揺らう矜持(1)
動かない人の
扉の奥からは、なだめる複数の声と、それに反抗する男の声が聞こえてくる。まさか、強盗の類だろうか。
「まったく、また彼ですか」
呆れたようにつぶやいたのは、警備隊を引き連れて現れたシトーレだった。ふたりの隊員をそばにつけ、残りは散乱した家具の片づけを始めたり、野次馬の立ち入りをとどめたりしている。
「知り合いなんですか?」
「しょうもないことですぐ熱くなって、暴れ出す常習者でしてね。幸い怪我人を出したことはないのですが、こうやってものに当たるのですよ」
外が明るいせいで、中の様子はよく見えない。その薄闇から木でできたカップが飛んでくる。それは地面に落ちると、ゼルとシトーレの足元にころころと転がってきた。
「お恥ずかしいことこのうえないですが、見学していかれますか? テルデも、賊がいなくてもこうして荒事が起きるのですよ」
警備隊の仕事も知っておきたかったゼルは頷き、シトーレについて行くことにした。明確な敵でない、本当なら守るべき立場の人々に対して、ある程度権力を振るう場面に立つことは、きっとこれからもあるはずなのだ。
入口から数段ある階段を降りると、ひときわ荒れている席が嫌でも目に入った。卓は横倒しになり、皿が割れ、散乱している。そこで店員らしき若者に、今にも手を出さんとしているのが、この騒ぎの原因になっている男だろう。
「ビル、そこまでだ。彼を殴ったらまた牢屋行きだぞ」
シトーレが、見たこともない険しい顔で牽制した。と言っても、問題ばかり起こすやんちゃな子供を、普段より少しきつめに叱ってやるような、彼特有の柔らかな印象は残っていた。
「おお、本物の隊長ではないですか! お飾りの隊長はお休みで?」
ビルと呼ばれた男は、旧友を見つけたかのように軽い、呂律の回っていない声で叫んだ。
「副隊長をお飾りとは、手酷い侮辱だね。今度はなんだって暴れているんだね」
「この店、食いもんに虫を入れやがったんで。おれの親指ぐらいはある、でけえ虫でさあ」
「立派なものだ。そんな虫どこで捕まえたんだね、ビル」
シトーレは、はなから真面目に相手をする気はないようだった。矛先を免れた店員は、シトーレの供をしていた隊員に肩を支えられ、店から連れ出されていった。
「飯の中に入ってたって言ったじゃねえか」
「店にはとんだ災難だが、百歩譲って入っていたとしよう。で、その虫はどこかね?」
「見つけた瞬間、びびってぶちまけちまったからな。もうどっかに逃げたんじゃないですかね」
ビルの足元の床は、よく見ると色が変わっている。食器に混じって、料理の具材だったと思われる野菜も散らばっていた。
「きみが頼んだのはスープか。煮込まれてなお健在だったとは、恐れ入る。まったく、本当にどこで捕まえてきたんだね」
「だから、なんでおれが入れたことになってんですかい」
「でなければきみの妄想だね。証拠がなければ店を処分することはできんし、きみがただ勝手に暴れて、店のものを壊しただけの事件になるだけだ」
脂ぎった顔で渋面を作り、ビルはまた何か言おうと口を開きかけたが、彼なりに無駄だと判断したのか、すぐに引き結んだ。代わりに、今初めて気づいたようなわざとらしい反応を見せながら、ゼルに話しかけてきた。
「その格好、あんたが例の騎士様か。ちょうどよくおれが暴れててよかったな。いい勉強になっただろ」
「ビル、身のほどをわきまえろ。そんなに重刑が欲しいのか」
重い言葉とともに、シトーレが一歩踏み出す。ビルは両手をひらひらさせて押し黙った。
「ゼレセアン様、今のやつの発言は不敬罪相応です。あなたのひと声で刑罰も容易いのですが」
小声でそう言われたものの、ゼルは即断できなかった。自分でも驚くほど、男の言葉が――正確には、扱われ方が効いていたのだ。
この男に、ひと目で騎士だとわかられていたのに、それに見合った言動をとられなかった。すべての人が好意的なわけがない、と心のどこかでは思っていたが、いざその事実に向き合わされると、築き始めた自信が揺らいだような気がしたのだ。
「……いえ、見逃してやってください」
ここで黙りこくっても、ビルという男はつけあがるだけだろう。彼に対して、そして騎士の
「領主たるフェルティアード卿の騎士に対する無礼、もはやわたしの一存でひっ捕らえたいくらいだが、今回はゼレセアン様の恩情に免じて見送ろう。だが次もかいくぐれるとは思わんほうがいいぞ」
「おやおや、フェルティ様の騎士は存外お優しいんですなあ」
シトーレはそれ以上ビルに言葉をかけず、供の隊員に事後処理を命じて、ゼルの背中を軽く押し退出を促した。
「あれはごく少数の
外に出たところで、シトーレが謝罪した。しかし、彼に落ち度などない。
「いえ、シトーレさんは何も悪くないですよ。自分こそ、騎士の貫禄が全然なくて」
「何をおっしゃいます、貫禄など。大きい態度は必要不可欠なものではありません。ともすれば横柄にもなり得ますからね」
ゼルが半笑いで己の至らなさを笑えば、シトーレはそれに真っ向から反論した。実力を認められていなければ、この貴族の証は得られないのですと、シトーレはウォールスの胸飾り示して言う。
「ゼレセアン様は、すでに力ある者。環境も、周りからの扱いも変わって、さぞお疲れになるでしょうが、自信をお持ちください。旦那様も、そうあっさり見放されはしないでしょう」
あのフェルティアードの、信頼とは無縁そうな様子を知っているはずのシトーレが、“見放しはしない”と言うのか。それがあまりにも不思議で、ゼルは彼の眼差しをまじまじと見返してしまった。
「さあ、ほかも回りましょうか。欠番の件は調整がつきましたので、ご心配なく。ケイトは例の店に行きましたかな?」
別れる寸前に話していた話題を思い出し、ゼルはシトーレから顔を背けるよりも先に、顔を曇らせてしまった。他愛ない会話に花を咲かせていたと思っていたのだろうシトーレは、そんなゼルの変容を
「多分、行ったと思いますが……。一応、さっきの場所を見てきます」
野次馬もばらけた通りを戻るのはあっという間だった。二十歩も離れていないそこにたどり着いたゼルはしかし、ケイトを見つけられなかった。往来の人は皆、思い思いの方向へ歩みを進め、立ちとどまっている者はひとりもいない。
あの間際、彼女は何かを言いかけていた。でも、自分が酒場に行っている
下を向き、はあ、とついたため息の先の石畳に、ひしゃげた何かがへばりついている。しゃがみ込んでよく見ると、それは雑踏に何度も踏みつけられたらしい花の、無惨な姿だった。
土にまみれてしまっているが、ケイトが鞄に挿していた、あの紫の花だ。皿の上、そして中庭と、続けて二度も見た花にそっくりだ、とついさっき感じたものを、見間違えるはずがない。
これを取り落とすほど、ケイトは慌てて帰ったのだろうか。しかし、これが彼女のものだという証はない。ゼルは通りの向かいや、周りの細道にも足を運んだが、とうとうケイトと会うことはできなかった。
そのうち、例のふたつ先の角にある店から、シトーレが戻ってきた。ケイトはやはりそこにもいなかった。
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