第一章「出立の日」

初仕事(1)

 ただひとり、その偉大さと尊さゆえに顔を与えられなかった太陽神エンデルは、ほかの神々とともに、壁の中で威光を背負い、鎮座している。人の気配どころか足音もない広間は、まるでこの絵に表された神のためだけに捧げられた空間となっているかのようだ。祈りの時刻になると神殿に響き渡る、厳かな旋律が聞こえてきてもおかしくないと、壁画を見上げる青年は思った。


 兵士にしてはずいぶんと小柄だったが、今の彼の姿を見た者は、ベレンズの人間であれば誰であろうと、子供がこんなところで何をしている、などと揶揄やゆすることはあり得なかったろう。彼の背は、新兵がよく着るくすんだものでも、一兵卒に義務づけられている、紋章の入ったものでもない外套に隠されていた。動かざる像のように重苦しい赤に染め上げられたその色は、紛れもなく騎士のもの――れっきとした貴族位の人間であることを示していた。


 青年は間もなく歩き出したが、その心中はうしろ髪引かれる思いだった。特別芸術を好んでいたわけではない。ただ壮大さに圧倒されていたのだ。空間を支配してしまうほどの巨大な絵は、彼にとって未知であり、感動の対象であった。できることなら、もう数分でも見ていたいところだった。ほんの十数日ではあるものの、しばらくはこの絵に会えなくなるからだ。


 ここで足を止めることは、今日この時間に来ると決まった時からわかっていたことだったので、十分に余裕を考えて王宮に入ってきた。しかし、懐中時計などという高価なものを持っているはずもなく、自分がどれだけの時間、目を奪われていたかはまったくわからなかった。たいして経っていないかもしれないし、もしかしたらこの絵を気に入ったあまり、時の流れを把握する器官が麻痺しているかもしれない。そんな不安が、見知った廊下を駆ける足を速めさせていた。


 彼が向かうところは、意外にも彼の仕える貴族のもとではなかった。ベレンズを離れるこの日になったら、まず自分のところに来てくれないか、と言ってきた男がいたのだ。彼もまた貴族であり、かなり親しみやすい人だった。むしろ、この人が自分の上司になっていたら、もっと気が楽になっていた、とも想像してしまうぐらいだ。


 朝の準備に追われているのか、何度も給仕や使用人とすれ違い、時にかわしながら、かの貴族の部屋までたどり着く。重い金具を取って扉を二度打ち鳴らすと、すぐに部屋の主が姿を現した。


「やあ、早かったなゼル君」

「おはようございます、ゲルベンス卿。早過ぎましたか?」


 おれが早起きできなくて遅れてたんだ、と貴族が言うと、その口のずっと下で、ジュオール・ゼレセアン――ゼルは、苦笑をもらした。白い雲を溶かし混ぜたようなやわらかい色の金髪は、相変わらず空気を含んだようにふわりと広がっている。生まれつき癖がついているらしく、無駄とわかっていながらも、ゼルは毎朝自分の髪と格闘しているのだが、勝ったためしは一度もなかった。


 ゼルの小ささが際立つほど、がっしりとした体躯のその貴族の名は、ヘリン・ディッツ・ノル・ゲルベンスといった。夕日のような色合いの金髪の中、広い額の下に輝く瞳は、鋼を思わせる鋭さをともしながら、人懐っこさであふれている。


 貴族位の中でも、二番目に位の高いヴェルディオに位置するこの貴族は、旧知の友というふうに、ゼルを室内に招き入れた。ここに来るのはもう二度目だ。一度目との違いと言えば、広い室内を、数人の使用人たちが小走りで仕事をこなしているところだった。あの日は雨に濡れ、黒い空に満ちていた窓は、まばゆいばかりの朝日を取り込み、植え込みの樹木すら白く染め上げているようだった。


