27 碧落の森の中で - 6 -

「魔王様の不在というのを、聞いたのは本当に直前なんにゃ」

 見るからに具合の悪そうなルーシェルを、先程ルアードが作った即席の布団の中に押し込んでひとまず休む事にした。訪れた夕闇、雨戸を閉めてしまえば暖炉の中の熾火が周囲の影を色濃く作る。

 それぞれが好きな態勢と場所で毛布に包まるとリーネンはぽつりぽつりと語り出した。お前は起きて番をしていろとルーシェルに命じられた猫耳も愛らしい少女は、ぐったりと横たわる魔王の傍に座り込んで警戒といった体制でいる。部屋の隅で横になっているアーネスト、その傍でうつ伏せになっているルアード。自分はと言えば暖炉の傍の椅子に腰かけていた。

「にゃーは低級者なので、なるべく目立たにゃいようにしているんにゃが……ある日、いきなり空が大きな音と共に割れたのを見たんにゃ」

 こわかったにゃーと身振り手振りで表現しながら、その光景を魔界にいた殆どが目撃したのではないかと少女は言う。轟音と共に割れる空、恐らくルーシェルが天界へやって来た時の事だろうと思う。地表よりも下の階層から自分達のいる第六層まで一直線に突き抜けてきたのは確認している、まさしく空が割れたように見えたに違いない。

「とんでもにゃいことが起こってるってのは解ったんにゃ、でも魔王様が一人で天界を襲撃したあと天使と一緒に行方不明になってるなんて知らなかったにゃ。にゃんとなくさわりだけ、この世界へ飛ばされる前にアステマ様が言ってて……アステマ様ももっと上の方から命じられたようにゃんだけど、にゃーはそこまではわかんにゃい……ルーシェル様を探して場所を告げるよう言われたんにゃ」

 大変だったのだろう、言葉には苦労の色が滲んでいた。

 こちらの世界にやって来た自分達はそこそこ長い間、霊力はあっても使用できない状態だった。発動できない以上霊力探知は不可能であったのだから、リーネンがこちらを補足したのは奇跡的だったのだろう。尚且つこの世界は街以外に『魔』が生息しているのだ、戦えないと明言する彼女がどうやってここまで来たのだろう。

「苦労の割には報われないにゃー」

 疲弊した声色は可愛らしい少女の表情にはあまりにも似つかわしくない。恐らく逃げ回って来たんだろう、重い溜息と同時に肩を落としたリーネンのその様子から彼女の苦労が偲ばれる。

「随分苦労したんですね」

「そうなんにゃあ……」

 ぺっしょりと、彼女の耳がよりわかりやすく感情を表していた。小動物と関わる事は初めての事だったが、いや、少女に猫耳と尻尾が生えていると言う状態を動物と称していいのかは甚だ疑問ではあるが。そのふわふわとした毛並みや揺れる耳と尻尾はつい触れてみたくなる動きをしているのだった。天界には彼女のような存在はいない、物珍しさもあるのだろうなと自己分析。

「てきとーな説明の後放り出されて、飛ばされてきてみればにゃんか言葉は違うっぽいし、よくわかんない魔物っぽいものはいるし、もう散々だったんにゃあ」

 めそめそと半泣きになりながら事の顛末を愚痴交じりにリーネンは語り出す。お仕事に呼ばれただけなのに、と言う通り異世界に放り出されてそれっきりだったのだろう。こちらとは違い霊力は使えるようだが低級ゆえの不干渉者だ、使用できる量が微々たるものであるのなら相当難儀な思いをしたのだろう。

 その様子を聞いていたルアードがあのさ、と小さく挙手をした。

「素朴な疑問なんだけど。ルーシェルさんめっちゃ強いって聞いてたけど、君の上司? は勝てると思ってたのかな?」

 うつ伏せになり両手を顎の上に乗せくつろいでいるルアードの問いかけ。

「なんだっけ、デバフをカウンターで撃墜する奴」

自動抵抗オートレジストのことでしょうか」

「ああうんそれそれ、攻撃が届かないんでしょ? 攻略法とかあるの?」

「ないですね、封霊具を使えばある程度は抑えられるのでしょうが……それも、制約が多くて」

 ルアードの疑問に答えるが、確かにあの日辺り一面を炎の海にした赤髪の悪魔ではあまりにも役不足であった。能力値で言えばそう強い部類ではない、使える霊力量も現在の自分達よりは上であったが大した相手ではなかった。せいぜい上位に食い込む程度の低級者。ルーシェルの強大な霊力では足元にも及ばない相手をわざわざ送り込んできたのだ。

