8 暗夜の礫
天界は七つの層に分かれている。
大地を人間界とするなら、地下にあるのが魔界であり大地より上に存在するのが天界だ。塔で例えるなら一階が地上、二階が第一天、三階が第二天と続き、神の住居である第七天まである。それぞれの階層がそれぞれ役割を持っており、己がいる第六天は天界全体の参謀本部かつ人間界の秩序と星、太陽、月の運行を支配していた。
強くあることは当然であった。
霊力の高さ、如何なる悪魔をも打ち滅ぼす力は熾天使ともなればなくてはならないものだった。
熾天使メタトロン。
それは、己の役割を明確にするあざなである。
熾天使とは三対六枚の羽根を背に持ち、神に最も近いとされる天使の最上位の存在の事を指す。メタトロンとは当然本名などではなく代々受け継がれる名であった。あくまで称号であり個人を表すものではない。
長く長い間ただ役割をこなし、ひたすらに剣の腕を磨いてきた。それは来たるべき悪魔との決戦の為であり、単純に強さを求められてきたからでもある。与えられた仕事をこなし、術を研鑽し、剣の腕を磨く。当たり前の事だった。熾天使ならずとも天に名を連ねる者なら誰もがする事である。特段特別な事ではない。
だから、このような状況になるなど思いもしなかったのである。
「いやあ凄いな兄ちゃん!」
わっと試合の結審後なだれ込んできた観客達の一人にばしんと背中を叩かれた。
突然の事に流石にぎょっとした。
「え、えと、」
「すっげぇ、あの勢いで叩かれても微動だにしないんだけど体幹どうなってんの」
「対戦用の剣木製っつったってクソ硬いイノスで出来てんだぞ、何したら粉々になるんだ」
「飲め飲め祝い酒だ!」
「いえあの私は、」
「誰だよ弱そうだなんて言ってたの強いじゃん! 俺の負けじゃん!」
「そりゃあご愁傷さまだなあ!」
各々が口々に喋りだす。言葉の濁流ともいえるような状況にさらされて、こちらの言葉など通りもしない。
彼らの言葉は偽らざる本音なのだろう事はなんとなくわかった、賭けに勝った人間も負けた人間も等しく笑っている。そうして掛けられる労いの言葉。それは、今まで受けた事のないものだった。人間達から口々に褒めたたえられている状況は初めての事だったのである。
「いやあ凄いねぇ、本当に強くってびっくりしたよ」
「ルアードさん」
人混みをかき分けて来てくれたのは見知った人物だった。
こっちこっちと彼に連れられてざわつく人々の波の中からようやっとはい出る。彼の手には勝ち券とでもいうべきだろうか、賭けの紙切れが握られていた。
「少しはお役に立てたでしょうか」
「もちろん!」
満面の笑みでいる彼を前に、散々迷った末の現状ではあるが結果良かったのだろうと思う。
ほうと、やっと息がつけたような気がする。ほつれた髪をさらりと流して、ああ、髪紐の一つでもあればよかったなと今更ながら考えた。
「アーネストが珍しく手合わせしたがってたよ、あいつがそんなこと言うなんてもうびっくりびっくり」
あいつ基本我流でやってきてるからさあ。
上機嫌に語るルアードに、光栄ですと微笑みを返す。
ほら上、と指さされて見上げればアーネストがこちらを見ているのがわかった。ぱちりと視線が合う、ひら、と手を軽く振るのが見えた。珍しい~ルアードも心なしか興奮気味である。己には何もないというのに、ここまで彼らを喜ばせることが出来たのならこれほど喜ばしい事はない。
だが、見上げた先に一番警戒すべき相手の姿が見えなかった。
木製とはいえ刃を振るえた高揚感が一転、すっと胸の奥が冷えたのがわかった。ルアードとも、アーネストとも離れている、傍に姿が見えない。いや、彼女がわざわざ彼らと共に行動するとは思えないがそれでも試合中は二階にいた筈だった。でも、今。彼女は、一体どこにいる?
