決潰への一手(2)

 レドは、ケイトを捕まえている男とともに、銃手じゅうしゅが待機する石塔、そしてゼルが立ち尽くす石壁の中間あたりで、全体を眺めることにしたようだ。レドが合図すると、石塔の銃手が撃ち方の準備を始め、ケイトと男はレドのそばに進んだ。


「右腕を上げろ。ああ、斜めにしたほうがいい。弾が頭に当たるかもしれないぞ」


 言われた通りに石壁に腕を掲げながら、ゼルはケイトの様子を窺った。陽の光が届きにくかった路地では、彼女の顔はよく見えなかったが、今ならはっきりわかる。潤んだ目は今にも涙をこぼしそうだ。彼女は目を背けていたかもしれないが、さっきだって、自分が執拗に殴られる場に居合わせたばかりだ。泣き出さないのが不思議なくらいでもある。


 レドがケイトを近くに呼んだのは好都合だった。ただ近くで見せつけたいだけなのだろうが、飛び出してケイトを庇うことができるかもしれない。あるいは民衆か、警備隊に保護を任せられる可能性だってある。


だが、そうなった時ほかの人々はどうなっているのか。暗礁に乗り上げた想像を、ゼルは捨てた。皆が無事に済む道はどこにある?


 考えているあいだにも、銃手は手際よく銃の準備を進めていた。弾を込め、火薬を入れ、銃身を支える専用の棒を立てている。石塔から石壁まで四十歩は離れていたが、旧式とはいえ、長銃がどれほどの精度なのか、ゼルは目にしたことがない。身体には当たらないというレドの言葉も、信用していなかった。


「できたな。よし、それじゃ一発目だ。やれ」


 ふた股に分かれた棒の先を支えに、長銃がゼルに向けられると、すぐに発砲音が響いた。それに重なるように、はるか頭上の石壁が砕け散る。いくつにも割れたかけらが、そして民衆の悲鳴が、ゼルに降りかかった。


「おいおい、早撃ちの曲芸じゃないんだぞ。真面目にやれよ」


 レドが注意したが、笑いながらでは説得力はない。銃声など聞いたことがないであろう大半の住民は、この一発だけで落ち着きを失っていた。


 ここからは見えないが、屋敷のある方向を睨んで心の中で悪態をつきながら、ゼルは今一度目だけで周りを見渡した。レドを入れて、賊たちの武器は剣だけのようだ。乱闘になった時に備えて、相打ちを避けてのことだろう。銃を持っているのは、自分を狙っているあの男だけだ。


「離れ過ぎか? 二発目は十歩進んでみろ」


 賊の数は多いが、ひとりに対しひとりの警備隊員が、その動向を監視できているようだ。これなら、彼らが一斉に民を襲ったとしても別個対処できる。


「よし、撃て」


 今度はさっきよりも下の壁が爆ぜた。細かな破片が勢いよく頭にぶつかってくる。


 ゼルは構わず観察を続けた。この均衡が崩れても、住民の命はなんとかなる。賊が暴れ出し、民衆が散り散りに逃げてくれれば、犠牲者が出る確率はより低くなるはずだ。そうなると、次に安全を確保すべきはケイトだ。


「次は五歩くらいか? まあそのへんでいいだろう」


 頭領のレドもだが、全身を覆い隠した得体の知れない男が問題だ。長剣を携えているのは、たわんだ外套のすそと、そこから顔を出している鞘の先端でわかっている。賊の一員には見えないので、彼だけがまったく違う武装をしていることも考えられた。


 つまり、この場にふたつ目の銃が存在するという、認めたくない推測が現実味を帯びてくる。


「おっと、だいぶましになったな。もっと詰めてみろ」


 ゼルは銃声を聞き逃したが、弾が石壁を抉った振動は、否応なく身体を走り抜けた。寄せてくる恐怖を、突破の糸口を探すことで紛らわせようとする。


 どちらかに体当たりして、押し倒すか? だが、よほど意表をつかない限り、自分の身体が身長の高い彼らをよろめかせるなどできそうもない。できなければ、自分とケイトの命運はそこで終わりだ。


「次はどうだ? ――ほお、いい感じだな」


 石の粉塵が目に入りそうだ。武器がない今、足元の石くれは心強い味方になる。蹴飛ばすだけではなんの力もないが、投げればひるませるくらいはできるはずだ。問題は、その対象を誰にするか。


「こらイーズ、今のは頭に寄ったぞ。ちゃんと狙え」


 だめだ、焦るな。頭領と外套の男だけじゃない。この銃手もどうにかしなきゃいけないんだ。銃だって、使えないほどひどい精度ってわけじゃない。現にこうやって近づきさえすれば、標的に当てることは簡単なんだ。どうすれば――