 霊力とは魂に宿る力。

 魂は肉体に内在し、破壊されてしまえば外へと流れていく。霊力はコップの中に満たされた水によく例えられる、コップが肉体で水が霊力だ。水が少なければ取り出したとしても周囲への影響は微々たるものである、水の量が増えるほど霊力が潤沢に使える為階級は上がるのである。

 ルーシェルの霊力量は、コップから大量の水が溢れ周辺を覆っている状態だった。水の量が多い為コップという肉体に攻撃が通らない、彼女を傷付けるには同等以上の水――霊力でなければ不可能だ。だから、天界に単身やって来た時も自分が相手になったのだ。他の者では太刀打ちできないのは明白であったから。

「なんか、凄く弱くなってるらしいからって言ってたにゃ……多分勝てると思ったんじゃにゃいか? 魔界にいた時のルーシェル様だったらそこらの上級悪魔が束になっても勝てるわけにゃいのに、んにゃッ」

 うんうん唸りながら口にしていたリーネンから驚いたような声が上がる。毛布に包まれたまま、じろりとリーネンを睨み尻尾を引っ張るルーシェルの細い指が見えた。どうやら余計な事を言うなと言いたいらしい。

 道具で霊力を抑え込むことは不可能ではない。溢れた水ごとコップを袋に入れると言うのが近いだろうか、無理矢理押し込んで外に漏れ出さないよう縛り上げる。この場合封霊具が袋となるが、当然巨大でなければコップも水も入りきらない。抵抗されるのは当然であるのだから、檻に封霊の術を織り込んで捕らえた方がまだ現実的だった。現在自分達が置かれているこの状態は、封霊具で霊力を抑えられている状態に近いように思う。どういった理屈かはわからないが、増幅装置を介する事で僅かに術が使える状態だ。

「……程度を図っていたのかもしれませんね」

 霊力量、使用する際の制約の有無、現在のルーシェルの状況を把握するために捨て石にされたと考えるのが妥当だろう。赤髪のアステマは恐らくルーシェルを前に勝てると踏んだ、だから襲撃した。こちらの事情をある程度知っていたようであった、天使である私の事も、私と共にいる事も。どのような関係であるのかも探りを入れられたのかもしれない。

 つまりは、相手はこちらの様子を伺い知る事が出来るという事だ。だからあの赤髪の悪魔が命乞いをした時にすかさず殺した。余計なことを口走らぬようにだろう、あとは用済みになったからか。失敗したものを擁護する慈悲など悪魔にはない。殺し殺され、力こそ全て。自分より劣る者は容赦なく処分する。魔界とはそのような世界だと聞き及んでいる。

 どこかに目があるのだろうか。

 リーネンは現在ルーシェルの使い魔として完全に支配下に置かれている、契約を結ぶ前であるならまだしも彼女が魔界と繋がっているとは考えにくい。明確な意図をもってルーシェルの周囲を探る者がいる、指示を出すものが。空間転移、状況把握の為の目、即座に処分できるだけの力。どれをとってもそこらの悪魔にできる芸当ではない。

「――現在、魔王不在の席を補っているのはどなたなのです?」

 いくら統治が形だけのものだとはいえ、このような状態で王の座が空席だとは考えにくかった。自己本位かつ協力的でない悪魔達を纏めるには圧倒的な力が必要だ。その者がルーシェル抹殺の指揮をしていると考えるのが妥当だろう、下剋上が常の世界ではあるが魔王暗殺を企て実行するなど、そこらの悪魔に出来る芸当ではない。

「死霊王さまだって、アステマ様は言ってたにゃ」

 リーネンが口にしたあざなは聞いた事のあるものだった。確か、四大諸侯内の実力者だ。

 死霊王ベルゼブル。死の王であり死者の魂の運び手、魂の支配者、死霊の王。

 ルーシェルに次ぐ地位と実力だった筈である。やはり、と納得するのだがしかし伺い見た当の本人は黙ったままリーネンの言葉を聞いている。表情一つ変えない。

「何故貴女は狙われるのですか」

 彼女にとって配下とも呼ぶべき相手である、何か心当たりはないのかと問うが返答はなかった。

 魔王様が一番よく解っている――アステマはそう叫んでいた。踏み込むつもりはない、彼女の事情など自分には関係のない事である。それでもここまで執拗に狙われる理由は何なのだろう。