ざわつく店内を見渡してみるも、彼女は小柄でここはあまりにも人が多い。視認できない。霊力が発露してさえしていれば感知する事も出来ただろうが、今はそれがない為に全く居場所が解らなかった。ぞわりと。肌が泡立つのが解った。
「どしたの怖い顔して、」
酒飲もう酒、何か食べようよとご機嫌なルアードが驚いたようにこちらを見た。
「……あの、ルーシェルは一体どこに?」
自分でも恐ろしく低い声だと思った。
びく、と先程までにこやかに笑っていた男の表情が強張った。
「え、と、二階にいた筈だけど、」
問いかけにルアードも自分と同じように二階に視線をやる、そこにアーネストがいるのは見えたもののやはりルーシェルの姿はなかった。……嫌な予感がする。
「探しましょう、」
人混みをかき分けて二階へと向かう。
軽い音を立てる階段を足早にかけ上げる、灯っているのにほんのりと薄暗いランプは暗澹を濃くする。
場内は熱気に溢れている。元来ここは人々の邪念が渦巻く場所だ。無力とはいえ、彼女は悪魔である。それもただの悪魔ではない、凶悪な悪魔を統率する魔界の王なのである。やはり目を離すべきではなかったのだ。
「あの、すみませんここに長い黒髪の女性を見かけませんでしたか」
二階にいる観客たちに声を掛けるが、自分を見て勝者だとさわさわとしている声は聞こえるものの、さっきまでそこにいたよとか、見ていないな、など。欲しい言葉は返ってこなかった。いよいよ言いしれぬ胸騒ぎがする、周囲を見渡すもやはり彼女の姿はない。
「まあほら、ルーシェルさんも一人になりたいとかあるんじゃないの?」
へらりとルアードは笑った。
常ならば、人であるのならそう考えるのもありなのかもしれない。だが彼女は人ではないのである。人類の敵であるのである。武器もなく術も使えないと言えども警戒すべき対象なのである。
「……彼女は悪魔達を統べる王です。人に害を齎さないとは言えません」
だから一刻も早く。
「あの小柄なお嬢ちゃんなら外に出ていったぞ」
背後から投げかけられる言葉に予感は明確な形をもって不安を掻き立てる。見知らぬ冒険者の二人組が、なあ、と互いに顔を見合わせてこちらに告げてきていた。
「あんな格好で一人外に出るなんて危険だって言ったんだけど」
「この辺細い路地もあるし、最近人攫いも頻発してるらしいし」
そと、うわごとの様に口から零れ落ちた。
夜。外に。制止する者のいない、たった一人で。闇夜は彼女の世界ではないか。
悪魔は人を誘惑し堕落させ、災いを齎す者。神に仇なす敵対者。何事もなければそれでいい、だが、事が起こってしまっては取り返しがつかない。彼女が人間を害する事がないという保証などどこにもないのだ。
「ちょっとヨシュアさん!?」
背後からルアードの呼ぶ声が飛んだが、構ってなどいられず外へと飛び出していた。
※
冷たい床の感触で目が覚めた。
のろ、と視線を動かすと薄暗い部屋の中なのだと解った。どこなのかは定かではないが、まあ真っ当な使われ方はしていないであろう小さな室内のようだ。黴臭くじめじめとした重く冷たい空気。小部屋というものでもないらしい、倉庫なのだろうか、生活に必要であろう物が何もない代わりに積まれた木箱や雑多なものであふれている。
周囲を警戒しつつ少し腕を動かしてみる、違和感のある通り後ろ手にぎっちりと縛られていた。これでは立ち上がることが出来ない。履いていたサンダルも連れられてくる間にどこかへ落したのだろう、素足だった。抵抗を封じられ、むき出しの石で出来た床の上に転がされているのである。芯から冷えるような寒気が身を包む。
周囲を窺うが人の気配はない。
扉のようなものが見えた、その傍に置かれた布袋。何か入っているようだが中身までは見えない。
何か、ここから脱出できるようなものでも入っていないだろうか。
腕を縛られたロープは頑丈で抜け出すことは不可能のように思えた。ならば、袋の中身を確認してから対策を練るのも遅くはないのかもしれない、そんな事を考えていたらけたたましい音と共に扉が開いた。否、蹴り開けられた?
