奇習

 屋敷での生活は、何不自由なく、とどこおることもなく、順調に過ぎていった。屋敷の監督や管理の長とはいえ、自分はただの使用人ですので、と言いながらシトーレが勉学の教本を取ったが、指導を受けたゼルは、それがひどい謙遜であったことを理解した。


 聞けば、貴族位を継ぐ前、まだ“フェルティアードの子息”だったフェルティアードに対し、教師の真似事をしたこともあったのだという。しかし真似事程度でないことは、ゼルにもよくわかった。でなければ、叔父に心の中で謝るほど、知識を求める衝動に駆られるはずがない。そういったこともあり、座学への抵抗感はやや薄らいでいた。


 どちらかといえばゼルは体を動かすほうが好きだったのだが、残念ながらその指導をするのは使用人の長でなく、あの寡黙な大貴族であった。治りかけであろう脚の怪我もあり、激しい動きを伴う稽古は当然なかったが。


 思えば、彼から直接何かを教えられるというのは、初めてのことだった。王宮では多忙で、所在の目星をつけることすらひと苦労だったのだ。それについては、初対面の時に彼自身の口から語られたことでもあった。


(逆に、いつでも話しに行けるってなると、妙な感じだな)


 自室を出て、フェルティアードの部屋の前に差しかかったところで、ゼルは足を止めて扉を見た。休暇の名目のはずなのだが、夕食後、報告のためにここを訪れる時は決まって、彼は書類を読み込んでいたり、ものを書いていることが多かった。仕事熱心なのか、あるいは仕事が趣味と化しているのかと思ったが、それを問うほどゼルは彼に興味を持っていなかった。


 フェルティアードという貴族に対し、畏怖の念をいだくような兵であれば、こうして教えを受けるこの状況に立ったことを、敵将を討ったのと同じくらいに誇るだろう。しかし、ゼルは多少の優越感を覚えただけにとどまっていた。


 自らの危機を救った褒美として差し出された、かの貴族の騎士という地位を、ゼルは逡巡の末受け取ることを決めた。今でも後悔はない。ただ、あれ以降彼の態度に変化があったかというと、迷うことなく否と断言できた。


 ゼルは階段を下り、中庭へと向かった。当初の予定より日が経ってしまったが、これからニールに庭園の案内をしてもらうことになっていたのだ。

 ニールというのは、例の庭の手入れを担当している若者の名だ。今日のゼルの仕事は、残すところ彼との交流のみであった。


 態度とまではいかないが、フェルティアードへの見方が変わりつつあるのは、自分のほうかもしれない。変えられつつある、と言ったほうが正確か。中庭への硝子がらす戸を開け、ゼルはひとつ、確かめたいことを思い出しながら、ニールの姿を探した。


 屋敷に囲まれ、制限のある広さのためか、屋敷の庭園に比べると窮屈な印象はあった。しかし、それは屋敷の影が落ちるところがあったり、木々の間隔が狭いせいであり、決して詰め込まれた庭ではなかった。人ひとりは十分に通れる道は、柵、あるいは植え込みや低木といったもので整えられていた。


「ゼレセアン様。来ていただいてありがとうございます」


 木陰に東屋あずまやが見えたところで、横合いから声がかけられた。見れば、ニールが庭木の隙間から身を乗り出してきたところだった。特別背が高いわけではないが、身体の部位のことごとくが細いニールは、いつしかゼルに、木の枝のような風体の虫を思い出させるようになっていた。


「どうぞこちらに。フェルティ――アード様は、お加減は変わりなさそうですか? 庭仕事ばかりですと、なかなかお会いする機会もなくて」

「うん、王都での療養期間もあったからね。この休暇があれば、きっとすっかり治るさ」


 当たり障りのない答えを返しながら、ゼルの中ではあることへの予想が確固たるものになっていた。


 ――この屋敷の主人は、“フェルティ様”と呼ばれている。それは、使用人との雑談を経て知ったことだった。勤めの長い者たちを中心に、当然ながら、本人を前にして使われることはない。だが、使用人同士ではもはや当たり前のことらしく、この通り、若い世代のニールですら、その風潮に飲み込まれていた。


 子供たちは皆家族を持っているという、勤めの長い使用人のひとりであるエリーと話していた時だ。丸っこい手でお菓子をつまみながら、「フェルティ様がいつ隠居なさるかなんて話してたものだけど、もっと先のことになりそうね」と言った時、ゼルはつい「フェル……なんですって?」と間の抜けた質問をしてしまっていた。彼女はおもしろがるように、ごめんなさいね、と前置きして、その呼び方が普通になっていることを話してくれたのだった。


 こうなってくると、気になるのは“フェルティ様”が、この事実を把握しているのか、ということだ。これについては、エリーがすぐに教えてくれていた。――知っているに違いないが、咎められたことはない、と。


 まさかそんな呼び方をされていて、さらに黙認しているとは露ほども考えていなかったゼルは、本当に浸透しているのか怪しみ、新たに使用人と話をするたびに、それとなく聞いたり、引き出そうとした。からかわれているのでは、とも思ったからだ。


 ゼルの疑いは杞憂に終わった。騎士ひとりのために、使用人全員が口裏を合わせていたわけでないのは、ニールの様子を見れば明らかだ。ゼルはこのあたりでようやく、ゲルベンスがはぐらかしたのは、このことだったのだと気づいた。フェルティアードは、名を略すことを許す側の貴族だったのだ。


 庭園を案内するニールには、例の前菜に添えられた花を紹介され――花の名はウォルマといった――、そこからテルデの街にある花屋の話まで広がった。


「ゼレセアン様は、まだ街に出られていないのですか?」

「ああ、次の休みに行く予定だよ。何か目当てのものを決めたくて、みんなに見どころを聞いてるところでね」


 彼らの言う街とは、基本的にこの屋敷から一望できる、壁に囲まれた城下町のような市街を指していた。正確には、テルデという地域はもっと広く、城壁外の集落も畑も含まれている。


「では、もうケイトにはお聞きに?」

「いや、それがまだなんだ。会う機会が多いと、ついあと回しにしちゃってて、聞けずじまいになってるよ」


 するとニールは、いいことを聞いたとばかりに、


「それでしたらちょうどよかった。彼女、ゼレセアン様に街を案内してあげたいと言っていましたよ。ぜひ、ゼレセアン様からもお声をかけてあげてください」


 ニールの情報は、ここ数日にゼルが感じていたインクの染み程度の不安を呼び起こし、同時に解消させるものだった。何度も顔を合わせるうち、ケイトが仕事中に何かを切り出そうとしていたのは気づいていた。だが、それが告げられることはなく、今日この日まで来てしまっていたのだ。


 ゼルはニールに、感謝と了承の意を伝えた。ケイトは他愛のない日常の話をする時のほうが、声が弾むのだ。街に出たのなら、もっと喜ぶかもしれない。

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