足下の会談
マルドのほうは、飛び降りるそぶりをやめながらも、ニウディの香りをまとったゼルのことは気になるらしく、屋根の上を歩き回っている。今ならば、追いかけても完全に姿を消すことはないはずだ。
ゼルはまた
屋根の上からは、似通った高さの平屋を
マルドのほうは、特に警戒もしていないようだ。こちらを見ながら、ゼルのところに行こうかどうか迷っているようでもある。ゼルは屋根瓦の音に気をつけながら、忍び足でマルドに近づいた。
追われていると判断したのか、マルドはゼルから距離を取り始めた。屋根から屋根へ向かう飛び跳ねるので、ゼルも大きく距離を詰め過ぎないよう、あとを追う。住宅は密集していたので、人間も容易に飛び移れたのだ。ゼルのうしろには、ニウディに惹かれた猫がまだ数匹連なっていたし、新たな猫が屋根に登っていったりもしたので、地上のケイトはゼルを見失わずに済んでいた。
数分追って、ゼルは行動を変えることにした。ニウディのおかげで、一目散に逃走される、という事態だけは避けられているが、進展がないのでは意味がない。猫の興味を引くには、こちらが彼らに興味がある、と思わせてはだめなのだ。
一軒の屋根に飛び移ったところで、ゼルはそれ以上進むことをやめ、その場にどっと腰を下ろした。諦めの悪い猫たちが追いつき、ゼルにすり寄る。追跡者が動かなくなったので、マルドも足を止めて、毛づくろいを始めた。
「さて、こうなったら根競べだ。おまえが釣られるのが先か、ニウディの匂いが消えるのが先か」
眼下の道を覗き込むと、ケイトが近くまで来ていたのが見えた。彼女は腰を据えたゼルを見ると、猫の習性を思い出したらしく、ゼルとマルドの視界に入らないところに移動したようだった。
落ち着いたことで、周囲の音に意識が向く。ケイトの存在が目立つくらい、ここを歩く人は少ない。こもって聞こえる人の声は、きっと座り込んだここか、隣の家の住人のものだろう。納期をだいぶ過ぎてるとか、これ以上は計画に差し障りが出るとか、切羽詰まった相談をしているらしい。
ごろごろと喉を鳴らす猫をあやしながら、マルドの動きから目は離していない。外套の留め紐を外し、布地を腕に絡める。これでくるんでしまえば、どんなに暴れても互いに怪我はしないだろう。
そしてゼルの耳は、今さっき偶然聞こえた会話に傾けられていた。それというのも、どうもこの声の主たちの様子が、だんだん険悪になっているようだったからだ。このまま喧嘩でもされたら、今こちらに向き直ったマルドは、きっと逃げ出してしまう。
「これ以上は待てねえ。
「……待つのは慣れてるが、限度ってもんがあるわな。いい相手だったんだが」
頭、と呼ばれた相手だろうか。静かな声は聞き取るのにやっとで、そこからはなんの感情も窺えない。興味がない、というより、すでにその“相手”とやらを見放したに等しいような言い草だ。
「やりますか」
そう言った別の男の声は、待ちわびていた餌をちらつかされ、興奮する犬を思い起こさせた。
「おまえ、躍起になるのはいいが、あそこに行ったことないだろう。場所も知らねえのに」
「知ってますよ頭、エーラ通りのどっかでしょう」
「それは知ってるって言わねえんだよ」
そろりと起き上がり、声のする家を確かめる。やはり、すぐ隣の家だ。その家の屋根の真ん中あたりまで戻って来ていたマルドは、ゼルの動きを見て、そこで動かなくなった。
ここで欲を張って屋根に飛んだら、追わないよう耐えた苦労が水の泡だ。屋根のふち近くまで来ると、ゼルは再び座り込んだ。さっきよりも声がよく聞こえる。
「細々とやってりゃよかったものを、下手に手を広げて、おれたちに見つかったのが運の尽きだったな。まあ、あいつが使えなくても大した痛手にはならねえ。そうだろ?」
