大貴族の計らい(2)
「相変わらずだなあ、あいつ」
頬杖をつき、らしくもなくため息をつく。呆れているようだったが、緩んだ口元からは、同じ感情は見て取れなかった。
「ゲルベンス卿、昨日はフェルティアード卿に何をされたのですか?」
ジュオール・ゼレセアンという騎士を伴い、怪我の療養休暇と称した、領地への一時帰還。その前夜に、ゲルベンスが友のために、宴会を開いたとしてもおかしくはない。今朝のフェルティアードの様子から、ある程度想像はついたものの、ひとり事情を知らないゼルは、その質問を投げかけずにはいられなかった。
「なーに、あいつは単に、酒飲み過ぎると朝に弱くなる体質なだけよ。周りには、しこたま飲んだ日の翌朝はいつも以上に不機嫌だから、落ち着くまではおれが代わりに行くってことになってるんだ。実際はああだけどな」
どうやら彼は、大貴族の秘密をひとつ、教えてくれたつもりらしい。かの大貴族からしてみれば、かなり不本意だったようだが。
ゼルにしても、あまり得をしたとも言えず、順調に関係を良くしていくものにはなり得ない情報、と分類していた。しばらくの
さっきはああ言ってたけど、最初からフェルティアード卿のところには、おれを行かせるつもりだったに違いない。そんな推測が顔に出たのか、ゲルベンスは無言で、示し合わせるように歯を出して口角を引き上げた。
「向こうではがんばれよ。あと、こっちに帰ってきたら、おれのことはゲルベンス卿じゃなくてベンって呼べ。間違えんじゃないぞ」
「はっ? いや、あの」
何を言うかと思えば、この大貴族は。ひとつふたつ程度ならともかく、一体いくつの階位のひらきがあると思っているのだろう。
ゼルの反応は見越していたらしく、ゲルベンスは声をひそめて続ける。
「なに、公の場でとまでは言わんさ。前も言ったろ? おれは身近な人間に、かたっくるしい態度取られるのが苦手なんだ」
ゼルはもはや、フェルティアードが受け入れた新兵のひとりではなくなっていた。直属の部下と言ってもいい。それはゲルベンスにとって、さらに近しい位置になったということなのだろう。
「わ、わかりました。……ベン、さん」
絶対に忘れる、という自信が瞬時に固まったので、ゼルは無理にでも実行して、わざと自分に覚えさせることにした。呼び捨てにこそできなかったが、敬称は気軽なものにした。これでも譲歩したつもりだ。
ゲルベンスのほうも、そこまで突っ込んでくることはしなかった。立ち上がって机を回り込み、よくできましたとばかりに頭をなでてくる。なでたというよりこねくり回された、というほうが合っていたかもしれない。おかげで、せっかく整えた髪の毛が、またあちこちに飛び跳ねてしまった。
「よしよし、その調子だ。あいつのことも、そんなふうに呼べたら楽だろうになあ」
敬服すべき位の貴族に対し、ゲルベンスの言う“堅苦しい”呼称を使うのは常識であり、当然のことだ。だがゼルは、国を支える敬うべき人間だとわかっているものの、心の底からフェルティアードという男を信頼してはいなかった。こちらの真意を汲み取ろうともせず、どうせこうだろう、と決めつける態度が気に食わなかった。
貴族を目指す新兵たちの、その志に比べたら、ゼルの心意気は小さいものかもしれない。そうであっても、誰にどんなからかいを受けようとも、迷うことはないと胸を張れる気負いはあった。
そこに、欲にかられて自分のことしか考えない愚か者になるのが関の山だ、と言われて、黙っていられる性格ではない。こうして騎士になったとはいえ、あの男はまだ自分をそういう目で見ているのかと思うと、手放しで喜べない部分があった。
そういった理由で、ゼルは半ば仕方なく“フェルティアード卿”と呼び続けているが、本音を言えば、形式ばったこの呼称を使うのは嫌いだった。それでなくても――ほとんどの貴族がそうだが――長い家名である。略することを許す貴族もいるにはいるらしいが、フェルティアードはまずあり得ないだろう、と望みはとうに捨てていたのだ。
「あの方は、お許しにならないでしょう」
「いや、そうでもないと思うけどな」
そのひと言に、ゼルは閉じられた扉を見つめていたゲルベンスを見上げる。
「あいつはあれでも……やめた、こいつは向こうに着いてからのお楽しみだ」
さあ行ってこい、と大げさに背を叩かれる。ここで立ち話を続けていたら、先に行けと言ったのになぜ遅れたのかと、叱責されるのは間違いない。ゲルベンスがはぐらかした話題は気になったが、彼がそうするぐらいなのだから、まあまあ期待してもいいものだろう。一礼も忘れず、ゼルはゲルベンスの部屋を出た。
貴族への道のりは間違いなく進めている。しかしそれは、必ずしも希望だけで満ちているとは限らないらしい。外套を留める、白く霞んだ空色の宝石は、ゼルの唇を綻ばせてくれた。だが同時によぎる憮然とした大貴族の姿は、その顔を瞬時に曇らせてしまうのだった。
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