不意打ち

 ゼルたちが進んだ通りは、人を押しのけないと進めない、という混みようではなかったが、その密度にゼルはまだ慣れていなかった。こうなると、ケイトの歩みが軽やかに見える。彼女の歩いた道筋を追うことも、一度や二度ではなかった。


 道中には警備隊の姿もあり、中にはゼルが騎士であることを知っているようなそぶりを見せる者もいた。だがおそらく、警備隊にはゼルの正体がばれないように、とでも通達されていたのだろう。彼らは皆、特別ゼルに視線を向けることを避け、巡回を続けたり、周辺に目を光らせていたりしていた。


 聞きそびれていたマルドの性格や好物のことを、ケイトから聞きながら歩を進めるうち、ゼルは、数日前に屋根に登ろうとした地域に近づいていた。性格にもよるだろうが、ゼルの経験上、はるか遠くまで逃げてしまう猫はそういない。ちゃんと帰ってくる習慣があるのだから、マルドはまだこのあたりにいるはずなのだ。


 ゼルは一度、マルドと思しき猫を見ているので、少なくとも前回よりは探し当てやすくなっただろうが、気ままに歩き回る猫たちを追うのは難しい。なにせ、猫というのは追うと逃げる生き物なのだ。


「この辺で、マルドの好物だっていうもの売ってないかな」

「少し戻らないといけませんわね。この界隈ですと、あってもせいぜい干し肉くらいかと。お肉も好きだと聞いてましたが、探してみますか?」


 何もないよりはましだと、ゼルはまず周辺の店をあたることにした。露店がずらりと並んでいる場所ではなかったので、陳列をしっかり眺めたり、店主に聞く必要もある。手近な店を覗き込み、まずは食料がないかをざっと眺めてみた。


 ケイトはすぐさま店主に尋ねていた。じろじろ見るより、目的があればすぐに質問する性格のようだ。肉は持ってきてたかな、と店主が背を向け、足元の荷物をあさり始めた。彼はいくつかの箱やかごを開け閉めしていたが、立ち上がった彼の顔を見るに、どうやら今日は切らしているらしい。口を開こうとした店主の目が、急に丸くなった。


 彼の目はゼルたちではなく、さらにその向こう――ふたりのうしろに向けられていた。そのことに気づいたゼルはとっさに振り向いた。が、振り向いていなければ、直後に起きた惨事はもう少し軽くなっていたかもしれない。


 振り返ったゼルを襲ったのは、刃物を携えた襲撃でもなく、の手合いの者でもなかった。その真正面からぶちまけられたのは、大量の粉末だったのだ。反射的に目はつむったが、侵入を完全に防ぐことはできず、じわりと痛みが走り涙がにじむ。吸い込んだ粉を体外に出そうとする身体のせいで、ゼルは続けざまに咳き込んでしまった。


「ゼ、ゼレセアン様! 大丈夫ですか!」


 ケイトの声は聞こえていたので、なんとか頷いて見せたつもりだったが、彼女にわかったかどうか。それより、彼女までこんな目にあっているのでは、とばかり考えていたゼルは、とにかくこの咳を押しとどめたかったのだが。


「アレン! もうしないって約束したじゃない!」


 ケイトの叫び声に、ゼルの咳が引っ込んだ。涙まみれの目をぱちくりさせると、そこには確かにあの少年が――アレンがいたのだった。


「約束したのは、矢を当てないってことだけだったはずですよ、使用人様」


 頭のうしろで手を組んでにやにやしているアレンは、少しも悪びれたふうもない。


「心配ないよ、毒になるようなもんじゃないから」

「そういう問題か、このやろう! こんなところで、何して」


 ぶり返した咳に邪魔されながら、ゼルは怒声を響かせた。


「さっき、おれの家に来ただろ? 何か用があるのかと思って、つけてきたんだよ」

「なんだ、やっぱり居留守だったのか」

「違うよ。家にこもってたら、もしもの時逃げ場がないから、外にいた。家に誰か来てるか、確認もできるし。尾行って、案外気づかれないもんだな」


 そう言ってアレンはからからと笑う。


「きみ、すまないな。急に走ってきたから、声かけるのも間に合わなくて。知り合いだったみたいでよかったよ」


 店主の男は、アレンがゼルのところに近寄って来たのを見つけていたのだ。ゼルは大丈夫だ、と簡単に返事をしておいたが、確かにこれが賊のたぐいであったなら、命が危なかった可能性もある。自分だけでなく、ともにいるケイトまで巻き込むことになるのだ。