「―――、、、、、、、、、」
頭上から響く男の声。
声色から先程の、フードを目深に被った男だと気づく。口元しか見えず表情は解らないが何が可笑しいのかけたけたと笑っていた。陽気に歌っているかのようにリズムをつけた喋り方であるが、相変わらず何を言っているのか解らない。……この状態でまともな事を言っているとは思えないが。じり、と身構える。人買いか何かだろうか、攫われたらしいことだけははっきりとしていた。人間風情になんたる情けなさ……じろりと睨み上げると、けけ、と男は不快な声で笑った。そうしてしゃがみ込み、起き上がる事すら出来ないこちらの前髪を乱暴に掴み上げた。引き連れる皮膚の痛みに僅かに顔を歪める。
「――――――、、、、、」
そうして頬に破裂音。
こちらの反応が少ない事が面白くないのか、叩かれたのだとわかった。遅れ来るじんとした痛み、口の中が切れたのか血の味がじわりと広がった。
「、、、、、、、?」
顔をのぞき込んでくる男から発される重低音。
苛立っている、先程まで陽気だったのに随分と短気な。気に入りの玩具を手にしたのに思い通りに動かないと苛立つ子供のそれだ。ぎりぎりと髪を掴む手に力がこもる、放せと言いたかったが言葉が違う事を知られる方が厄介だと理性が告げていた。人買いにまともな者などいる筈もないだろうが、それでもこれ以上余計な騒動は御免である。出来る事と言えば歯を食いしばり睨みつける事くらいだったが、目の前の男は何やら思いついたのか、に、と。口角を上げた。
キン、と空気がひりついたのが解った。何かしら力が発動したのだと気付く。
にたりとこちらを見る男の目がきらりと光った。フードの下から覗く金色に輝く瞳。
「……これでわかるよなァ?」
突然明瞭な言葉に息を飲んだ。
目を見開くこちらを、人とは思えぬ輝く金の瞳をした男が実に愉快そうに見ている。
言語変換。道具がなくても可能なのか。否、どこかに隠し持っていた?
人なのか、人ならざるものなのか判断がつかない。人間は魔力がないと言っていたが、魔石が道具として生活に根差しているようならこういう事も出来るのだろうか。
「おい何をふざけている」
思考が定まらぬ中に男がもう一人現れる。
こちらは目の前の男と同じ外套を着ていたが、フードは被っておらず表情が良く見えた。黒に近い茶色の瞳をした浅黒い肌の男だ、先程こちらに何か嗅がせてきた男だろうか。こちらもやはりはっきりと言っている言葉が解った。
「怪我をさせるなと言ってるだろう」
「こんだけ美人なら少々傷付いたって買う変態はいるさ」
訳が分からない状態でいるこちらなぞお構いなしに男達は言葉を交わしている。髪を掴んだまま放されない手、無理矢理に上を向かされて苦しい。
買う、と。言ったか。
発言が理解できるという事は、理解できないよりもより一層恐怖心を煽った。
「少々楽しんだって、なァ?」
下卑た笑い声と共にぱっと手を放された。どしゃ、と無様に床の上に叩きつけられる。
打たれた頬は相変わらず痛みを訴えており口内は鉄臭く。薄暗い室内。黴と埃に溢れ視界は狭隘。石造りの床は冷たくて痛い。ぴた、ぴた、とどこからか滴り落ちる雫の音が小さく反響している。
――他に、仲間はいるのだろうか。
冷静な部分がそう考えるものの、己の置かれた環境その全てが警鐘を鳴らしていた。
どくどくと早鐘を打つ胸、反撃も出来ない。
魔界は弱肉強食、強ければ生き弱ければ死ぬ。強者が弱者を蹂躙するなど当然の権利だ。弱いのが悪いのである。力こそ、霊力こそすべて。だから今、私は。力のない私は。抵抗する術を持たない私は。
こちらを見下ろしてくる男達の眼差しにあからさまな色が混じる。
にやにやと醜悪な笑みを張り付けて、向けられる欲に塗れた気配にぞっとした。後ずさろうとしようとも転がった体で何が出来るだろう。ずりずりと僅かだが距離を取ろうとするものの男達はこちらを見て笑っている。何をされるのか、己がこの後どうなるのか。弱者は強者に弄ばれる、逆らう事など出来る筈もない。ではただ受け入れるべきなのか? そうだ、それこそが己が生きてきた世界の秩序だった筈だ。唯一の法であり真理だった筈だ。唯々諾々と従うべきだ。
ずいと無遠慮に伸ばされてくる手、顔に落ちる影にぞわりと覚える感情は本能。
