初仕事(2)
目的の部屋の前に立つと、さっきと同じように、取りつけられた金具で重苦しい扉を叩く。幾人もが行き交う廊下に、じっと立ち尽くしているのがさすがに恥ずかしくなるぐらい、ゼルは待った。
おれは待ったぞ、と痺れを切らしてもう一度叩く。本人でないとしても、支度の手伝いにひとりは世話役がいてもいいはずだ。
それでもやはり返事はない。ゼルは肩を落として息を吐き、取っ手に手をかざした。握りこもうとした指が宙で固まったが、次の瞬間には勢いよく扉を開け放っていた。
ゲルベンスのいたものとほぼ同じ造りのその部屋は、やはり暖かい光でゼルを迎えた。広い机の向こうに、あの貴族の姿はない。誰かがいる気配もなかった。不安になるほど静かだ。人も呼ばず、朝は自分だけで支度をしているのだろうか。
とにかく、部屋の
ゼルが足を踏み入れた部屋は、幾分か薄暗かった。原因はすぐわかった。カーテンが閉じられたままだったのだ。
嫌な予感がした。閉塞感よりも、部屋の中心にある豪奢な寝台にだ。しかし、現実に少しでも遠回りしてたどり着きたいと感じたゼルは、寝台の手前、足を向けるであろう側を早足で通り過ぎ、長大なカーテンの片方を力任せに引いた。
恐れていた現実は背後から、うめき声という形でその姿を現した。
「おいっ! あんたそれでも大貴族か!」
当の相手はすぐ返答などできないとわかっていながら、ゼルは振り向きざまそう叫んだ。こんなことがなければ、立派な天蓋をまじまじと見つめているところだが、今はそれどころではない。片手に皿を乗せていることを危なく忘れそうになりながらも、もう片方のカーテンも開け切り、部屋を陽光で満たしてやった。
「起きてるのか! なんなんだ、出発の日だってのにあんたは――」
傍らの引き出しの上に食事を避難させて、ゼルはいまだ布団にくるまる大貴族に面と向かって言ってやろうとした。が、それは簡単に中断されてしまった。
「ずいぶんとやかましいと思ったら、おまえか」
大貴族はさすがに身こそ起こしていたが、その格好が問題だった。どうも衣服が見当たらない。少なくとも上は何もまとっていない。寝ぼけているのか、それともいつものことなのか、彼はそれを気にしているふうでもなかった。気にするしない以上に衝撃を受けていたのは、ゼルだけであった。
「な、ん……あんた、毎日素っ裸で寝てるのか!?」
寝起きのせいもあってか、金色の目の鋭さも顔のしかめ具合も、普段よりは緩んでいるようだ。うねるどころか跳ねのひどい黒髪もまだわかる。だがこの醜態は何なのだ。これがベレンズ王国唯一の最高位、ジルデリオンを称する大貴族、レイオス・リアン・ノル・フェルティアードだというのか。
そのフェルティアードだが、この状況を取りつくろう様子はなかった。それよりも、そこに立っているのが己の騎士となった青年であることを認めてから、呆れたように眉をしかめたほうが気になった。質のよさそうな寝具の表面に視線を移し、ぼそぼそと何かつぶやいたようだったが、それは少しもゼルの耳には届かなかった。
「ひとつ、言っておく」
フェルティアードの手がシーツをつかんだ。
「わたしは裸で寝る趣味はない」
彼が取り上げたのはシーツではなく、寝巻きだった。同系色だったため、服だと判断できなかったのだ。上がけをはいで、素早く向こう側に足を下ろしたフェルティアードの背は、織り込まれた寝巻きに包まれていた。
「それで、何をしにきた」
向けられた瞳は、いつものフェルティアードのものだった。ゼルは臆することなく、ただ正直に事を伝えた。
「食事を持って来てやったんだよ。ゲルベンス卿に頼まれて」
覆いが取られていないままの皿に指を向ける。するとフェルティアードは、あからさまにため息をついた。
「あの男は……」
自分に対してではないとはわかっていたが、いささか気分が悪い。そこにいちいち文句をつけていたらきりがないので、お使いは済んだと判断したゼルは、さっさと寝室を出ようとした。
「ゼレセアン」
扉を開ける直前で呼び止められ、何を言われるのかとおそるおそる振り返ってみる。
「なんだよ。まさか着替えも手伝えっていうんじゃないだろうな」
「おまえの中で、騎士としての務めにそれが入っているのなら、無理に止めはせんが」
「そんなもの入ってたまるか」
何ふざけてるんだ、と毒づいて今度こそ外に出ようとした時、ゼルは自分が、フェルティアードの発言を遮る形になっていたことに気づかされた。
「ご苦労だった。初めての務めになったな」
改めてゼルが見返した男は、今しがた聞こえた言葉とは裏腹に、固い表情を崩していなかった。本気なのか、社交辞令のようなものなのか、騎士になったばかりの青年には判断がつかなかった。用意された原稿を、単調に読んでいるように聞こえたのもあったのだろう。
「おれはゲルベンス卿のところに戻るよ」
目を合わせるのもそこそこに、ゼルは寝室をあとにした。頭の中はすっかり、ゲルベンスに何から何まで問い詰めなければ、という思いでいっぱいになっていたからだ。
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