大貴族の計らい(1)

 それはもう、びくりと肩を震わせるほどの大音量だった。壁に寄り添った棚の上には、気にもとめないような花瓶がぽつんと居座っていたが、それがかすかに揺れたように見え、ついそちらに目をやってしまったほどだ。


 巨体のせいで、あまり大きく見えなくなった机に突っ伏し、背中を震わせていたと思えば、椅子の背もたれにのけぞって頭を抱えていたりする。忙しく体勢を変えていたが、そのあいだずっとあり続けたのは、事情を知っているゼルでなければつられてしまいそうな、愉快でうるさい大き過ぎる笑い声だった。


「ゲルベンス卿、あの……」


 苦しそうに、すまん、と言う声が聞こえたような気がした。が、もしかしたら、こうやってまともな発言を待ち望んでいる自分が、都合のいいようにそう解釈したのかもしれない。ほんの数秒、おさまったかのように思えた笑い声は、また元通りの大きさに戻ってしまっていた。


 幸い、使用人たちはほとんど部屋を去っていて、会話を切り出す頃合いを見逃し続けているさまを見られる心配はなかった。残っていたほんのひとり、ふたりは、どうやらゲルベンスにとって馴染みの者らしく、最後の仕上げをしつつ、この気の毒な青年に苦笑いを浮かべていた。


 今日一日どころか、一か月分の笑いを消費したのではと思うほどの笑声が、やっとのことで終わりを告げた。節くれだった手がにじんでいた涙をぬぐい、深い吐息を伴いながら、両目がこちらに向いたのを見て、ゼルのほうは安堵のため息をついた。


「いや、まずご苦労様だったな。おれの仕事を押しつけちまって」


 そうですね、という相づちは心の中だけにしておいた。不機嫌な低音になって外に出ていくのが目に見えていたからだ。そうしたらこの貴族は、また笑い出すに決まっている。そこまでわかっていて、わざわざ話の進行を止めるようなことはしていられない。ただでさえむくれた顔になっているのはわかっているのに。


 何も言い出さないゼルに、さすがのゲルベンスも不安になったらしい。身を乗り出し、少し高くなっていた声を普段の調子に無理やり直しながらも小声で、


「いやな、ほら、あんなことになってるところに、給仕なんか行かせられないだろ?」


 そう言うので、やはり、フェルティアードがああなっているのを知っていての依頼だったようだ。一計を講じられた悔しさもあるが、一分の乱れもないような大貴族の、あのひどい身なりを思い出すと、なんともやるせない気分になるのだった。


 もちろん、フェルティアードとて人間である。少しばかり気を抜いたり、ゆったりと休息を取ることがあっても、なんら不思議ではない。むしろ当たり前でもある。しかし、最も高位にある貴族というだけで、思っていた以上に期待をしていたらしい。彼の、おそらく日常の一端は、ゼルにとって親近感を覚えるどころか、落胆に近い感情をいだかせてしまっていた。


 そうですね、とゲルベンスに応じた言葉は、予想通り低かったうえに棒読みだった。


「あいつもちょっと抜けてるとこあるっていうか、おもしろいやつなんだってのを教えてやりたかった、んだけど、な……」


 余計なお世話ですと返さないのが奇跡のような目つきのゼルに、ゲルベンスの言葉尻はしぼんでいった。


「……失望しちまったか?」


 視線を合わせることもいたたまれなくなったのか、こちらの様子を窺うそぶりは、まるでいたずらを自慢したものの、笑ってくれない大人たちの反応を怖がる子供そのものだ。作り笑いは今にも分解しそうである。


「いえ、さすがに失望まではしませんが。どちらかというとゲルベンス卿に失望してます」


 まさか、ここまでいたずら好きの子どものような人だったなんて。


「うはは、ゼル君も言うようになったなあ。結構結構、それぐらいでちょうどいい」


 ゲルベンス卿でも、小さな嫌味のひとつぐらい飛ばしてくるのではと思った。この場の状況に流され乗ったからといっても、目上の貴族に失望などという言葉を伝えるなど。しかし彼は変わりなく、むしろ嬉しそうに椅子に背を預けた。逆に彼のほうが、この言動のおかげで解放されたかのようだった。


