やってしまったわ
「俺は、あなたのほうが可愛いと思いますけどね」
耳元でボソリと囁かれた。
彼の顔は真横にあるため、どのような顔をして言っているのか分からなかったが、耳に掛かった彼の吐息はやけに熱く感じられた。
残された
「…………品格はどうしたのよ」
◆
朝議から戻る道で、飛訓がヒソと美花に耳打ちしてきた。
「名簿ですが、もう少々お待ちください。今朝、韓大将の部屋を少々探ったのですが、めぼしいものは見当たらず。もしかすると、大将軍か巡幸を取り仕切った尚書省にあるかもしれませんので」
「なるほど。だったら尚書省のほうは私が調べよう。お前が訪ねるよりも、私のほうがまだ自然だ」
「かしこまりました、お願いします」
禁軍内に黒幕が潜んでいるとわかった今、たとえ将軍といえど助力を請うことは難しい。どこで誰と繋がって、誰が聞いているかわからない。
せめて、韓将軍は無関係であってほしいと心の隅で願ってしまう。あれほど熱い眼差しと厚徳な忠誠心を向けてきたのだ。そのすべてが演技だったと思いたくはなかった。
(こんな中にずっといたんじゃ、誰も信用なんかできなくなるわよね)
皇太子時代の護衛を、そのまま傍に置きたくもなる。
「それで、陛下。今はどちらへ向かわれているのですか?」
「皇嗣宮だ。弟にも話を聞いておきたい」
「それは……もしかして殿下も絡んでいると……」
「いや、それはない。彼は私の味方だよ。信用して大丈夫だ」
そういえば、飛訓は、夜な夜な六竜と会っていることは知らなかったのだったか。まあ、言えばなぜと問い詰められるだろうし、そうすると六竜のことは黙っておくにこしたことはない。
(それに、今は信じられる人がひとりでも多いほうが、飛訓も安心するでしょうし――って、あら?)
彼にとっても喜ばしいことのはずなのだが、どうしてか飛訓は口角を下げていた。
やはり彼はよくわからない。
◆
「かしこまりました、兄上。俺のほうも皇嗣宮内を注意して見ておきます」
飛訓の手前、美花ではなく皇帝の兄に対する態度をそつなくとる六竜は、普段の乱雑な態度からまだまだ
とても、人の夜着をめくって性別を確かめようする不埒者だとか、人の頬をいきなり鷲づかみする乱暴者だとか思えない。
「それにしても、まさか禁軍武官が……ねえ」
チラと探るような目が、美花の背後にいた飛訓に向けられた。
「その点については恥じ入るばかりです。……が、ご安心を。私は陛下を決して裏切りませんし、陛下も私だけは信頼してくださっていますので」
「ほう……言うな、護衛兵」
「それほどでも」
刹那、ビリッと美花の身体に雷が走った。
(ん!?)
皮膚がピリピリする。いや、空気がヒリついているのか。
正面に座る六竜も笑っていたが目は据わっているし、チラッと振り向けば飛訓も同じように笑っていた。あのニッコリとした嘘くさい笑みで。
(何これ……)
美花は鳥肌が立った腕をさすりながら、二人の視界から外れるように首をすくめた。
すると、部屋の扉が叩かれた。
即座に美花は六竜と顔を見合わせ、目で頷きあう。入ってきたのは皇嗣宮の女官だった。
「茶か。頼んでないぞ」
「第二妃様からです。陛下がお出ましになられていると伺い、お出しするようにと言われまして」
「第二妃? この間会ったのは……」
「雲蘭は第一妃です。第二妃は
六竜はなんの感慨もない声で、最低限の情報だけを教えてくれた。様子からするに、あまり興味のないようだ。自分で選んだわけでなく、雲蘭と同じように誰かに入れられた妃なのだろう。
「俺は甘いものは食べないから、陛下にだけお出ししろ」
女官は「はい」と頷き、その場で丁寧に茶を淹れ終えると、第二妃に『お出しするように』と言われた菓子を美花の前に置いていった。
「六竜は甘味は苦手だったか」
「ええ。口の中に残る甘ったるさが昔から駄目でしてね」
「へえ、もったいない。私は好きだな」
女官が持ってきた菓子の皿がひとつだけだったのみると、皆六竜が甘い物苦手なのは知っているらしい。
皿には薄紅色の花型をした小さな糖菓子が、ころんと二つ乗っていた。ひと口で食べられる大きさで、触れただけでほろほろと端から崩れていく繊細さだ。確かに珍しいし、目にも美味しい菓子だ。美花は菓子を手に取りマジマジと眺めた。
「良い妃じゃないか、六竜」
六竜は「まあ」と歯切れの悪い返事をして、茶をズズッとすすっていた。
飛訓が「陛下」と後ろから首を伸ばしてきた。毒味をと言いたいのだろう。
茶は同じ茶壺から淹れられたものを平気で六竜が飲んでいるし大丈夫だ。美花は、皿を飛訓に差し出し菓子をひとつ取らせる。パクッと食べた彼の表情は、とても甘味を食べているとは思えぬ緊張したものだった。しばらくの後どうぞと言われ、やっと美花も菓子を口に入れることができた。
「皇家の定めですね。俺より兄上のほうが大変でしょうけど」
「悪いね。六竜の宮でまで」
「お気になさらず。それに、兄上に当たるより、そっちの護衛兵に当たったほうが良い」
「もう、六竜」
美花が窘めるが、彼はしれっと茶を飲む振りして視線を躱していた。分かっているぞ、その茶器の中は空だってこと。
「まったくお前は……」
吐き出したため息の代わりに、美花は茶を流し込んだ。ほどよい温かさの茶で、ほっと人心地つけた。
「……それじゃあ、禁軍武官がやって来たり、不審な動きを見せる女人がいれば知らせてくれ」
「え、もう行かれますか。もう少しゆっくりしていっても良いのに」
「悪いな。この間の視察の報告書やらなんやらと仕事が溜まっていてね」
不満げに口を歪めた六竜に苦笑で返すと、美花は足早に皇嗣宮を出た。
そして……。
(やってしまったわ)
美花は、激しい動悸で痛くなる胸を押さえた。
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