで胸が震えていた。
しっとりと輝く汗ばんだ白い肌。寝台に散る長く美しい黒髪。大きく開いた胸元から見える細い首に薄い肩、そして上下するさらしが巻かれた胸。こちらを見上げてくる瞳は、いつも堂々としてまっすぐに相手を見据えているというのに、今はゆらゆらと頼りなく揺らめいている。
眼下で横たわる彼女の姿は、知らず知らずに生唾を飲んでしまうほど、とても扇情的だった。
彼女の唇が「飛訓」と、自分の名を読んだ。
気付いた時には、彼女の唇に自分のを重ねていた。
触れるだけ。ほんの一瞬。それでも彼女は先ほどよりもさらに瞳を揺らし、瞠目していた。
心許ないか細い声で、また自分の名を呼ぶ。耳から入ってきた声は、身体の内側の至るところを撫でていく。ぞわぞわともゾクゾクともつかない妙な高揚感が、飛訓の頭を麻痺させていた。
似ているとは思っていた。顔かたちというよりも纏う雰囲気が。皇帝を見て彼女――花美人を思い出し、彼女を見て彼を何度思い出したことか。
そのたびに、言いようのないもどかしさを覚えていた。夫婦は似るものというし、香りも空気も似るくらいに、二人は仲睦まじいのだと、きっとそれぞれに嫉妬していたのだと思う。
大切な皇帝陛下。
大切な人の后妃様。
どちらも絶対に自分の手には入らない、住む世界の違う者達。芽生えた気持ちを認めてはならず、一生感情に蓋をしていこうと思っていた。護衛兵としてふたりの傍にいられればそれでいいのだと。
(だがこれは……)
おそらく、自分の中の何かのたがが外れた。
彼女が準備途中だった薬湯を完成させる。彼女が本物の皇帝でなくとも、死なせるわけにはいかなかった。
準備した薬湯を手に彼女を見遣れば、彼女はどこにでもいるただの少女のように怯えた目を向けてきた。
「渡せ、
もう声音を変える力もないのか。すっかり女とわかる声で、しかし、皇帝としての威厳を必死に纏おうとする虚勢が愛らしく、嗜虐心をくすぐった。
「――っおい!? 何してる、
唇を塞ぎ、薬湯を流し込む。
薬湯は苦いはずなのに、蜜のように甘く感じた。
すべてを彼女の口に移し終え、二回目も同じく口移しする。
「……っん……ッ……やめっ……」
抵抗にもならない抵抗を胸に感じ、さらに口づけを深くしてやった。口を閉ざそうとするが、薬湯は飲んでもらわなくてはならない。小さな唇を舐め上げ、震えるように僅かに開いた隙間に舌を押し込んだ。驚いたのか、彼女の歯がカリッと舌を甘噛みしてきた。その瞬間、甘い痺れが体中を駆け巡った。
「……っ抵抗しないでください」
とは言いつつも、抵抗してくれても構わないという、矛盾したことを考えていた。
絶対に手が届かないと諦めていた人が、自分の身体の下で抵抗することもままならず、自分に口内を蹂躙されている。いや、これは治療なのだから蹂躙とは言い方が悪い。
しかし……。
(まさか、俺の中にこんな醜い感情があるなんてな……)
空気が足りないのか、口づけの合間に喘ぐように息をする彼女の姿をもっと見ていたくて、わざと何度も深く長い口づけをした。
「これは治療ですから……」などと、もっともらしいことを言いながら。
「ハッ……もっ、無理……ッ」
「まだ全然ですが……っ仕方ないですね」
「あ……っ、んん――!」
彼女の嬌声を聞く度に体温が上がる。きっとそれは自分だけでなく彼女もだ。握った彼女の手は最初氷のように冷たかったのに、今ではしっとりと汗ばんでいる。指を絡ませれば、吸い付くように互いの肌がくっついた。
さらしの上部から僅かに見える胸の線。無意識に自分の手はさらしに指を引っ掛けていた。
(まずいな……)
微かに残る冷静な自分が、これ以上は駄目だと警告を発していた。
いつの間にか口の中の薬湯は尽きていたが、それでも唇を離すことはできなかった。荒い息の合間に聞こえる卑猥な水音が、頭を痺れさせていた。
それでも、名残惜しいがいつまでも彼女の唇を堪能しているわけにはいかない。もう色々と自分のほうも限界だった。
はぁ、とひとつ息を吐いて唇を離した。
しかし、彼女がぼんやりとした夢うつつの顔で見つめてくるのが堪らず、再び彼女を抱きしめる。
「やっと……捕まえました」
口を突いて出た言葉は、きっと自分の心からの本音だったのだろう。
絶対に手に入るはずがなかった彼を、彼女を、やっと――。
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