「もうやめてください!」


 高い声が広場を突き抜けた。声の主は耐えきれなかったのか、とうとう大粒の雫を目からあふれさせながら、レドを見上げていた。


「フェルティアード様の騎士様に、こんな……」


 声を詰まらせ、ケイトは俯く。レドは彼女に気を取られ、こちらを見ていない。ゼルはとっさに屈んで石壁のかけらを拾い上げた。


「動くな、が!」


 腕を引いたところで、ゼルは固まった。離れてはいたが、自分に向けられたレドの剣に、ゼルの目は引きつけられていた。


「腕を潰されるまでの辛抱だぞ。それができないなら、女が先だ」


 レドがちらりと外套の男に視線をやる。男は手元を漁ると、うしろ手に縛ったケイトの手首を引っ張り前を向かせ、その喉元に短剣を突きつけた。


「やめろ! 彼女を巻き込むな!」

「巻き込んだのはおまえだぜ。石を捨てな」


 少しでもうろたえたら、あの短剣がケイトの喉に食い込みそうで、ゼルは迷いなく貧弱な得物を手放した。あとずさって再び石壁を背にしたが、レドの目つきは変わっていた。


「運があったかもしれねえのに、自分で運を捨てたか。イーズ、次が最後だ。絶対に外さねえところまで来い」


 銃手が五歩もないところまで近づき、弾込めを始めると、それに合わせてレドたちもゼルに近づく形になった。二度目をやるほど愚かではない、と思われていれば機会はあるが、こちらとしてもしくじりは許されない。成功が確約されなければ、ケイトを死なせることになるのだ。


 彼女が死ぬ? あの森で戦い、フェルティアードがとどめを刺していった敵兵のように、あっけなく?


 彼女が自身の血溜まりの中に倒れ、激痛と恐怖に蝕まれながら人生の最期を迎えるなど、考えたくもない。そんな光景を一瞬でも想像しただけで、銃弾を我が身に受けるやもしれない悪寒より、もっと大きな恐ろしいものが、自分を覆い尽くしていくようだった。


 やはり、ケイトの安全が最優先だ。他人に拳をぶつけることもできないであろうひ弱な彼女の命は、殺しに抵抗のないふたりの男に握られているのだ。ふたりを注視する警備隊がいないわけではないが、ケイトの身を案じてか距離は遠い。


 なんとか彼女を力ずくで押し飛ばし、追ってくる剣と銃弾はこの身を盾にする。恐ろしかったが、彼女がそうなるのを見るよりずっといい。


 レドより一歩引いたところに立つ外套の男は、すでに短剣をしまったようだ。また両手で、ケイトの手枷を持っているらしい。


 ゼルはもう一度、睨み合う賊と警備隊の様子を見回す。その力関係が変わっていないことを確認し、ケイトに目を合わせる。ケイトの顔が思っていたよりも大きく見えた。


 ――いや、違う。彼女が目の前にいる。


 赤くはらした目が迫り、ゼルよりやや小さい肩が、身体が倒れ込んでくる。石壁に身を寄せたゼルの前に伏しそうになった彼女を、ゼルは足を踏み出し、腰を落として抱きとめた。ケイトの手がゼルの肩にすがりつき、もう一方の手はしかしゼルをつかまず、ゼルの手を探った。


 まさかあいつに、と息が止まりそうになったが、その戦慄は、ゼルの指先に伝わったひやりとする彼女の体温と、もっと鋭く冷たい“それ”の感触で、別のものに取って代わられた。


 広場がしんと静まり返った。静寂を破ったのは、呆気に取られたか、目を丸くした銃手の問いかけだった。


「……かしら? この女も一緒にやっちまうんで?」


 レドはそれに答えず、目を剥いてゼルにすら背を見せ、剣の柄に手をかけ外套の男を振り返る。


「きさま! 何を――」


 それがあだとなった。ケイトをレドから隠すように脇にやると、ゼルはたった数歩前にいる銃手に、手にした短刀を下手したてに投げつける。狙いもろくに定めていなかった刃だったが、それは銃手の胸と肩の境い目に突き刺さった。完全に虚を突かれた彼は、叫び声をあげて長銃を取り落としている。


 その声にレドがこちらを向くが、もう遅い。さらに踏み込んだゼルは、地面に落ちた長銃の銃口側を引っつかみ、持ち上げる勢いのまま銃手の顔を殴り飛ばした。よろめきすらせず、彼はばたりと倒れた。


 レドは舌打ちして剣を抜き、裏切り者となった外套の男に斬りつけた。その外套の中でいつの間にか手にされていた男の剣が、それを迎え撃つ。レドの剣は速かったが、男の得物はその勢いを完全に削いでいた。激しく動いた反動で頭巾が揺れ、背に落ちる。


「なるほど、悪くない腕だ。頭領の名は伊達ではないようだな」


 首元で結えていた長い黒髪をほどき、今やこぼれ落ちんばかりに目を見開いているレドに、男は言った。


「さて、テルデは満喫したかね、“頭”よ。こうして折よくあいまみえたのだ。最後には領主みずからもてなすのが筋というものだろう」


 歓迎という言葉の意味と釣り合わない笑みがあるとすれば、それはこの時、フェルティアードがレドに対して見せていたものが、そうだったに違いない。

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