歓待(2)

 柵門を通り抜けたあとも、屋敷までは距離があった。たどり着いてみると、丘と呼ぶより小さな山と言ったほうがしっくりくる。坂道は緩やかで、道中にはまだ建物が並んでいたが、周りは徐々に木々で覆われ始めていた。しかし鬱蒼うっそうとした圧迫感はなく、道中の日陰ひかげ日向ひなたは規則的に現れるので、庭師が計算して作り出しているのではと勘ぐってしまうほどだった。


 貴族の屋敷というものを、ゼルは王宮しか見たことがなかったが、林を抜けた先の玄関前広場は、こぢんまりとしている印象だった。それは、屋敷の造りが頑強に見えたため、その存在感に負けてしまっていると思えたせいからかもしれない。そうは言っても、手入れは隅々まで行き届き、ぱっと見ただけでは隙を探そうにも探せない、まさにフェルティアードらしい屋敷と庭であった。


 広場を小さく半周した馬車は、フェルティアード側の扉が玄関と向かい合う形で、ようやく動きを止めた。すぐさま馭者が降りてきて、乗車口を開け放つ。ゼルも、フェルティアードに続いて石畳の上に降り立った。


 何をしろとも言われないまま、フェルティアードは玄関へ進んでいく。扉の横に控えていた、使用人の服装をした男が、あるじの歩みを妨げない絶妙の瞬間に扉を開けた。


 そこで待ち構えていたものは、ゼルに見えない障壁を感じさせ、さらに足止めさえもした。一対の階段を備えた玄関広間の広さにではない。自分の眼前、向かい合い、二列に並んだ使用人たちにだ。彼らはぴんと背筋を伸ばし、姿勢だけでも頼りがいのあることがわかったが、顔つきは硬くなく、フェルティアードに向けられた表情は見えた限りひとつの例外なく、ほがらかな笑みをたたえていた。それでも、その規則正しい列の成し方には、思わず面食らってしまったのだ。


 列の一番手前にいたひとりが動き、フェルティアードの正面に立った。背は低く、目の周りや口元に刻まれたしわからも、フェルティアードより年上なのは明白だった。悪く言えば老いた男だったが、彼は緩慢とは縁のない、見事な一礼をした。


「お帰りなさいませ、旦那様。ご帰館、首を長くしてお待ち申しておりました」


 短く刈り揃えられた白髪は、むしろ銀色にも近かった。開かれた両目は青く、くすんでいる。積み重ねた年月が、鮮やかさだけを奪ってしまったようだった。


「皆の者、それぞれが挨拶を申しあげたいところですが、わたくしが代表するお許しください。長旅の疲れをすぐにでも癒していただきたいもので」

「ご苦労、シトーレ。しかしこの程度、長旅の内には入らんよ。疲れているのは、むしろこちらのほうだろうさ」


 フェルティアードが見下ろすと、とうとうゼルも、使用人たちの視線を一手に引き受けることになった。その中に嫌悪や蔑みの色はひとまず見当たらなかったので、ゼルはほっとしそうになった。だが、目上の貴族と接する時とはまた違う、若輩の身で彼らを使う立場になるというすぐそこの未来を予感し、身は固くしたままだった。


「あなた様が、ジュオール・ゼレセアン・ル・ウェール様ですね」


 ゼルを真正面に据え、男は口を開いた。使用人全員のまとめ役であることは察しがついていたが、その声に厳かさはなく、緊張を解きほぐしてくれるようだった。


「紹介が遅れて申し訳ありません。私、フェルティアード卿に仕え、また畏れ多くも卿に代わって屋敷の職務を執り仕切っております、ジェイン・シトーレと申します」


 シトーレはフェルティアードにしたのと同じように、片手を胸の前に置いて礼をした。自分なんかにこんな立派な礼をするなんて、と思わず止めてしまいそうになったものの、それは逆に失礼になるのだと思い出し、制止しようとした両腕はぎりぎりのところで動かずに済んだ。


「こちらこそ、初めまして。……その、よろしく、お願いします」


 ゼルはここにきて、今回はフェルティアードやゲルベンスに、作法や決まり文句を教えられなかったことに気づいた。シトーレの礼儀に水を差さずにやり過ごせはしたが、すっかり恥入る言葉を口走ったらしい。いや、自覚もあった。使用人たちは、ほとんどがくすくすと笑い声を立てている。苦笑いでとどめられていたのは、彼らの長でもあるシトーレただひとりだけだった。


「どうぞ、ご心配なさらず。ここは王宮ではありませんゆえ、作法にいちいち口出しする者など、旦那様以外にはおりません」


 滑らかに、そして囁くように――おそらく使用人の耳には届いていただろうが――さも当然のように言ってのけた老年の男は悪びれたふうもない。ゼルは数秒間呆気にとられ、くだんの旦那様は相当お怒りではないだろうか、と不安になった。彼の性格上、あからさまに態度に出すことはないのはわかっていたが、もう慣れきったことなのか、フェルティアードは短いため息を吐いただけだった。


「勉学に稽古と、お忙しくなるとは思いますが、息抜きもお忘れなきよう。きっとゼレセアン様も、このテルデの街をお気に入りになるでしょう」

「ありがとう、シトーレ、さん。ぼくは騎士の身になったけど、この土地については皆さんのほうが先輩になるだろうから、それについてはぜひたくさん教えてほしい、と思ってます」


 敬語と口語がめちゃくちゃに混ざり合ってしまい、大貴族からしたらなんとも情けないをさらしていると見られただろう。


「これはこれは、我々にとって身に余るお言葉、ありがとうございます。ご用命とあらば、我々からも適任かと思われます者を向かわせますので」


 それは、自分にも専用の使用人がつくということだろうか。知らずのうちに高鳴る胸の音を感じる。


「シトーレ、部屋の準備は整っているのだろう? 先に案内を頼む」


 シトーレは、主の命令に対し素直に返答をした。その時かすめた微笑みは、満足げな安堵を灯していたように見えた。

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