とある商店の騒動(1)

 ジャクス・ベルナーの頭の中は、後悔という言葉で埋め尽くされていた。それ以外の感情も、それを打開するための思考も、存在し得る隙間などないに等しかった。こんなことになるのなら、身の丈にあった――そもそも手を出すこと自体間違いだったのだが――小さな取引だけにしておけばよかったのに。


 どんなに身を縮こまらせようとしても、盛りを越えた大輪の花のように、その身体がしぼむ気配はなかった。本業を手広くやるつもりはなかったので、縦も横も大した広さのない室内では、彼の大きさは余計際立った。


 ベルナーの佇むカウンターの向こう側には、彼よりひと回りは小さい――と言っても十分に働き盛りとわかるの男が三人いた。おまけに閉店を装っている都合上、通りに面した二枚と、隣の店とのあいだにある一枚の窓には、しっかり布で覆いがかけられている。明かりといったら蝋燭しかない店内は、余計に狭苦しく感じた。


 この三人が友人で、どこぞの酒場の看板娘を口説きに行こう、などという内緒話をしているのなら、どれだけ楽だっただろう。張り詰め過ぎた空気は、ベルナーにそんな現実逃避の想像を掻き立てさせた。最後に喋ったのが自分だったのか、三人の誰かだったかも思い出せない。たった一、二分前のことだというのに。


「もう一度聞くぞ。これで全部か?」


 三人の男のうち、ひとりが口を開いた。ベルナーはそうです、と答えるしかなかった。引き出しにも、戸棚にも、たとえ地下に倉や隠し部屋があっても、そこには何もない、と言える自信だけはあった。少なくとも、彼らが欲しているものは、何ひとつない。あるのは、個人の労力ではとても加工しきれない、あるいは、したところできらびやかに化けることのない、くすんだ石の塊ばかりだ。


「おまえはもっと用意できる、って言ったよな?」


 言ったとも。ベルナーは心の中だけでつぶやいた。あの時は、取引先の男は“それ”がまだ余っている、と言っていた。だが、言っていただけだ。頼めばそれを分け与えてくれると、勝手に思い込んでいただけだ。


 この三人との関係ができてから、量を増やしてほしいとかけ合ったが、彼は渋い顔で首を横に振った。理由は簡単だ。彼も足がつくからだ。少量だからごまかせていただけで、その倍以上を分け与えたら、確実にばれてしまう。


「再三要求しました。ですが、わたしの取り分は変えられないと。無理に通せば、それが最後の買いつけになるし、一緒に彼も横流しを暴かれ、わたしも……」

「逃げりゃいいだろ。無許可でこいつを売ってるくせに、何言ってやがる」


 三人がげらげらと笑う。カウンターにひっそりと置かれた“それ”は、本来ならベルナーが店で売ってはならない品物だ。茶褐色の石くれは、この店で扱っているほかの石よりも、ずっと味気なく薄汚れて見える。だが適切に処理すれば、彼らの使う武器にとって、なくてはならないものとなるのだ。


 せいぜい、ひとりかふたりで来る程度のならず者だけを相手にしていれば。ベルナーはため息をつきたくなった。自分の答え次第では、彼らはその腰に吊った剣で、一瞬のうちに胸か喉を突き刺してくるはずなので、それを早めるような行動は耐えるしかない。


「そろそろ時間だぜ。これが答えか?」


 男が、ほんの数個の石くれを指す。肯定すれば、ベルナーの人生はその瞬間終わりを迎えるだろう。それがわかっていて、素直にはいと言える覚悟が、行き場のなくなった宝石の原石を扱うだけの男に、備わっているわけがなかった。


「おれらの分までぶんどってこれるってんなら、手を貸してやってもいいんだぜ」


 別のひとりが、嬉しくもない助け舟をちらつかせる。

 返答の刻限は十一時だった。あと三分もないはずだ。賊の片棒を担ぎ、さらに罪を重ねて、逃亡するだけの生活を選ばなければ、慣れ親しんだルサール聖堂の鐘の音がベルナーの弔辞となるのは、もはや避けられようもなかった。


