成すべきこと(2)
「騎士に何か決まったお仕事や、やるべき義務があったとして、ただそれをやれ、と言うのは、文字が読めない人に、手紙を読むのを強要するようなものだと思うのです。騎士になられたばかりのゼレセアン様は、騎士の責務という“文字”を、まだ十分にご存じでない。だから、とても心配になられているのではないでしょうか。知らないものを手引きもなしに読み解くのは、誰にだって無理ですわ」
「騎士についての、ぼくの知らない文字、か……」
「出過ぎたことを言っていたらすみません。フェルティアード様は、ゼレセアン様の身の上について、当然お調べになったはず。すでに身についている剣の使い方や、文字の読み書きなら、ゼレセアン様にはわかりきったことなので、新しい問題が現れても、ご自身で考え技術を磨くことができるでしょう。でも、騎士のお仕事はこれが第一歩です。今はまず、磨かれるもの自体を用意する時かと考えますわ。フェルティアード様のご指示は、そのためのものでしょう」
ゼルを目を
「あ、あの、ゼレセアン様。お気を悪くされたら謝りますわ。ごめんなさい、ゼレセアン様も今のお仕事に就いたばかりだと、境遇がちょっと近いからといって、使用人と騎士様なんて天と地も離れているようなものを」
青くなったり、はたまた真っ赤になったりと、忙しく顔色を変えながら早口で弁解するケイトを、ゼルは慌ててなだめた。
「いいんだ、謝らなくていいよケイト。きみの言うことはもっともだ、おかげで胸のつかえが取れたよ。ありがとう」
自分はそもそも、なんの
騎士にしてくれとゼルがせがんだわけではない。フェルティアードその人が、ゼルを騎士にすると選んだ張本人だ。一般的に見て、己の未熟な騎士の手助けをするのに、何もおかしいことはない。厳格で冷たい印象が強かっただけに、素直に受け取ることができなかっただけだったのだ。
こうして、貴族のはしくれである騎士として見知らぬ街にいる現実を認めると、ただ単純に貴族になることだけを目指していた自分が、どれだけ浅かったか後悔したくなる。
そういえば叔父にも、貴族になるのは並大抵なことではなく、様々な試練がある、といったことを言われていた気がしたが、ほとんど覚えていなかった。まずは貴族にならなければいけないのだから、試練とやらに頭を悩ませてもしょうがないと、悪く言えばたかを括っていたのだ。
強い言葉は結局使わなかったものの、叔父が反対した理由の大半は別のことだろうが、これでは彼も応援する気にはなれなかっただろう。
「それにしても、すごい洞察力だな。やっぱり、主人として直接規則の説明とか、そういうのされたのかい?」
「いえ、そんな畏れ多いことは! 直接お話しされる機会などあったら、きっとそれはお暇をもらう時に違いありませんわ。私は、シトーレ様のお言葉とお考えを参考にしただけでございます。フェルティアード様から言われていた方針で、使用人たちを指導するよう言いつかっている、とおっしゃっていましたので」
ケイトはまた長屋に目をやった。この方角には、フェルティアードの屋敷があることをゼルは思い出した。
「先輩方は、お仕事が長いせいもあると思いますが、フェルティアード様にとても親しげなのです。私は、唯一のジルデリオンの大貴族様、というお立場に圧倒されてしまって。お姿やお声を見聞きするだけで、手が震えてしまうのです」
「ん、それじゃ、ぼくらが着いた日の晩餐で、きみが食器を落としたりしてたのって」
「言い訳するつもりはありませんが、お恥ずかしながら、ゼレセアン様が想像されている通りですわ」
俯いたケイトの顔は、長い黒髪に遮られてしまったが、覗いていた耳は端まで赤くなっていた。
「私も、先輩方やゼレセアン様のように、もっと自然に接することができたらいいのですが」
「ぼくが? そんなことしてたかな」
「ええ。今日はずっと旦那様のことを、敬称をつけずにお呼びになっていましたわ」
上がったケイトの顔には、いたずらっぽくも見える笑顔が戻っていた。
「えっ! いやその、おれは別にあいつのこと舐めてるとかそういうわけじゃ、あっ」
ますます墓穴を掘っていくゼルに、ケイトはとうとう声をあげて笑った。ゼルが勢いで自分の口を腕でふさいだのもおもしろかったのか、彼女はまた笑う。高い声が心地よく響いた。
「フェルティアード様が何も言わないんですもの、誰も咎めはしませんし、ゼレセアン様がフェルティアード様を軽く見てるなんて、思ってもいませんわ。そうだったなら、お仕事の命令についてお悩みもしなかったはずです」
「そう、かな……」
落ち着くために、意味のない相づちを打つ。確かに、ケイトの尺度に合わせるなら、自分のフェルティアードに対する敬意はかなり低いはずなので、自然に接しているように見えていたかもしれない。
「あ、でもテルデ以外では少し演技をしたほうがいいと思います。フェルティアード様のお許しが出ているといっても、不作法だと訴える方もおられると思うので」
上官に対する今の自分の態度が、不作法で不敬以外の何物でもないことは十分承知していたので、ゼルはおとなしく肯定した。さすがに王都でぼろを出すわけにはいかない。許されているのは、ここテルデが、フェルティアードに親しむ者たちであふれている、特異な地だからに過ぎないのだ。
ゼルの迷いも晴れたところで、ふたりはようやく目的地への往路へと戻った。表向きには、アレンの様子を見にいくことが理由だったので、その道のりは猫のマルドを見かけた場所とは別方向だった。
ゼルは、アレンの家周辺の景色しか覚えていなかったが、ケイトのおかげでまっすぐアレンの家にたどり着くことができた。彼の家が面する道路をはさんだ向こう側には水路が通っており、よく風が通る。やや汗ばんだ身体にはちょうどいい場所だった。
小さな家の窓には、内側から布が引かれていて、中の様子は見えなかった。元から覗き見するつもりはなかったので、そんな窓は横目に、ゼルは入口の戸を軽く打ち鳴らした。二回ほど息をついたところで、もう一度同じことをやってみたが、家は静かなものだった。
「お出かけのようですわね。先日と時間帯も近いですし、少なくともお母様はいらっしゃらないのでしょう」
「居留守なら一番いいんだけどな。あとはにぎやかな通りにりいるとか」
第二の目的の猫探しには、街の外から来た商人の
路地の角を曲がったその十数歩うしろに、あとをつけてくる人影があったことなど、ふたりが気づくはずもなかった。
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