取り引き(2)

 すっかり日ものぼり、朝九時を知らせる鐘を待つばかりといった時間に、ゼルはある屋台に向かっていた。市を眺めたモルト広場よりひと回り以上は小さい、サパールという名の広場から伸びた通りの一本に、その屋台はあった。


 青空に浮かぶ雲はまばらで、晴天が続く一日になることを疑う者はいないだろう。だが、その通りの東側には、背の高い建物が並んでいたので、道も屋台も日陰に呑まれていた。


 人通りに反して、客のひとりもいないその屋台の店番は、暇そうなことこのうえない。彼の前には、売り物らしき野菜も果物も調度品もないのだから、当然のことだった。その屋台の、通りに面した細い柱に、青紫色をした細長い布が巻きつけられている。手紙にあった目印だった。


 ゼルは店番の真ん前で立ち止まった。店番のほうは、いきなり現れた客に対し、邪魔そうに目をやったが、それが赤い外套を羽織り、淡い水色の胸飾りをつけた金髪の青年であることに気づくと、目を見開いた次の瞬間には、にたりと笑っていた。


「彼女は無事か」


 新兵に対し、ろくな会話をしなかったフェルティアードにさえ向けたことがないほどの怒りを込めて、ゼルは店番の男を睨みつけた。しかし男はひるんだ様子など微塵みじんも見せず、来な、とだけ吐き捨てて屋台から通りに出た。


 目印の布を流れるように柱から取り去りながら、店番の男は通りを進んでいく。通りには喧騒が満ちていたが、ゼルはそれらが遠くから聞こえてくるような気がした。頭が、視界が、賊の一味であろう目の前の男だけを認識しているようだった。


 しかしそのうち、ゼルが認識する対象は数を増やした。どこから現れたのか、ひとり、またりとりと、ゼルにぴったりと歩調を合わせ、ついてくる者が出てきたのだ。彼らはどうやら、人々からゼルの姿を覆い隠してしまっているらしかった。


 店番の男が、細い路地に滑り込んだ。ゼルが続けば、取り囲んでいた男たちもそれに倣う。誰もいない路地の先はやや広くなっており、そこにはひとりの男が待ち構えていた。


「フェルティアードの騎士、ジュオール・ゼレセアンか」


 店番の男から布切れを受け取った若い男が、ゼルを前にするなり口を開いた。半端な長さの黒髪に、その身分らしからぬ端正に整った顔。密談の家から出てきて、ゼルとわずかに言葉を交わしたあの男だった。つまり、この賊のかしらということだ。


「こちらも名前くらいは明かそう。おれはレドという」

「どうせ通り名だろ」


 レドは唇だけで笑った。


「ひとりで来たことは褒めてやろう。女が無事なのは見せてやる」


 レドが自身の背後に目をやると、そこから口を布で塞がれたケイトが現れた。彼女の背には、外套ですっぽりと体を隠し、頭巾を目深に下ろした何者かが張りついている。背の高さからして男だろう。ケイトを見張る担当のようだが、彼だけが異質に見えた。


「本当に何もしてないだろうな」


 見たところ、賊は男しかいない。そして、ここにいるのが賊の全員とも限らない。そんな集団の中に、人質として若い女が連れてこられたら、どんな目にあうか。


「大事な餌だ。わざわざ傷ものになんかしねえよ」


 ゼルの言わんとしたことは伝わったらしく、レドはそう答えた。ゼルはほっとしたが、緊張の糸を切ることはできない。自分もケイトも、不意打ちで殺されてもおかしくない状況なのだ。


「手紙じゃあ詳しく書けなかったからな。言っとくが、おまえもこの女も殺すつもりはない。女は使えるし、おまえは逆に生かしておいたほうが見せしめになる」


 警戒するゼルの気配を感じてか、レドはそうつけ加えたが、ゼルは聞き流した。


「フェルティアードが黙ってると思うのか」

「上官に生意気な口をきいてるとは聞いてたが、本当らしいな。なに、おまえに手を出した時点で、おまえが死のうが生きようが、おれたちへの処遇は変わらんさ。ならおれは、おまえがよりみじめに苦しむほうを取る。フェルティアードは、使いものにならなくなったおまえを見限り、別の騎士を探すだろうさ」


 たった三人の仲間を捕まえられただけで、ずいぶんと大きな報復だ。少人数で動いているからなのか、個人の能力を尊重しているからなのかは知らないが。


「あいつがおれをどうしようと知るもんか。そんなことより、何をしたら彼女を解放してくれるんだ」


 手紙には一切なかったことだ。殺す気がないというのが真実なら、彼らが喜び、こちらが大きく不利になるような条件を呑ませたいはずだ。


 まず考えられるのは、あの三人の仲間の釈放だった。原因になった捕縛をなかったことにすれば、ゼルの功績は帳消しになる。それに加えて、今彼が言ったように“ゼルを使いものにならなくする”ために、彼らが何をしてくるのか。


「おまえが不用品になるまで無抵抗でいれば、この女は返してやる」


 それが嘘でない証拠はない。だが提示された以上、従わないわけにはいかなかった。ゼルが承諾すると、レドはゼルの背後に並んでいた仲間のひとりを呼んだ。


「まず武器をいただこうか」


 レドの指示で、目の前に進んできた賊の男が手を差し出す。ゼルは戦う気がないことを示すため、革手袋をせず素手のままだった。その手でゆっくりと鞘から剣を抜き、柄を握った拳をまっすぐ突き出す。


 騎士に叙されたあと、フェルティアードから支給されたものだ。叔父から受け取ったもの以上に、流麗な意匠が施されたそれは、賊の手に渡った途端、そのやいばを勢いよく膝で叩き折られてしまった。


「それじゃ、次は前菜だ。言った通り、お楽しみに支障が出ない程度にしろよ」


 真っぷたつになった剣を投げ捨てた男が、振り向きざまにゼルへ拳を見舞った。


 地面に倒れ込んだゼルを、今度は別の男の足が蹴り上げた。殴り合いの喧嘩をしたことがないわけではないが、それはもっと幼い頃の話で、相手も同様に子供だった。お世辞にも屈強とはいえないゼルの身体が、荒くれ者の暴行に抗う術はなく、そのさまは武器の威力を試される案山子かかしのようだった。


 彼らが本気を出せば、あばらにひびが入ったりする程度は造作もなかっただろう。だがレドの言った“お楽しみ”のためか、どうやら彼らは手加減しているようだった。全身を殴打されたが、しこたま腹を蹴られて嘔吐するようなことはなかったのだ。


 それでも頰は腫れ、顔に無数にできた擦り傷のいくつかからは、血が流れた。あらゆる箇所がぎしぎしと痛み、幾度も踏みつけられた騎士の外套は、砂土にまみれていった。


「その辺でいい、そろそろ時間だ」


 一体どのくらい殴られていたのか。ゼルには時間の感覚がなかった。レドのひと声で賊たちがぴたりと止まり、ひとりがゼルを立ち上がらせた。支えようという気はどこにもなく、自力で立てなければ倒れろ、と言わんばかりの荒さだった。


 レドが路地の出口に向かうと、ゼルを包囲した賊たちが、ついて行けと小突いてきた。かろうじて引きずらずに済んでいる脚に鞭打ち、ゼルは人ひとり分の間隔を空けて歩き出した。

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