「少しでも仲良くなれればと思ってな。なに、悪気があったわけじゃないんだ。きみも騎士になったばかりだし、あいつもきみぐらいの歳の子を相手する、の、は……」


 ゲルベンスの顔と声から覇気が消えていく。自分はまだ嫌な顔をしていたんだろうか。それにしては目が合っていない、と思ったその時だった。


「悪気がないだと? はかっておきながらよくそんなことが言えるな、ヘリン」


 離れた扉のほうから、低く澄んだ声が響いた。見れば、いつの間にかフェルティアードが姿を見せている。元気を分けてくれそうなまばゆい日光は、分け隔てなくこの男をも照らしてくれていたが、それすら敵視し、跳ね返してしまいそうな重苦しい空気は相変わらず、剣を帯びぬ兵はいないのと同じように、そこに漂っていた。


 フェルティアードは見慣れた平時の軍服に身を包み、深く沈んだ青の外套をまとっていた。口元と、顔の輪郭を縁取る髭も整えられ、少し前にゼルが見た姿の面影は、どこにも見当たらない。


 あからさまにまずい、という表情になったゲルベンスを、眉をきつく寄せ睨んではいたが、こんな表情は今に始まったことではない。靴音がわずかにぎこちないのは、怪我がまだ治りきってないからだろう。


「よ、よおレイオス。早いな、準備できたのか?」

「いつになく酒を勧めてくると思っていたら、そういう魂胆だったのか」


 とってつけたような質問は、ばっさりと切り落とされた。

 まっすぐに歩いてきたフェルティアードを見て、ゼルはさっと身を避けた。そうでもしなければ、突き飛ばされそうな勢いだったからだ。


「おまえ、最初からこの男を差し向けようとしていたな」


 音を立てて、フェルティアードの両手が机に叩きつけられる。差し向けるとはなんだ、おれは朝食を置きに行っただけだぞ、と言える状況ではなかった。


「だーから、親しくなるにはまずゼル君の緊張をだな」

「余計なお世話だ、このおせっかいが」


 ゼルにとって、これは見たことのある光景によく似ていた。突然騎士の叙任式になってしまったあの日のものだ。


 同期の新兵に、きみはフェルティアード卿の騎士になったんじゃないのか、と改めて問われるくらい、ゼルのところにはよくゲルベンスの姿があった。それくらい、頼んでもいないのに面倒を見てくれた彼に、本当の上官になるフェルティアードのことを聞かないはずがなかった。


 予想通り、ゲルベンスとフェルティアードは友人同士ということだった。それも、お互い正式に家を継ぐ前からのつき合いだという。どうりでふたりの会話からは、地位の違いから生じる垣根を感じ取れなかったわけである。


「別に全部が全部仕組んでたわけじゃないんだからな。おまえが騎士をとるなんて、そりゃあ祝いたくもなるさ。酒だって飲ませたくなるだろ」


 だから、ゼル君を行かせたのはついでだ、と笑う。ゼルの位置からフェルティアードの顔はよく見えなかったが、頬が引きつるように動いたのはわかった。

 いつまでも無駄な口論をする性分ではないのだろう。両手を戻して姿勢を正すと、フェルティアードはゼルのほうを向いた。自分はこの男の目に入っていなかったと思っていたゼルは、少しばかり面食らってしまった。


「ゼレセアン、用意はできたのか」

「あ、ああ。できてるよ」

「では、表に馬車を回しておく。先に行っていろ」


 それだけ言って、フェルティアードは部屋をあとにした。ひどくさっぱりとしていて、物足りなさすら感じたほどだ。

 しかし、気にすることでもない。必要最低限のことしか言わないのは、いつもの話だ。がっかりしているようなのは、ゼルではなくむしろゲルベンスのほうだった。

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