9 真秀に高く黎明

 魔王の巨大な霊力を感じたのは一瞬の事だったが、ある程度場所を絞り込めたのが幸いだった。細く入り組んだ路地裏の先、使われていない倉庫群を見つけたと同時にその一角が突然内側から破壊されたのだ。空気を震わせる力の動き、疾風、人々の悲鳴。目的の場所はそこに違いないと飛び込んだ。

 人間の救助をと巻き上がる埃の中目を凝らせば、そこにいたのは巨大な鎌を片手にふらりと立っている一人の悪魔だった。ばちりと目が合う、薄暗い室内の中血のように赤い瞳を僅か瞠目させて。他に誰もいない、一体何があったのか崩れた壁、破壊された木箱などが散らばっている。

「ルーシェル……?」

 とっさに出たのは彼女の名だった。

 破壊された部屋、月明かりが照らし出す長くつややかな黒髪を千々に乱して、荒れ果てた室内に唯一人立ち尽くす悪魔。

「……なんだ、笑いに来たのか」

 掠れた声。

 自嘲的に笑う、その頬は叩かれたのか赤く腫れていた。

 唇から覗く赤黒いものは血だろうか、細い手首には縛られたような痕。折れそうに儚い頸筋にはくっきりと手の痕が残っていた。彼女の着ていた白いワンピースは埃と砂に汚れ、あちらこちらが破れている。足元に至っては裸足だ、白磁の肌が闇の中で一層病的に見える。

 声が、出なかった。

 流れるつややかな黒髪、白く透き通る肌、鮮やかな血のように紅い瞳。手にしているのは会敵した時に目にした刃自体から強大な力を感じる大鎌――彼女の身長よりもはるかに長大なそれは天界で名を聞くばかりであったナハシュ・サハヴだろう。魔王の証と呼ばれるそれを手にしているのだ、間違いなく目の前にいるのは魔界を統べる魔王ルーシェルだ。

 単身天界に乗り込み、殺戮の限りを尽くし、その強大な霊力故に誰一人として彼女を傷付ける事すら出来なかった怨敵だ。なのに、今眼前の彼女は一体どうしたというのだろう。どうして、呼べないとはっきり言っていた大鎌がこの場にある。

「あなた……一体、何があったのですか」

「貴様に関係があるか?」

 にべもなく吐き捨てられる。

 は、と。彼女の唇から浅い吐息が零れ落ちる、顔色が悪い。ふらふらとした足取りで立っているのもやっとと言わんばかりの風体である。何があったのか言いたくないのであればそれでもいい、だがだからといってそんなぼろぼろの状態の彼女を放って置く事など出来なかった。

「ともかく手当を、」

 腕を伸ばしかけて。

 びっと。

 巨大な刃が頬を掠めていった。

「寄るな……ッ」

 手負いの獣のように、ルーシェルは低く唸りながら切っ先を振り上げていた。目に映るものすべてを敵視している眼差し、睨みつけてくるものの血の気の引いた蒼白の頬、打たれ腫れた場所は異様に赤く。寄らば斬ると言わんばかりの気迫はさながら怯えた小動物の様に。

「誰も、私に、触れるな……、ッ」

 声が小刻みに震えているのがわかった。

 浅く早い呼吸を繰り返している。

 あの悪魔が。

 あの傲岸不遜な彼女がである。

「……恐かった、のですか……?」

 あなたともいう方がと。

 声色に滲んだのが良くなかったのだと思う。

 瞬間彼女の瞳に強烈な光が宿る。

「ほざけ……ッ」

 大鎌の刃をこちらへ向かって叩きつけられた。すんでのところでかわすがさらに踏み込まれる、下から上へと滑るように走る閃光。

「ちょ、ちょっと!」

 向けられるのは憎悪。青白い頬のまま目だけをぎらぎらと燃え上がらせて、彼女は全身全霊で厭悪をぶつけてくる。尚も斬りつけられるのを交わしながら、丸腰では危険と判断しとっさに床の上に転がっている鉄の棒と思しきものを手にする。霊力は使えないようだが、刃自体が力を持っているのが解る。

「……ッ」

 明確な殺意を持って打ち付けられる刃を避ける為に受け止める、が紙のようにするりと切り落とされてしまった。とっさに体をひねったため直撃は免れたがびっと頬に刃がすべっていった。ばっと後ずさって距離を取る。傷は深くはないが浅くもない、ぽたぽたと流れ落ちる血に魔王は少しは満足したのかふ、と。怖気が走るほど美しく笑みを浮かべた。