 もう少し警戒していたほうがいい。そんなゼルの固い決意をほぐすように、彼の足元にするりと猫がまとわりついた。

 薄汚れた白猫は、警戒心を持たずに生まれてきたのかと思うほど、ゼルにぴたりと身体を寄せてくる。柔らかな猫の感触が、右脚に続いて左脚にも伝わってきた。


「なんだ? 急にどうしたんだ、この猫たち」


 かわいらしい、とほだされたのも、その二匹までだった。路地の向こう、屋根の上と、あらゆるところから大小の猫が湧き出ているではないか。人通りのまばらな道は、あっという間に猫の数が人間の数を上回ってしまった。


「やだアレン、もしかしてあなたが投げたこの粉って」

「さすが、使用人様は物知りだなあ。それじゃ、おれはこれで。家を見張らなきゃいけないんでね」

「アレン、待て! なんでこんなに猫が、うわ!」


 頭上から降ってきたふくよかな猫の衝撃で、ゼルはよろめいて座り込んでしまった。今だとばかりに、大量の猫が彼を取り囲み、外套や服はもちろん、顔や髪の毛ところかまわず、なめ回したり頭を押しつけたりしてくる。ケイトに興味を示す猫も少しはいたが、ゼルの比ではない。


「ああ、こりゃニウディの粉末だな。兄さん、しばらく猫にもて続けるぞ」


 粉の正体を知っているらしい店主は、石ころに蹴躓けつまずいたのをなだめるような調子で言うので、毒ではない、というのは本当のようだ。聞いたことのない名前を、猫に埋もれ始めたゼルが繰り返すと、しゃがみ込んだケイトが答えてくれた。


「ニウディは、香辛料にもなる植物ですわ。葉っぱをそのまま、それか粉にして使うのですが、こうして猫を引き寄せてしまう効用があるんです。それほど強い香りではないんですが、猫にとってはいい匂いなんでしょうね」


 ゼルの胸にしがみつく猫の背をなでたケイトは、両手でその猫を持ち上げた。ぎこちない手つきだったが、猫を怖がらせないようにしている配慮は見てとれた。


「でも、どうしてわざわざニウディを選んだんでしょう。アレンだったら、色がこびりついてなかなか落ちないものとか、もっときつい香りのものを持ってきそうですが」


 ケイトはケイトで、アレンのことをわかってきているらしい。自分を中心に、増える様子しかない猫だまりを呆れ顔で見やってから、ゼルは先ほどまでアレンがいたあたりに視線を流した。


「あいつ、つけてきたって言ってただろ? おれたちが猫についてあれこれ話してるの、聞いたんじゃないかな」

「それじゃ、わたしたちがマルドを見つけられるように、これを? 素直じゃありませんわね、アレンも」

「おれはただの嫌がらせだと思うけどなあ……」


 肩にへばりついている猫を引き剥がしながら、ゼルはぼやいた。


 ただ、これだけ猫がいる状態でマルドを探さないのは、願ってもない機会をみすみす手放すようなものだ。まだ密着するものから、今こちらにやって来ようとしているものまで、目で追える範囲の猫の中に、あの縞模様と、前足の白いのがいないかを見渡した。


 やっと立ち上がり、さらに遠くまで見ようとした時、数歩離れた家の屋根から降りてこようとしている、何匹かの猫に気づいた。そのうちの一匹、姿勢を低くしながらこちらを窺う猫は、白い両前足を屋根のへりに揃え、艶やかな縞模様の背中をゆらめかせている。


「マルドだ! あいつもこれにつられて来たんだ」


 ゼルの視線の先を追ったケイトも、聞いていた容姿に酷似したその猫を認めて、小さな歓声をあげた。

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