晩餐
食堂に足を踏み入れると、ずっとかすかに漂っていた芳香が、一段と強くなった。すでにカーテンは引かれ、室内は天井と、卓上からの明かりで満たされていた。広さのせいか、明かりはやや暗いように感じたが、食事に支障が出るほどでないのは、すぐにわかった。
というのも、部屋の大部分を占める長い食卓には花が飾られていたのだが、これの鮮やかさは十分過ぎるほど見てとれたのだ。どれも瑞々しく、おそらく今日この時のために摘まれたのだろう。
卓の端に差しかかると、食器の並べられた席が見えてきた。この食卓に座った者全員を見渡せる位置にある椅子は、間違いなくフェルティアードのものだ。そこからひとつあけたところの椅子を、先導していたシトーレが引いてゼルを促した。
ゼルが座ると、ちょうど卓の反対側、フェルティアード側に寄ったところの席に、やはり食器が用意されているのが見えた。
シトーレさんは、自分たち以外に客はないと言っていたはずだけど――そんな疑問が如実に顔に出たらしく、卓を回り込むところだったシトーレが告げた。
「ゼレセアン様、これは私の席にございます。旦那様の騎士になられたとはいえ、まだ日も浅い。おふたりのみで食事とは、いささかお疲れになることでしょう。僭越ながら、今宵は私がお話の種を撒ければと思いまして」
厨房に続くらしい奥の部屋から、使用人たちが姿を現すのに目をやりながら、シトーレは続けた。
「普段は給仕の仕事をしていない者も、今日だけはこの場に出ております。お食事を妨げない程度に、皆が挨拶を述べてまいる予定です。名前も役職も記憶にとどまらないでしょうが、お気になさることはありません。これはあくまでも我々の喜び、歓迎のしるしです」
街の人々のみならず、フェルティアードの屋敷の者にまで暖かく迎えられていることを、ゼルはようやく実感していた。それは大貴族という地位の偉人がとった騎士だから、という理由だけではない――そう確信を持てたのは、玄関に足を踏み入れた時の、そしてこの食堂にて一堂に会する使用人が、誰ひとりとして張り詰めた空気をまとわずにいたからだ。
「騎士を先に座らせたか。おまえらしい」
ようやく姿を見せたフェルティアードが、ゼルを見つけるなりそう言った。軍服のような堅苦しさを残しつつ、なんとか軽い室内着と呼べる装いの彼に、シトーレは一礼し、今度は主人の座るべき椅子を引く。
「使いを待たせず、時間通りに来ていただいたのです。それに旦那様も、お疲れなのはゼレセアン様のほうだと申していたではありませんか。お立ちのままで旦那様を待つなど、とんでもない。それより、旦那様がこんなに遅れたことに驚いております」
「片づけておきたい細事があったのだ。先に伝えたとしても、おまえはこうしただろうがな」
腰を下ろしたフェルティアードに、シトーレは再び大きな礼をした。自分のことをすっかりわかっている主人に対し、敬意か畏れを表しての行為だったのだろうが、どこか楽しそうでもあった。
主役であるゼル、そしてフェルティアードが揃い、シトーレの言う“控えめで豪華な晩餐”がようやく始まりを告げた。
運ばれてくる料理については、シトーレが逐一教えてくれた。そして彼が言っていたように、ゼルに料理を運んでくる使用人はその度に交代し、自分の名前と、この屋敷でどんな仕事をしているのかを簡潔に述べるのだった。
その顔ぶれのほとんどは、フェルティアードやシトーレと同年代に見える者だった。厨房のほうや席の死角から、軽い食器が落ちる音や小さく
食べるために形を崩すのもためらわれるような、芸術作品とも見間違える味わい豊かな料理と、シトーレによる話題の提示のおかげで、使用人たちの名乗りは、ゼルの頭から順調に消えていってしまっていた。彼がかろうじてできたのは、料理と顔を関連づけることくらいで、それも数える程度しか成功させることはできなかった。
年若い少女――当然名と役職は飛んでいってしまった――の運んできた前菜のひとつには、紫にも見える赤い花が添えられていた。ゼルは当然飾りだと思い、それでも汚さないようにと皿の端に避けていたのだが、少ししてふたりの皿を見ると、花は跡形もなく消えていた。思わず皿を見つめているところに、シトーレが「それは食べられますよ」と言ってきた。
「食用の花なのです。苦みもありませんので、ぜひお試しください」
そう勧められたので、ゼルは花をそっとすくい取って、おそるおそる噛んでみた。あまり味らしい味はしなかったが、ほのかに甘い花の香りと、溶けるような食感が残った。
「花を食べる、というのは、あまり馴染みがありませんでしたかな?」
「ええ、まあ……。こんな立派な料理に使われるとは、想像したこともなくて」
花を含め、一般的に調理に使われない植物を食べたことは、ないわけではなかった。村の友たちとふざけて遊ぶ勢いで、林や道端に生えているものをかじったことは何度かあったのだ。しかしそれも本当に幼い時期だけで、叔父の勉強で教養がついてきた頃には、年下の子供たちがそんなことをする様子を、苦笑いしながら見守るだけになっていた。
「この屋敷では、庭園と温室でたくさんの花も育てております。今の花はもちろん、木々や植物にご興味があれば、喜んでご案内いたしますよ」
言いながら、シトーレの顔は壁際に控えていたひとりの使用人に向けられた。彼と目が合うなり一歩進み出て礼をしたのは、
フェルティアードの代わりに屋敷を取り仕切り、さらにはこの晩餐も計画した手腕から考えて、彼がこの花について何も知らない、というわけはないはずだ。草花の管理を任されている彼の出番を奪うまいと、わざと伝えなかったであろうことは、想像に難くなかった。
これだけの仕事をこなせるのは、その年齢の成せる
フェルティアードとは、やはりと言うべきかまともな会話は生じなかった。反論することには慣れたものの、こういったごく普通の会話となると、逆にやりづらい気持ちになるのだ。なので、シトーレが主導権を握る歓談に加え、例の前菜を運んだ少女が厨房に運んでいた空の食器を取り落とし、年長者の助けも借りながら慌てて戻っていくささいな出来事すら、緊張を解きほぐしてくれたのだった。
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