弱者は強者の玩具でしかない――身に染みて理解していたのに男の手に反射的に噛みついていた。悲鳴のような声が上がると同時に蹴り飛ばされたらしい、勢いをつけて部屋のいたるところに積まれた木箱へと叩きつけられる。箱が壊れて中から細々としたものが転がり落ちる、当然受け身など取れるはずもない。強かに背中を打ち付け一瞬息が止まった。
「とんだじゃじゃ馬だなァ」
咳き込む此方をに向かって、噛みついた手をひらひら振りながらフードの男が低く小さく。淡々と口にした次の瞬間胸ぐらを掴まれ再び床に叩きつけられた。後頭部を強かにぶつける、ぎりぎりと床の上へと押し付けられて縛られた腕が背中を圧迫する。冷たさと痛みに荒い息が喉の奥から漏れ出た、呻き声に気を良くしたのか、にやにやと再びうすら寒い笑みを浮かべたまま首に手を回された。そのままぎちぎちと両手で力を込められる。
「…………ッ、!」
苦しい。息が出来ない。
首を折らんばかりの力に頭を振って抵抗するも然したるものにはなりえなかった。
「おい、そっちは飯じゃないんだ殺すな」
「落としといた方がやりやすいだろうがよォ」
見開いた視界がぼやける、言葉が輪郭をなくし飽和して聞こえ始める。このまま意識を失えばどうなるのかなど、考えるまでもなかった。薄れゆく視界の中、男の淫猥な眼差しが、口元がすべてを物語っている。
いやだ、唇は言葉を刻むも音は発せられない。
必死に繋ぎ止めるも遠くなっていく意識の中で、縛られた手が何かに触れた。何が出来るでもない、それでも咄嗟にそれをきつく握りしめた瞬間。
己の内側から迸り、炸裂する力を確かに感じたのである。
※
どこにいるかも定かではない悪魔を探すために飛び出した夜の街であったが、意外と彼女を見かけた人間は多かった。やはり目立つ容姿と、あの白いワンピースが皆の記憶に残っているらしかった。
よく考えれば自分も彼女も、あの場にそぐわぬ格好だったのだろう。
自身が身を置いていた天界にはない暗闇は肌を侵食していくようでうすら寒い。ひやりとした空気、鼻腔を刺すように触れてくるそれは今まで感じた事のないものであった。
見かけた人間達に礼を言いながらルーシェルの行方を追う、どうも暗い方へ暗い方へと進んでいるようだった。やはり彼女は闇の眷属なのだ、陽の光を嫌いより闇の凝る場所を求めるのだろう。
細い路地、いくつか目の角を曲がった所で、突然夥しい量の力の渦を感じた。
「!」
ばっと空を見上げる、何かが蜷局を巻くかのように蠢いているのが解った。
「ヨシュアさん、あれ、……」
自分の後を追ってきたルアードも解るのか、同じ方角を呆然と見つめ空を指さしている。
それが誰のものであるかなど考えるまでもなかった。
永遠とも思える長い間対立してきた悪魔の気配。凄まじい霊力の放出である、この量を扱える相手など自分は一人しか知らなかった。天界で相まみえた美しい女悪魔。美しさは霊力の強大さと比例している、四対八枚の皮翼を背に持つ永遠に交わらぬ存在。
力は使えなかった筈である、それなのにこの霊力の濁流。何かあったのだと考えるのが妥当だろう。人間を。傷付けているのかもしれない。そう思うと足元がすくわれたかのようにひやりとするのだった。
きっと前を向く。
一刻も早く彼女の元へ行かねば。
気配を辿って再び駆け出す。
※
げほげほと激しく咽る。飲み込めなかった唾液が顎を伝い落ちた。
膝をついて喉元を押さえる、手を縛っていた筈のロープは弾け飛んでいた。縛られていた間無理に動いたからだろう、擦れて痛む手首、そうして身体を支える為床についた左手には馴染んだ感触。
「……どうして、……」
掠れた声色の呟きが床の上に転がる。
その手には、己の愛器である大鎌が握られていたのである。ぐいと顎を拭う。
何が起こったのかまでは解らなかった。あの時、掴んだ何か。それが己の霊力を爆発させたのか。
霊力は使えなかった筈である。だからこの半身ともいうべき愛器も呼べなかった筈なのに、どうして今この手にある。ぎゅうと握りしめる、呼応するかのように小さく反応を返すそれは今までと何一つ変わることなく。確かに自分と長年連れ添った大鎌ナハシュ・ザハヴである。
「このアマ……、」
衝撃で吹き飛ばされたらしい輝く金の瞳をした男が掴みかかろうとするも、己の手にある大鎌を見てぴたりと動きを止めた。相変わらずフードからは口元しか見えないが、驚いたとばかりに口を半開きにしていた。
「なんだそれ……お前、それ、どこから」
確認するように呟いたかと思うと、にたりと男の口が大きく横に広がった。