「……権力争いなど、どこにでもある話だろう」

 返ってきたのは酷く平坦な口調のものだった。取り繕うかのような感情のない声。

 思い当たる節でもあるのだろうか、少し視線が揺らいだような気がした。確かめるだけの間もなく、それ以上口にすることもなく。彼女は毛布を頭まで引き上げる。表情は隠れてしまった。もう寝る、と毛布の中から小さくくぐもった声が聞こえてきたきりルーシェルは黙り込んでしまった。

 ルーシェルさま? とリーネンは不思議そうに声をかけているがルーシェルからは反応が返ってくることはなかった。その様子をルアードと共に無言のまま見つめ、そうして互いに顔を見合わせる。何か言いたげではあったけれど、結局はやめたらしい。言いたくないなら仕方ないよねぇと器用に表情のみで表現しながら、青年はへらりと笑った。

「俺達もそろそろ寝よっか」

 音量こそは小さくではあるが明るく言い放つと、ごろりとルアードは仰向けに転がった。頭の下に腕を組んで天井を見上げながら、明日には移動できるといいねぇと間延びした声で呟く。

「……エルフの里にさ、湯治にも使われてる温泉があってね。里の中にあるやつだからエルフ以外使わないし、ゆっくりしていくのもいいね」

 ルーシェルさんもまだまだ本調子じゃなさそうだしねぇ。

 やわらかなそれは労りの声だったが、ルーシェルは黙ったままだった。かなりつらそうにしていたのだから、眠ってしまったのかもしれない。ルアードは明日には移動したいようだったが果たして動けるだろうか。右の親指で唇に触れる、確かに簡素なここでは回復はあまり見込めないのかもしれない。里が近いのなら多少無理をしてでも移動したほうがいいのかもしれない。

「ヨシュアさんは横にならないの?」

 ぱちぱちと乾いた音を立てる暖炉の前に椅子を置き、膝に毛布を掛けるこちらにルアードが声をかけてきた。

「私はもうしばらく起きています」

「そう? んじゃ俺は先に休ませてもらうよ」

 小屋の周囲に張られた結界のおかげで見張り役は必要ではないのだろう。おやすみーと言ってルアードは目を閉じた。旅をする以上、なるべく体力は温存しておくべきだと心得ているのだろう。人の子は脆い、真っ先にアーネストが寝ていたのも身体が資本だとよくわかっているからかもしれなかった。

 残ったのは自分と猫型悪魔。

 天使である自分を警戒してか、ルーシェルの傍でこちらをじいと見ている。頭の上の耳がやや後ろに反っていて、大きな琥珀色の瞳が訝しげにこちらを見ていたのである。

「リーネンさんもお話ありがとうございました。また何かありましたら教えてくださいね」

 こちらに敵意がない事、彼女の語った情報に感謝していることを告げようとひとつ微笑んだのだが。びっくりしたかのように小さく跳ね、何故だかリーネンははわわ、と何やら口元を押さえていた。

「天使って悪魔にお礼が言えるんにゃ……」

 信じられない、と声が、身体が、全身で語っていた。

 ……悪魔にとって天使とは一体どんな認識なのだろうかと。

 そんな事を考えながら夜は駆ける。

 

   ※


 暗澹。

 揺蕩う浮遊感。

 自分の腕すら見えぬような闇の中、水面に浮かぶようにゆらゆらと揺れている。

 絡みつく闇色の獣が数体、身体の至る所に牙を突き立てていた。指先を、爪先を、腕を腿を腹を乱暴に食い荒らされている。溢れる血は滴る事なく自分と同じように周囲を浮遊していた。緩く蜷局を撒くかのように散らばる肉片と血液。ぶちぶちと肉を引き千切る音、骨をへし折る音が煩い。本来あり得ない方向へと曲げられる関節の軋む音、咬合力に耐えきれず砕け散る肉体。