 木製の戸を殴りつけられたのは、ベルナーが固く目を閉じた時だった。戸の音だと彼が断定できたのは、この賊たちの誰かが乱暴にやってくる時のノックと、そっくりな音だったからだ。違うのは、その音が二、三回でやまず、いつまでも鳴り続けているところだ。


「おい、いるんだろ! 閉店なんて嘘をつくな、今日は約束の日だろ!」


 ベルナーは怯えながら瞬きした。三人の目が、一様にこちらを向いていたからだ。しかもその原因になっている、この騒がしい来訪者について、ベルナーにはまったく心当たりがなかった。


「なにもんだ、こいつ」


 震える戸に目配せして、男がベルナーに問うた。そんなものはこっちが聞きたい。などと言ったら胸倉をつかみ上げられそうだったので、ベルナーはひたすら首を左右に振った。


「注目されちゃ面倒だ、とりあえず入れろ」


 大きい布を帽子のように頭部に巻いた男が、錠を外す。すると叩いていた勢いのまま、小柄な男が転がり込んできた。彼が体勢を整えた時には、錠はかけ直されている。ベルナーと三人の賊は、この闖入者ちんにゅうしゃをまじまじと見やった。


 薄汚れた外套を羽織った、金髪の青年だ。素人目にも、その筋の人間だとわかるはずの風体の男三人を見ても、目の色ひとつ変えないところ、この状況をわかっているのは間違いなさそうだった。だが、ベルナーはこの男を知らない。


「なんだ、客がいたのか。おいベルナー、表の閉店の看板は何なんだ」


“客”には目もくれず、青年はべルナーが立つカウンターに大股で近づいた。


「何、と言われても……」

「あれが到着するって言ってただろ」

「待ってくれ何の話だ。大体きみは――」

「ん? 日にちを間違えたかな。まあいい、もうすぐ来るから裏に回ってくれよ」


 ベルナーは見知らぬ青年に押し負けたが、おかげでため息を吐くことはできた。この石くれの買いつけ先である例の彼が、寸前になって使者でも寄越してくれたのだろうか。だとしたら、今日死ぬ運命だけは免れるかもしれない。


「わかったよ。……みなさん、“これ”の追加分が来たようです。もう間に合わないと思っていたのですが」


 青年のうしろから、監視するように睨んでいた三人に、ベルナーは声をかけた。青年が何者かはいまだにわからないが、こうなったら話を合わせたほうが得策だ。


「ほう。案外信用あったのか? おまえさん。だがひとりでは行かせられねえな」


 半端な長さの髪を首元で結えている男が、一歩進み出た。これは当然のことだ。ここまで追い詰められたベルナーが、どさくさに紛れて逃げ出す算段を立てている、と想像するのは容易たやすい。


 ベルナーも拒否する気はなかったので、カウンターと店内とを仕切る、腰までの高さの戸を手で引き、彼を促した。ちょうどその時、鐘の音が響き渡った。


「時間だな。急いでくれよ、時間通りに出てくれないと、あいつら帰っちまうぜ」


 青年は、自分の仕事は終わったとばかりに、ベルナーのつき添いを名乗り出た男に道を譲った。そしてそのまま店の入り口に背を預け、おとなしくなった。

 ベルナーは、一体裏口にどんなやからが来ているのかと、考えを巡らしながら戸口へ向かった。前とうしろから串刺しにされるのだけはごめんだ。


 錠に手をかけ外した瞬間、規則正しく戸が叩かれた。律儀な性格なのか、律儀なのを装った暴漢なのか。背後にぴったりと張りつく賊に怪しまれないよう、ベルナーはごく自然に裏口を開け放った。


 そこにいた人たちは、意外にもベルナーがよく知るものだった。知人という意味ではない。テルデに長く住まう者なら、知らないはずのない彼ら。ベルナーのような商人、商人からものを買う庶民。そして銀行家や豪商といった上流階級の者、テルデに居を構えるすべての人の暮らしを守る彼ら。

 ――つまり、テルデの警備隊であった。

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