笑っている、のだろう。口元しか見えないというのに気狂いのような笑みを浮かべているのが解る、全身全霊で、おかしくて楽しくて仕方がないと言わんばかりの気配。
「なんだ、やっぱお前人間じゃないんだァ」
あはぁとフードの男が大口を開けて笑う、覗く歯は異様なまでに鋭く尖っていた。向けられるのは気が違ったかのような逸楽。ぞわりと総毛立つ。
「ナハシュ・ザハヴ……!」
こちらの呼びかけに手にした大鎌が反応を返す、横なぎに刃を振るえばゴッと。刃から放たれた疾風が建物をなぎ倒した。舞い上がる砂塵、がらがらと崩れ落ちる室内。周囲にはいくつか部屋があったのだろう、外から何人かの悲鳴が上がった。だが構ってはいられない。斬り伏せなければ。やられる前にやらなければ。逃げ道はないのだ、目の前にいる相手を薙ぎ伏せて、そうして、そうして。
踏み込んで男との間合いを詰める、背後まで振り切った腕を再び右上から左下へと叩きつけた。石床が砕かれるものの男はギリギリのところで避ける。だが随分と余裕のある動き。遊ばれている。
「すっげぇなァ!」
こちらの全力も難なくかわし感嘆とも取れる声が上がる。
は、と重い吐息が唇から零れ落ちる。早鐘の様に脈打つ拍動、上がる呼気、指先が冷たい。震える身体を押さえつけ柄から手が滑り落ちないようにきつく握りしめた。
「あんた強いんだなァ!」
ぎゃははとけたたましく笑うフードの男が崩れ落ちる屋根や柱を器用に避けながらこちらへと飛び掛かってくる、その動きは人間離れしていた。獣のようにしなやかに、凶悪に。向けられるのは純然たる殺意である。こちらへと伸ばされる腕、その爪はおよそ人とは思えぬ長さへと伸びている。
目深に被ったフードがちらちらと揺れる、そこから覗く瞳はぎらぎらと光る。
もう一撃放つために構えなおす。刃に術を乗せようとするが巧くいかない、ならば男の手を払いのけ隙を見て刃を直接叩き込むしかあるまい。得体のしれない人物相手にどこまで善戦できるだろうか。
そんな事を考えていたら突然ぐん、と。フードの男が後ろに引っ張られた。
そのまま床の上に投げ捨てられる、ぎゃ、とどこか間の抜けた悲鳴。
「なにすんだよォ!」
「時間切れだ、行くぞ」
呆気にとられるこちらになどお構いなしに、浅黒い肌の男がフードの男の腕を乱暴につかんで引きずっていく。これに反駁したのがフードを被ったまま脱がない男だ。
「あァ!? こっからが楽しいんじゃねぇか!」
「これ以上目立つのはまずい」
「んじゃ飯はァ!?」
「駄目に決まっているだろう」
ぎゃあぎゃあ騒ぐ男と対照的にこちらは淡々と告げていた。ちらりとこちらを射る浅黒い肌をした男の濃い瞳、感情が読み取れない。
「ちぇ、つまんねぇの」
しばらく暴れていたが、浅黒い肌の男がよしとしないからだろう。フードの男の声は引きずられながらも諦めたのか、随分と軽く口にする。歩けるよォ、掴まれていた腕を払って二人は歩きだす。構えたままのこちらから完全に注意がそれる、それは、自分など歯牙にもかけぬ存在であると告げているのと同義だった。
「じゃあね、綺麗なお姉さん。今度はもっとドンパチしようぜェ?」
言い捨てて、ひらりと二人の男は闇の中へと消えていった。
呆然とその遠くなっていく後姿を睨みつけていたがふら、と。強張っていた肩から力が抜けた。
がしゃ、手にしたナハシュ・ザハヴを床に突き刺して荒い息を繰り返す。周囲はもう人が集まり始めていて騒がしかった。己のいた部屋はどこだったのだろう、粗方吹き飛ばしてしまっていた。何故霊力がないのにナハシュを呼べたのか、爆発的に弾けた己の霊力だとか。あの時手にしたものが一体何だったのか、あのフードの男達は何だったのかなどと。
色々と考えなければならないのだろうがそれどころではなかった。頬を滑り落ちる汗、がたがたと震えの収まらない身体。浅く速い呼吸を繰り返しながら纏わりつくようなあの殺気を、好奇の目を、仄暗い室内の凝る闇を。振り払おうと、はあと一際大きく息をついた瞬間。
「ルーシェル……?」
名を呼ばれて反射的に顔を上げる。
ばちりと目が合う。そこにいたのは場違いな程に透き通った優しい空色の瞳をした、輝く金の髪を振り乱して愕然とこちらを見ている天使の姿だった。
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