 生きたまま喰われようと、痛みは飽和して知覚は鈍麻していた。

 これは夢だ。未来永劫続く夢。

 抵抗する気もなくされるがまま肉を咀嚼する音を間近で聞いていた。意識は残しておいてやろうとでもいうのだろうか、首に噛みつかれ骨を砕かれたのにそれ以上上へはやってこない。フラッシュバック、目を開いていようとも閉じていようとも切り取られた映像が幾重にも折り重なって際限なく展開されていく。まるで浮かんでは消えるうたかたのように。食い散らかされた肉の残骸がちらちらと周囲を漂う。首から上だけ残されて、獣がべろりと頬を舐める。熱くて冷たい、吐息は死臭に塗れている。ああ、思考すら食い尽くされるのかともうない指が僅かに反応しかけた時。

 突然、ふ、と。獣達が霧散した。霞のように消えてなくなったのだ。

 あれほど繰り返されていた幾千もの映像が、ガラスが割れるかのように粉々に砕け散った。細かな破片はやはり自分を中心に緩く渦巻いており、黒く塗りつぶされ光源などない筈なのにきらきらと輝いていたのだった。

 何が起こったのか解らない。

 気付いた時には肉体も再生されていた、問題なく動く腕、脚、内臓を引きずり出されていた腹も何事もなかったかのように元に戻っている。

 どうして。

 胸の内が熱いのに気付く、何か、暖かなものが流れ込んできているのだ。なんだ、と手をやると胸の中から暖かな光が現れた。それがふわりふわりと周囲を舞う、まるでこちらを気遣うかのようなそれは酷くやわく発光していた。それがこちらを癒そうとしている。闇を払い、傷を癒し、柔らかな光がまるで何かを語りかけるかのように淡く瞬いた。暖かい。

 そう、と指先で光をつついてみるがただただ暖かなだけだった。

 そこで初めて、自分が酷く凍えていることに気が付いた。暖かな光に言いようのない安堵を覚える、は、と唇から小さく息が漏れ出ると同時に光が微笑んだ。様な気がする。光は光で表情などない筈なのに、何故だか柔らかく笑っているような気がしたのだ。

 

 おやすみなさい

 

 確かに声を聴いた。優しい声。暖かな場所。

 ふわりと光が弾けて綺麗だと思ったと同時に、まどろみに抱き留められ――

 はっと再び意識が覚醒した時、見開いた目は古ぼけた木の天井を捕らえていた。一瞬何処にいるのか解らず、己の胸を打ち付ける心音ばかりが耳を覆った。一体どれ程の間眠っていた。

 周囲は明るくなっていた。

 閉じられていた雨戸は開けられ、夜が明けた事が解った。明るい、けれどあの夢の中に現れたような暖かなものではないのは確かだった。

 ふと、暖かく柔らかなものが傍にあるのに気づいた。リーネンだ。気が緩みでもしたのか猫の姿になっており、ふわふわの腹を見せて大の字で眠っているのである。ぐいと押しのける、柔らかかく温かな毛皮が指先をくすぐった。実に幸せそうな表情で眠ったまま起きない使い魔にのんきなことだ、と溜息がこぼれて落ちる。寝ずの番はどうした。

 身体を起こす、痛みや倦怠感はなくなっていた。夢の後は酷く億劫なのにそれがないどころかすこぶる調子が良い、と思った所でわずかに残る霊力に気が付いた。どれも大したものではない、あくまでも補助的な働きをする程度の術のようだ、傷を癒す術、体力回復を促す術、あともう一つ――これは、夢を散らす術、?

 ……獣達が突然霧散したのは、天使が介入したからか。

「余計な事を……」

 忌々しく口にする。

 淡く柔らかな光、決して強烈ではないそれは天使が力を使ったからだ。夢を散らし、深い眠りへといざなう。きっと私が眠った後に術をかけたに違いない、天使の申し出を私が素直に聞くわけがないからとまるで騙し討ちのように。

 勝手な事を。

 回復霊術はまだしも、何故夢まで散らした。

 良かれと思ったんだろう事は想像に難くないが、だからと言って許せるはずもない。

「ルーシェルさんおはよぉ」

 既に起きて食事の用意をしていたらしいルアードがのんびりと声をかけてくるが。

 こちらの形相にびく、と。笑顔のまま肩を震わせた。

「……どこかまだ痛い?」

「あの馬鹿は」

 立ち上がってルーアドに問い詰める。痛みなどない、ない事がまた腹立たしい。ほぼ完治と言ってもいい、造血はどうとか言っていたが明らかに眠る前とは違う。あれほど放って置けと言うのに、どうしてあの男はこうまでこちらに関わろうとするのだ。

