第三章「目撃者」

尋ね猫(1)

 雲の少ない青空は高く、太陽は力強く地を照らしている。思い出したように吹く風は、肩かけにしたうぐいす色の外套をほどよく揺らし、ひどい暑さを感じることもない。隅々まで喧噪が満ちる街は、まさに大貴族が住まうにふさわしい。予定になかった買い物の、ひとつやふたつをしでかしそうな陽気が心地よかったが、ゼルの心の半分ほどは、薄暗いもやに包まれているようだった。

「あの……本当にすみません。よく考えたら、テルデが初めてのゼレセアン様に、こんなことをお願いするなんて……」

 かたわらのケイトはそう言って、ふたのついた編みかごの取っ手を両手で握りしめた。屋敷にいる時の制服より、多少派手やかなスカートがよく映える。

 そういった服のせいなのか、それとも色のせいなのか。ゼルとそう変わらない背丈にも関わらず、首も腕も、少し力を入れ過ぎたら折れそうなほど華奢に見えた。そんな彼女は、今やすっかり俯いてしまっており、わずかに低いところにある彼女の顔すら窺うことはできなかった。

「気にしないでくれよ。探し回ったら、たくさんの場所に行けるじゃないか。街の人の助けになるし、ぼくも街についていっぱい知れる。ほら、得しかないだろ?」

 屋敷にいる時とは違い、きつくまとめられていない黒髪が流れると、やっとケイトの目が見えた。が、すぐにでも伏せられそうに弱々しい。

 実際、ゼルは悪い意味でひどく衝撃を受けていた。こうしてテルデを見渡すのは、馬車に乗っていた時以来で、主要な通りが何本あるのかすらわからない。そんな異邦人にも等しい自分に、なぜ猫探しなど。“フェルティアードの騎士”ともてはやしてくれたのも、結局形だけだったのか。

 だがそれと同時に、着いてもないというのに、こうして頼み事をされるのは誇らしく感じていた。それが騎士という身分のおかげなのか、ごく平均的な平民のようななじみやすさがあるからなのか。はっきりさせるのは、できればあと回しにしたいところだった。

「ケイト、あれは? 屋台が並んでるけど」

「あ、あれは外から来た商人のお店ですわ。今日はそういう日ですので」

 意気消沈しているケイトを元気づけようと、ゼルは視界に入った光景について尋ねた。そこには広場があり、統一感のない屋台がひしめいていたのだ。

「このあたりでは見ない食べ物、布、雑貨とかがあるんです。ご覧になられますか?」

 ゼルは頷いて、陳列を眺めながら歩みを緩めたが、それらが本当にテルデ近辺では買えない品物なのか、わかるはずもなかった。

 ケイトが漂わせる空気はあまり変わらないまま、いちをひと回りすると、ふたりは飼い主の家のある一帯へ向かった。子供たちが駆けてきて、こちらが気をつけていてもぶつかりそうになる。だがゼルは嫌な顔ひとつしなかった。むしろ、村を思い出して懐かしいくらいだった。

 違いと言えば、その人数が村よりもずっと多いことだ。軽はずみに遊ぼうなどと宣言したら、その波に押し負かされてしまいそうである。

「マルドは――あ、猫の名前なんですけど、よく脱走するんだそうです」

 細く入り組んだ路地を、迷いのない足取りで進みながら、ケイトが話し始めた。物陰から向けられる小さな視線は、子供ではなく猫たちだ。くだんのマルドのように、飼われているのかはわからないが、自身も住民であるかのように溶け込んでいる。

「それに、ちゃんと家に戻ってくる子で。でも今度、別の街に住んでいる家族の子供が来るから、それまでに戻ってないと困る、というので、相談されたんです」

「困る? どうして?」

「その子供が、マルドをとても気に入ってて、いないと癇癪かんしゃくを起こすって」

「なるほど、それは一大事だ」

 ゼルは笑いながら、そういうやつはぼくの村にもいたよ、とこぼした。

「マルドはあんまり遠くに行くことはないし、人見知りでもないと聞いたので、こうしてお気に入りのかごも借りて、探してはいたんですが……」

「人手は多いに越したことはないからね。大丈夫、猫の性格なら大体わかるよ」

「本当ですか?」

 ようやく正面から見れたケイトの目は、日陰に差しかかっていたというのに、光を集めたように輝いていた。

「わたし、生き物を育てたり、一緒に暮らしたりしたことがなくて。何か間違った探し方をしていたかもしれないです」

「猫は犬みたいに利口なんだけど、言うことを聞いてくれないんだ。こっちが構おうとすると逃げるから、その気がないように振る舞わないといけない。ケイトは、マルドらしい猫を見つけたことはあったの?」

「はい、ほんの一、二回ですが。もしかして、と思って走ろうとしたら、あっという間に逃げてしまって」

 ケイトも猫も、実に典型的な行動を取っていた。これではいつまでたっても捕まえられない。

「この近く?」

「はい、飼い主の家にも、ほんの数分で着きますわ。ただ、よそで飼っている猫や、住み着いている野良猫もいるので、マルドかどうか見極めないといけないです」

 確かに、子供の数ほどではないにしろ、時折足元にまとわりつく猫も気になっていた。だが、ケイトが見た様子からして、こんなふうにすり寄る猫の中に、探し猫マルドが紛れているとは考えにくい。

 念のため、目の届く範囲の地面を眺めてみたが、マルドの特徴であるという、明るい灰色の毛並みに黒い縞模様、そして両前足だけが白い猫は、やはり見当たらなかった。

「となると、あとはやっぱり」

 高いところだよな、と屋根を見上げる。この一帯の家は平屋ばかりだったので、高所を好む猫や鳥がいれば、比較的簡単に見つけやすい景色だったのだ。

 すると、ちょうど一軒隣の屋根の上に、一匹の猫が悠々と歩いているではないか。その毛並みは灰色に縞模様があり、日光のおかげで、もう少しで銀色にもなりそうだ。

「ケイト、いたかもしれない!」

 えっ、と彼女が小さく叫んだ時には、ゼルの目はあたりを見回していた。一番特徴的な前足は、屋根に隠れて見えなかったので、確証だけでもつかみたい。

「あそこの屋根の上、灰色の猫がいるだろ? あいつから目を離さないで」

「は、はい! ゼレセアン様は?」

 彼女がそう聞いたのも当然だ。ゼルはケイトを置き去りにするかのように、猫とは別方向に走っていたのだ。だがそれも数秒のことで、家の壁に立てかけられていた梯子はしごをつかみ上げると、すぐに引き返してきた。

「マルドかどうか確かめる」

 同じように屋根に登ったら、警戒されてまた逃げられる可能性が高い。猫の全身が見えるように、少し覗くだけでいい。軋みに気を使いながら、ゼルはゆっくり梯子に足をかけていく。

 そっと屋根に手を伸ばした時だった。横合いから飛んできた何かが指先で乾いた音を立てたかと思うと、ゼルの目の前に跳ね返ってきた。

「うわ!?」

 反射的に一瞬目をつむり、さらに身を引いたことが災いした。少しでも屋根に近づけようと、あまり傾斜がつけられていなかった木製の梯子は、この急な動きに耐えられるはずもなく、使用者を道連れに地面へ倒れこもうとしていた。

「ゼレセアン様!」

「だめだケイト、離れて!」

 猫を見張るため、距離を取っていたケイトが駆け出す。それを制止するために叫ぶのだけが、落ちるゼルができた、ただひとつのことだった。

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