「――落ち着いて下さい、今ここで闘ってどうするというのです」

「貴様ら天使には解らないだろうさ……」

 艶然な笑みを浮かべたまま魔王はびっと手にした大鎌を横に突き出す。返答は意味を成していない。

「仄暗い闇、光芒亡き地、血肉と汚濁に満ちた醜悪なる世界」

 さながら呪いを歌うかのように。

「ただ安穏と空に座する愚昧で悪辣なお前達への憎悪を、この厭悪を、ただの一時でも想像したことがあるか?」

 怨嗟。怨嗟。

 怒りは絶望を孕んでいる。

 天使と悪魔は未来永劫交わらない存在だ。互いに向ける感情がただの他種族に向けられるものではないのは重々わかっていたことである。悪魔は人を堕落させ、天使は人を守る為悪魔を殺す。悪魔も、邪魔をされない為にこちらに刃を向ける――何千年と続いてきた、殺し殺されるだけの関係。憎悪の対象。だが。

 ここまで明確に悪意を向けられたことはなかった。

 殺意、憎悪、厭悪。

「……おきれいな天使様」

 一転ささやく様に。

 じゃり、と。廃墟と化した場に響く瓦礫を踏みつける音が耳に大きく響く。こちらへとの間合いを一歩、また一歩と詰めていく。じりじりと距離を取る、対峙する、その手には煌めく刃、反して自分はといえばこれといったものなど何も持っていなかった。そこらの廃材では斬り結ぶ事すら危うい。

 間近で見る彼女の顔色は相変わらず酷く悪く、目だけが異様に輝いていた。

「……その清らかさに、反吐が出る」

 すら、と。振り上げられる巨大な刃。

 月明かりを反射して鈍く光る、ぞっとするほどの美しさ。生き物の命を奪う事に特化したそれが振り下ろされたなら、いくら自分でも無事では済まないだろう。――避ける事は、恐らくそう難しくはない。けれどぜぇぜぇと浅く速い呼吸を繰り返し、酷く悪い顔色のルーシェルをどうしたらいいのかまでわからない。取り押さえて、手当と休息を与えるべきなのだろう。最適解が解っているはずなのに、全身全霊で拒絶しこちらを忌み嫌う彼女にどう触れたらいいのか解らなかったのである。

「何をしている!」

 第三者の声にびくりと肩を震わせた。彼女の注意がほんのわずかに逸れる、声の上がった方を見れば自分と同じようにルーシェルを探しに来ていたルアードの姿があった。

 ルアード……小さく彼女が口にした瞬間、ふ、と。彼女の体から力が抜けたのが解った。ルーシェルの体が大きくかしいだかと思えば、そのままふわりと倒れこんだのだった。


   ※


 ふわふわと、泥の底を揺蕩うような意識。

 暖かく柔らかな空間は眩しい程に光に満ち溢れている。薄く布に遮られているのか直接瞼を焼くことはなかったがそれでも十分明るかった。ぎゅうと閉じた瞼をもう一度強く瞑って、そうと開いてみる。

 優しく甘い香りがすると思えば可憐な小さな花が見える。

 ここは、ルアード達に連れられてやってきた宿屋の一室だった。ふわふわの寝具、先程見えた花はベッドサイドに置かれた花瓶に飾られていたものらしい。ちょうどその花瓶の水を変えていたリリーとぱちりと。目が合った。

 ぶわ、と。

 瞬間リリーは目に涙をいっぱいにためて。

「ルーシェルさん! ルーシェルさんが目を覚ましました!」

 よかったですー! と何やら叫びながら、どたばたすべんびたんと凄まじい音を立てながらリリーが部屋から飛び出していった。だんだんだん! と階段でも降りたのか上ったのか転がる音が遠くからする。

 なにがどうなっているのか。

 飛び出していったリリーの後ろ姿、ばたんと乱暴に閉まった扉を呆気にとられたまま見つめる。もぞりと身体を起こす、痛みはない。のろ、と上げた手首には真白い包帯が巻かれていた。首元も違和感を覚えるので指でなぞる、ざらついた布の感触。頬にも何やら貼られている、唇の端にも。丁寧に治療されたのだと解ったが、昨夜のことは実のところよく覚えていなかった。

 闘技場で試合を見届けて、色々と面倒になったから外に出て、そうしたら人とは様子の違う二人組の男に攫われたらしく――そのあと天使がやってきて、酷く腹が立ったのだけははっきりしていた。だから、苛立ちのまま天使を殺そうと――そこまで思い出してはっとした。

「ナハシュ・サハヴ……ッ」

 愛器の名を呼ぶ。

 周囲を見渡せばベッド脇の壁に立てかけられていた。黒い刀身、黒い柄には細かな金の装飾が施されている。意思ある武器。宿主を選ぶ刃。ほうと安堵が漏れ出た。あの時、己の霊力がナハシュを呼んだのだろう。どうして発現できたのかまでは解らないしまた霊力は使えなくなっているようだが、それでも心のよりどころにはなりえた。