「え、……っと、他の二人は外で稽古してるよ」

 ひきつったままの笑顔でルアードが窓の外を指差す。

 外を見ると天使とアーネストが剣を交えているのが見えた。揺れる金と黒髪、撃ち合う金属音が耳につく。まるでお手本のような天使の動きは例えるならば静だ、対して人間にしては素早いが荒の目立つアーネストのそれはいわば動。

 ……どちらも随分と楽しんでいるらしい、生き生きと剣を振るう男二人を見ていると猛烈に腹が立ってきた。そうか楽しいか、私の気分は最悪だがな。

 音もなくナハシュ・ザハヴを呼び出すとルアードがぎょっとした。

「待って! 待ってルーシェルさん何する気!?」

 大鎌を片手に窓枠へ手をかけると慌てたように制止の声が上がる。

「私も稽古に参加してやろうと言うのだ」

「いやそれもう絶対殺す気じゃん! 殺気が凄いんだけど!」

「遅かれ早かれ殺すんだから別に今でも構わないだろうが!」

「いいわけないでしょ! いやちょ、ちょっと! 結構刃物でっかいな!」

 窓枠から飛び出そうとするこちらを止めようとしてか、ルアードがこちらの腕を掴もうとする。それを振り払おうとした時にナハシュの刃が男の頭の上を掠めていった。ヒィ、と表情を青ざめさせつつも果敢にこちらを取り押さえようとするのがまた怒りに油を注ぐ。

「私とあのクソ天使との問題だろうが! 邪魔をするな!」

 叫ぶが狭い室内である、無理矢理腕を取られたかと思うとそのまま羽交い絞めされてしまった。がらん、と大きな音を立ててナハシュが床に落ちる、後ろ手に両手を取られる。天使程ではないが自分よりも上背がある背後の男を睨みつけるがルアードはどういうわけだかこちらから慌てたように目を逸らした。

「駄目なもんは駄目です! あー腕ほっそい! なんかもういい匂いするし助けて!」

「何を言い出すんだ貴様は!」

「何これ御褒美なの拷問なのどっち!?」

「知るか! 私に触れるな!」

 放せと暴れるが自分よりも大きな男の手からは逃れられない。振り向きざまに蹴り上げようとした瞬間、がん、と乱暴に扉が開いた。騒ぎを聞きつけた天使とアーネストが慌てたように戻って来たのだ。

「何をしているんです!」

 血相を変えて声を荒げる天使、しかしひと汗かいて晴れやかな表情なのである。身体を動かし白い頬を高揚させている様にこれまたえらく腹が立った。勝手な事をしておいてご自分は楽しく稽古かこの野郎。

「いい御身分だな……ッ、」

 唸るように男を睨みつけるのだが。

「回復されたのは良いのですが、いきなり暴れるなど」

 こちらが何に腹を立てているのか理解していない男から返って来たのは呆れたような物言いと眼差しだった。別段取り繕う事もなく、元気になったのならよかったけれど準備運動くらいはした方がいいと言外で言ってるのが聞こえた。それはもうはっきりと。自身の行いに後ろめたい事など一つもないと全身で言っているのである。

「貴様勝手な事ばかり……!」

 相変わらず手を取られたまま、飛び掛かろうとしているのが解ったのかルアードがさらにきつくこちらの腕を掴む指に力を込める。

「いやもうほんと無理、無理だから! ちょっとヨシュアさん代わって!」

「私がルーシェルを押さえておけばいいのですか?」

「訳の分からない会話を展開するな! 貴様も良く解ってないままこちらに近づいてくるんじゃない!」

 不思議そうにしながらこちらに寄ってくる天使を蹴り上げようと身体を捻るも、これまたひょいとルアードに持ち上げられ空振りに終わる。

「余計な事をするな!」

「いや……てかさ、やっぱルーシェルさん軽すぎだって。ちゃんと中身詰まってる?」

「今そんな話をしていないだろうが!」


 

 


 

 余談ではあるが。

 主人である自分の命令を遂行せず、それはもうぐっすりと眠っていたリーネンはルーシェルに蹴とばされるまで起きなかったのである。

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