「ああ。こちらの頭数もあるし、例の“使い”も来てるしな。明後日動けるやつ、三人いれば十分だ。集めとけ。あいつの返答の刻限は十一時だ」
問いに答えた、頭と呼ばれている男は、血の気の多そうな仲間とは対照的に、比較的冷静らしい。騒ぎにならないようで助かったが、今度はその話題が不安になってきた。誰についてなのかは皆目見当がつかないが、どうもその人は命を狙われているのではないか。そして、こんな物騒なことをしでかそうとするのが、テルデに住む人々のわけがない。間違いなく、シトーレが話していたという賊だ。
ゼルの意識がほとんどそちらに向けられたので、マルドは逆に気になり出したらしく、さらに距離を詰めてきた。本来の目的であるマルドの確保は絶対に成功させたいが、この密談の行方も押さえたい。なにせアレンの一件が関わっているかもしれないのだ。
「一応最後に選ばせてやれ。どちらの信用を捨てるのかをな。答えが“こちら”だったなら……」
男たちの返事はなく、ただ下卑た笑いが広がった。
「あの様子じゃ、こいつの出番になりそうですがね」
「抑えろ馬鹿が。足がつくような真似はすんな」
「あの派手な棚も見納めか。ついでにいくらか失敬するかね」
ゼルは、剣を抜く音には慣れていたが、明確な殺意が同時にあるだけで
ふと、無意識に身を乗り出していたその先に、気配を感じた。ゼルと同様に屋根の
今しかない。準備していた外套を握り締め、ゼルは両腕を突き出してマルドを包み込んだ。案の定驚いたマルドが激しく暴れ、ゼルはそれを胸に抱え込もうとする。だがそれを許す足場はなく、ゼルはまたもや屋根から落ちることになってしまった。
ゼルの身体にべったりだった猫も巻き添えをくらい、さらにニウディに惹かれた別の猫たちが、真下の路地に集まり出していたところだったので、場は一瞬で阿鼻叫喚の図となった。閑静な道に、猫の叫び声がいくつもこだまする。
ゼルが落ちたのは、ちょうど密会が行われていた家の戸口の真ん前だった。じたばたともがくマルドを外套の上から押さえつけていると、猫の威嚇の声に混ざって、家の戸が開く音がした。ゆっくり音のほうを見れば、ひとりの男がこちらに睨みを利かせていた。
「なんだぼうず、ここで何してる」
ゼルは一瞬答えに窮した。“頭”の声だったからだ。
「えっと、その、これです」
もぞもぞする物体を地面から持ち上げ、少しずつ布をめくる。外套に付着した少量のニウディのおかげで、マルドは落ち着き始めていたのだ。
「これ。猫を探してまして」
布の合間からひょっこり顔を出したマルドを見て、彼は険しかった目つきを緩めた。
なんの変哲もない質素な服、あと半年はないと結えることもできなさそうな黒の短髪、無骨さのない端正な顔つき。とても悪事を働くような男には見えない。
「騒がしいやつだな。捕まえたんならよそに行ってくれ」
それだけ言って、男は
「ゼレセアン様、お怪我は!」
男が扉の内側に戻ると、ひそめられた声が聞こえ、ケイトが見計らったように駆けてきた。
「大丈夫、平気だよ。ほら見て、マルドを捕まえた」
「まあ! すごいですわ。きっとこの子に間違いありません。すぐ飼い主の家に参りましょう。ゼレセアン様も、早くお休みにならないと」
「うん。でも行く前に、いくつか聞きたいことがあるんだ。いいかな?」
快諾するケイトに礼を言うと、ゼルの目は家の戸口に向けられた。よく見れば、戸は完全に閉まり切っていない。マルドをしっかり抱え立ち上がり、その戸に背を向けた瞬間、ゼルの唇が弧を描いた。
賊の企みを潰し、騎士の役目を見せつける時が来たのだ。
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