 腕を伸ばして柄に触れる、ナハシュが僅かに振動音を返してくることが嬉しくてふ、と。口元が緩んだ。

 どたんばたん再び何やら騒がしい音がする、うるさい、と。ぼんやりと考えていたら。

「ルーシェルさん!」

 転がりながら入室してきたのはルアードだった。

 リリーと女将、アーネストと……ああ、やはり金髪の天使もいる。

「……なんだ」

 げんなりしながら問えば、なんだだ何だって! ルアードは吼えた。

 うおおよかったよお、言いながらリリーと手を取り合って喜んでいるらしい、何が嬉しいのかさっぱりなので訝しげに彼らを見やる。ルアードにアーネスト、リリーに女将と勢ぞろいである。天使は頬に大きなガーゼを張られて、少しばつが悪そうにこちらを見ていた。

「よかったよ、あんた三日も目を覚まさないから」

 女将がひょいとこちらの額に手をやる、熱はないようだねぇと言って笑った。

 されるがままに身を任せ、三日、思わず口にする。

 暴れたという自覚はまあ、なくはないが。

 それでも三日も眠り続けるとは思わなかった。その間この宿に運び込まれ、治療と着替えを済まされたわけだ。丁寧にまかれた包帯、ぼろぼろになってしまったワンピースは取り替えられ、またゆったりとした服へと変わっていた。

「何か食べられるかい」

「あ、パン粥、パン粥すぐできますっ持ってきますね!」

「え、あ、おい!」

 ばたばたとリリーがまた慌ただしく部屋から飛び出していった。まだ食べるともいらないとも言っていないのに気の早いことである。けれど、空腹というものは未だによく解らない感覚ではあるが。固辞する必要もあるまいと考え直す。あの状態のリリーが立ち止まるとも思えない。

「騒がしい事だ……」

「みんなルーシェルさんを心配していたんだよ」

 ルアードがにこにこしながら語りかけてくる。

「別に……大したことない」

「相変わらず素っ気ないねぇ」

 そんなところも素敵だけども!

 くるくると陽気に踊りだす彼を前に、アーネストの溜息と共に。なんとなく、日常が戻ってきたのだと思えた。こんなものが日常になってしまったことに対する一抹の不安はあるものの、なんとなく、そこまで嫌だとも思わないのだった。先日の夜の事を思えば身の危険を覚えないのはありがたいとも言える。

「お待たせしました~」

 リリーがいそいそとパン粥を持ってくる。

 小さなお盆に乗せられた、先日よりもずっと小ぶりな椀の中にほかほかと湯気の立ちあがる白く柔らかなものが入っていた。まずは少しずつからですね、こちらも何が嬉しいのか満面の笑顔である。

 それを見届けて、女将はじゃあまた何かあれば呼びなさいなと一言残して階下へといってしまった。リリーも、冷めないうちにどうぞと言うと女将の後に続いた。宿である、仕事もあるだろうに暇な事だ。

 かたり、と。小さな音がした方をみやれば、天使が窓を小さく開けていた。そよ、と。ほんの少しだが入ってくる風の流れが心地よい。僅かに目を細めたのをルアードは目ざとく気付いた、顔色が良くなったようで安心したよと穏やかな表情で言われるが返答に困る。黙っていれば滔々と喋りかけられそうで、そうか、と。それだけ返す。

「ああ、そういえばね。衛兵が話を聞かせてほしいって言ってたよ」

「衛兵?」

 スプーンを手に取れば、思い出したかのようにルアードが口にした。

「ええと、街の警護とかをしている役人さん。ルーシェルさんが捕まったのはどんな相手だったかとか、知ってることを教えてほしいってさ」

 何度か来てるんだよねぇ、まだ目が覚めないからってお帰りいただいてるんだけど。

 もぐ、とパン粥を口に運ぶ。

 空腹ではないが口が寂しいと言うのはあるのだろう、リリーが持ってきたパン粥は相変わらずふわふわと柔らかく、ほんのりと甘く、ほう、と。吐息が漏れ出る。喉を滑り落ち腹にたまる暖かいものは得も言われぬ安堵を連れてくる。

 ……あの夜の事、か。正直な所面倒ではある。

「協力は義務ですよ」

 顔にでも出ていたのか、こちらの正直な感情を読み取ったらしい天使が小さく口にした。

 なんだお前、珍しくずっと黙っていると思ったらちゃんと喋れるんじゃないか。答えるのも癪で天使の言葉を無視した。ええー喧嘩? ルアードの声が煩わしい。

 その時ごんごん、と扉を叩かれた。

「邪魔をする、衛兵のマディムだ」

 ぬっと入ってきたのは、随分とくたびれた表情のけだるげな男だった。

 黒い服を着て、年のころは三十かそこかだろう。随分とかっちりとした黒い服を着た黒髪の男で、似たような服装の若い女を一人供に着けていた。

「ああ、来られたよ」

 どうぞどうぞとルアードが招き入れる。

 どうも、ぼそりと告げ入室した男がちらりとこちらを見る、入れ代わり立ち代わりご苦労な事である。面倒くさいと言わんばかりの表情を隠しもしないこちらに、けれど男は顔色一つ変えず。

「病み上がりで申し訳ない、食事は続けていただいて構わないので先日の夜の事を聞きたい」

 事務的な問いかけを投げかけてきた。

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