尋ね猫(2)

 どうと倒れたゼルは、まず頭をひどくぶつけていないことを自覚して、ひと安心した。そしてすぐに、こうなる原因になった、飛んできた“何か”を思い出した。突然のことでほとんど見えなかったが、軽くて小さいものだったのは間違いない。

 屋根から人が落ちてきた、ように見えたであろう人々が、どよめきながら人垣を作り始めているのにも気づかないまま、ゼルは立ち上がって足元を見回した。

 土色の目立つ石畳の上に、何か場違いなものはないか――そんなゼルをからかうように、その背中に何かがこつんと当たった。いや、正確には刺さろうとしたのだが、その物自体に鋭さがなかったので、ぶつかって落ちただけだったのだ。しかし、細長いそれの飛翔は、ゼルを振り向かせるには十分な痛みを与えていた。

 そこにあったのは、密集した人の塊だった。皆、何事かとゼルに視線を向けている。それだけなら、ゼルはこの塊をもう少し丹念に見ただろう。実際には、彼の視線はすぐさま一点に向けられていた。小ぶりな弓を肩をすくめながら構え、矢を放つ真似事を繰り返している子供へと。

「おまえ!」

 もうあの物体を探す必要はなくなった。ゼルが地面を蹴ると同時に、子供はさっと背を向けて、大人たちの隙間を上手にすり抜けていく。その瞬間、子供が満面の笑顔だったのを、ゼルは見逃さなかった。あの笑顔はよく知っている。幼稚な罠やいたずらにはまった者に見せてくる、あの憎たらしい笑顔は。

 ゼルの耳には、ケイトの呼ぶ声すら届かなかった。人垣を押しのけ、路地を駆け抜けていく子供の背を追う。今のいたずらは、散歩のさなかにされるのとはわけが違う。一歩間違えれば、こちらは大怪我を負っていたかもしれないのだ。

 大小の角、曲がりくねった道を走るうち、ゼルはとうとう子供を見失ってしまった。体力はこちらが有利とは言っても、地の利は完全にあちらに分がある。往来はあるが、あたりの路地は狭く、陰る所も多い。子供を追いかけるうち、ずいぶんと奥まったところに来てしまったようだ。

 荒い呼吸の合間に、ため息をつく。ああいう子供は、一度味を占めるとまたやってくる。警戒していれば次こそは。

 ひとまず、思い出せるところまで道を引き返そうとすると、戻ろうした先からケイトが駆けてくるのが見えた。

「ゼレセアン様! よかった、こちらにいらしたのですね」

「ごめん、ケイト。探させたみたいで」

「大丈夫ですわ。危ないところでしたもの、ゼレセアン様がお怒りになるのはごもっともです」

 やはりあのいたずらは、ケイトも見ていたらしい。

「せっかくそれらしい猫を見つけたってのに……。またやり直しか」

「あまりお気になさらないでください。期限まで見つからなかったとしても、依頼主に叱られるわけではありませんわ」

 そう言うと、ケイトはうっすらと汚れたゼルの外套の裾に視線を落とした。

「大丈夫だとは思いますが、今日は念のためお屋敷に戻られてはいかがですか? などできていたら大変です」

 程度ならなんともないよ――そう言おうと、ケイトに目を向けたゼルは、その言葉を発することができなくなった。

 その時彼には、ケイトの目から指先に至るまで、自身の叔父の姿が重なったように見えたのだ。奔放を許す一方で、怪我や傷を負うと、人目を気にしたくなるほど身を案じてくれた、ただひとりの肉親。そんな彼と、年齢も性別も異なるはずの彼女が、自分の安全を第一に見てくれている。投げかけられた提案は、よくある形だけのものだと、言った本人の目すら見ずに断定したことを悔いるほどに。

 これに対して、「なんともない」などと言えるわけがない。自分の安否を気遣ってくれているのをわかっていながら、それを正面から踏みにじるようなものだ。

「そうだね。一応、さっきの猫を見つけたところに寄りながらでもいいかな」

 平気な痛みを、とても痛いと言わされているような気分だった。だが、ゼルがその気分を引きずることはなかった。返事をした瞬間、ケイトの身体からは目に見えて力が抜けていき、安堵でしか作り出せないような、たおやかな笑顔が浮かんだのだ。

 こんなケイトが見れるなら、この程度の嘘は安いものかもしれない。雑踏も街の匂いも、知覚から外れたこのほんのわずかなあいだに、ゼルの視界の端にあった路地から小さな人影が飛び出してきたのだが、当然それも気づくことはできず。

「いてっ!」

「わ、あんたさっきの」

 わき目もふらなかった人影は、ゼルに頭突きするようにぶつかったかと思うと、そう言ってようやく立ち止まった。

「さっきの、って……あ! おまえさっきの弓の!」

 痛みに呻くはずの声が、瞬時に怒声に変わる。すかさずその腕をつかみ、ゼルは畳みかけた。

「捕まえたぞ! おまえ、あんなことやるなら時と状況ってのを」

「そ、それどころじゃないよ兄ちゃん!」

 てっきりむくれるものと思っていた件の少年が、ゼルの手を振り払うこともせずそう叫んだ。あっけにとられてケイトを見れば、そちらも自分と同じような顔をしている。

「なに、そっちの姉ちゃん友だち? なら早く一緒に、こっから、離れて!」

 ぐいぐいとゼルの腹を押しながら、少年が続ける。尋常でない様子に、ゼルは少年を咎めることを一旦忘れることにした。

「わかった、離れるから何があったかだけ教えてくれよ」

 少年の腕をつかんでいた手を離し、ゼルはかがんで問いかけた。すると少年は、今しがた自分が出てきた路地のほうをちらりと見てから、か細い声で答えた。

「人が殺されてるのを見た。早く逃げないと」

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