「なに、きみはぴったり時間通りさ。ゼル君の門出にな、おれも色々と準備してやろうと思ってたんだが、どうにも寝つきが悪くてな。ちょっとお使いを頼まれてくれないか?」


 よく見れば、ゲルベンスの衣服はかなり簡素なものだった。寝巻きではないが、そのまま王宮を歩き回ったら、見咎められそうな服装である。


「もちろん、構いませんよ」


 廊下でぶつかったあの日からというもの、彼にはずっと世話になりっぱなしだった。そのお返しとするにはあまりにも足りないが、彼の手助けになるのなら何でもするつもりだ――文言をひと言も聞き漏らすまいと、ゼルは一歩踏み込んで耳を傾ける。その姿勢に、ゲルベンスはわずかに眉尻を下げた。


「いや、お使いって言ってもな、あいつのとこへ食事を運んでほしいだけなんだ」


 拍子抜けしてしまった。以前のように、目的の人物を探し出して、その人に何かを渡したり伝えたりするものとばかり思っていたからだ。ぽかんとなってしまったゼルの表情に、ゲルベンスは申し訳なさそうにつけ加える。


「すまん! どうしても先に片づけなきゃならないことがあってな」

「ゲルベンス卿、その……食事を持っていくというのは、給仕がやることではないのですか?」


 親友とはいえ、そんな雑用を貴族自らするなど聞いたことがない。本当にゲルベンスがよくやっていたことで、給仕がする仕事に値しないというのであれば、その役回りがゼルに与えられてもなんら問題はないのだが、やはり問わずにはいられなかった。

 ゲルベンスはというと、よくぞ聞いてくれたとばかりに口の端を引き上げ、ずいぶんと思わせぶりな理由を述べてくれた。


「ゼル君。あいつのところに進んで行くなんてやつぁ、なかなかいないぜ。特に、昨日あんなことがあったら尚更だ」


 あんなこと、とは、何か問題になるような出来事でもあったのだろうか。ゼルはしかし、事の詳細を聞こうとはしなかった。聞いたところで、自分の態度は変わらないし、大体察しはついていた。昨日あった“何か”のおかげで、きっと常人が恐怖で固まってしまうくらい、おそろしく不機嫌なのに違いない。


 不機嫌だというだけで尻込みなどしていられない。その程度で臆していたら、陛下からウォールスをたまわった騎士として、恥ずかしいではないか。


「ベレンズ唯一のジルデリオンなのに、ずいぶんと怖がられてるんですね」

「敬意、さ。建前はな」


 にやにや笑って、ゲルベンスは物音のした扉のほうを見やった。ちょうど給仕の女性が、銀の皿を片手に部屋に入ってきたところだった。そこに乗せられているであろう料理は、やはり銀製の被せ物に覆われていたので、中身を窺い知ることはできなかった。しかし、女性の手ひとつで支えられるところを見ると、さして豪勢な朝食というわけではないようだ。


「ちょうどよかった、お使いの主役が来たぞ」


 こっちへ、とゲルベンスが手で合図すると、女性がしずしずと歩み寄ってくる。朝食を傍らの青年に渡すように言われた彼女は、動揺を隠そうという気すら打ち負かされたのだろう。両目をすっかり丸くして、ふたりの貴族を交互に見やった。ゲルベンスはそれを咎めることもせず、ただもう一度、静かに促しただけだった。


 見間違いでないことを理解したらしく、女性は小さく頭を下げ、ゼルに皿を手渡した。彼女の手は、皿の重心がゼル自身の手に移るまで添えられたままだった。


「あいつに直接渡してやってくれよ。その辺に置いて帰るのはなしだぜ」


 はい、とよく通る声で返事をし、ゼルはゲルベンスに背を向けた。皿は思っていた通りの重さで、ついくるくると回してみたくなったが、もしスープなどが乗っていたら大惨事になってしまう。それに、大貴族の部屋にいる時に、そして廊下に出たとしてもこう人の目の多い状況の中で、そんな不遜なことはしていられない。好奇心を押さえ込み静かに退室して、ゼルはもうひとりの大貴族の部屋へと、短い距離を歩き出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る