世話係(2)
自ら扉を開け、フェルティアードは控えていた使用人に何かを伝えていたが、ゼルの立っていた場所からはその内容は聞き取れなかった。使用人が離れていった様子は、開けられたままになった扉から見えていた。
「わたしからの話は以上だ。おまえは部屋に戻れ。十分後に、彼女が改めて挨拶にやってくる」
「名前はなんていうんだ?」
「本人の口から聞くがいい。騎士に直接名乗れる、またとない機会だ。わたしが奪うわけにはいかんだろう」
几帳面そうなフェルティアードが、扉を閉めないままにしていたのは、使用人を出迎える身なりと心の準備を整えに早く戻れ、という、無言の指示だったのかもしれない。そうでなくても、いよいよ自分に世話をする人間が与えられるという現実は、ゼルの心をはやらせていた。
退室の言葉もそこそこに、ゼルは自室へと戻った。十分といったらそう長くはない時間だが、することがないと長いものである。部屋の手入れや整理といった雑用があるわけもなく――そんなものはすでに使用人が済ませていた――部屋をぐるぐる歩き回ったりしつつ、何度目かの着席をしたところで、聞き逃してしまいそうな小さなノックの音が聞こえてきた。
気のせいだろうか、と身体のすべての動きを止めてみる。呼吸まで止めてしまいそうな静寂の中に、それは再び控えめに響いた。
ゼルは足をもつれさせそうになりながら、扉へと駆けた。その途中で、部屋へ入ってもいいということを伝えようと思ったが、ふさわしそうな言葉が見つけられず、およそ騎士らしくない「どうぞ入って」という声かけしかできなかった。
失礼いたします、という高い声がか細く聞こえたのは、そのほとんどが眼前の扉に吸い込まれてしまったからだろう。声の
顔色を窺うように身を縮こまらせ、そのせいで上目遣いになっている黒瞳は、媚びるどころかどう見ても不安で満たされていた。晩餐での挨拶の時は、こんな様子ではなかったはずだ。少なくとも、引け腰で自分のところに来た使用人は、ひとりとしていなかった。
名残惜しむように、少女は扉から身を離し、ようやく背筋を伸ばしてゼルと向き合った。それも緩慢だったが、ここにいることが嫌でしょうがない、という理由からではないのはすぐにわかることになった。
「あ、改めまして、お初にお目にかかります。
ゼルがおぼろげだった晩餐での挨拶の記憶をなぞるように、化粧の施された顔と、スカートの上で重ねられたか細い手、そして薄く紅がさされた唇に目を移していたところで、少女はさっと頭を下げた。こうして面と向かって、歳が近いはずの人にへりくだられるのは、落ち着かない気分になる。ほんの数週間前までは、やっと兵になったばかりの平民だったのに。
「こちらこそよろしく。ぼくはジュオール・ゼレセアンと……いや、もうみんな知ってるか」
兵であることに変わりはないが、騎士として相応の態度を保つことは必要なはずだ。少しは胸を張った物言いをしなくては。そう自分に言い聞かせ、話し方を変えてみようと思ったが、それもつくろえずに失敗してしまった。慣れないことは急にするものではない。
少女はというと、笑いをこぼすこともなく、いたって真面目に言葉を拾い返した。
「はい、おふた方が到着される前から、お屋敷はゼレセアン様の話でもちきりでございました。騎士様のご来訪をお迎えするだけでも信じられませんでしたのに、まさか……私が騎士様のお手伝いをできるなんて」
ようやく実感が湧いたのだろうか。白い頬が赤らみ、大きな目が所在なさげにあちこちへ向けられる。
「その、もちきりだったってことはもう知ってると思うけど、ぼくはこういうところで暮らすのは初めてなんだ。支度や整理をしてもらうのに、決まり事とかがあれば、遠慮なく教えてくれないかな。ええと……キャスリーン?」
「はい、承りましたわ。私のことは、どうぞケイトとお呼びいただければ。先輩方にも、そのように呼ばれていますので」
わかった、とゼルが頷くと、ケイトは一歩あとずさった。
「それでは、今宵はもう遅い時間ですので、これにて失礼いたします。明朝は七時に伺いますわ」
振り向こうとしたところで、ケイトの動きがぴたりと止まった。ゼルから視線を外したまま、二、三度まばたきをする。言い忘れたことでもあったのだろうかと、ゼルが声をかけようとすると、
「……あの、ひとつだけ、お尋ねしたいことがございます。よろしいでしょうか?」
「もちろん」
「どうして、私を選んでいただいたのでしょうか」
え、と間抜けた声が出た。ケイトはそれに構わず続ける。
「だって、晩餐の席では食器を落としてしまうし、危うく転んでしまいそうになるし……。ゼレセアン様もお気づきでしたでしょう?」
しっかり見てしまっていた手前、否定はできなかった。ケイトの顔は、先ほどよりも真っ赤になっている。小さな手が頬を覆っていたが、とても隠しきれていない。羞恥の熱は、緊張や喜びよりもずっと激しいようだ。
「うん、でも……きみは怠けてたわけじゃなかった。一生懸命に仕事をしようとして、うっかり失敗しただけだよ。きみはがんばってた。だから、応援したいと思って」
まさか友人になりたいから、とは言えないと判断し、ゼルはほかの理由を考えようとしたが、自分でも驚くほどすんなりと、言葉が口を突いて出て行った。そうか、これが彼女が気になったもうひとつの、いやもしかしたら、本当の理由なのかもしれない。
答えを聞いたケイトは、まじまじとゼルを見つめた。騎士が言うには程度の低い返答だったか、と焦ったが、それは束の間に過ぎなかった。
「そんな、応援だなんて。仕事も道半ばの使用人には、過ぎるお言葉でございます。ですが……嬉しゅうございます。ゼレセアン様は、こう言っては大変失礼ですが、私たちと同じ目線でおられるように思えてきますわ」
「そりゃそうさ、ぼくも騎士になったばかりで、そんなにすぐ心まで貴族にはなれないよ。だから、きみも少し気を楽にしてくれれば、ぼくも助かる。緊張する相手は、フェルティアード卿だけにしたいからさ」
この時、ケイトは初めて笑顔を見せた。ゼルは彼女を選んだことを後悔するどころか、叔父への手紙の話題が、この使用人のことばかりになるだろうと、確信めいたものを感じたのだった。
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